三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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内藤昌豊(ないとう・まさとよ)
甲斐の人(1522~1575)
武田四天王に数えられる名将。
武田信玄の父・武田信虎(のぶとら)に背き父は逃亡したが、後に信虎が信玄らによって追放されると昌豊は信玄に召し抱えられた。
川中島の戦いで一隊を指揮し、主に上野方面で活躍し、国人衆の統率も任された。
もともとは工藤家の出身だが1570年頃に断絶していた武田家譜代の内藤家を継いだと見られる。
武田家の主要な戦の全てに参戦するなど信玄からの信頼厚かったが「昌豊ほどの弓取りならば、常人を抜く働きがあって当然」と感状を与えることはなく、昌豊も「合戦は大将の軍配に従い勝利を得るもので、いたずらに個人の手柄にこだわることはない」とそれを気にも掛けなかった。
感状は主君を変える際の再就職に用いられる側面もあり、主君を変えるつもりのない昌豊には、わざわざ与える必要が無いという主従の強固な信頼関係も垣間見える。
また四天王の筆頭格に挙げられる山県昌景(やまがた・まさかげ)は「武田信繁(のぶしげ 信玄の弟)と内藤昌豊こそは真の副将」と賞賛したという。
1575年、長篠の戦いでは山県昌景、原昌胤(はら・まさたね)とともに左翼を任されたが3倍近い圧倒的な戦力差を覆せず大敗。
武田勝頼(かつより)を逃がすため奮闘し、徳川家の兵に首を獲られた。
家督は養子の内藤昌月(まさあき)が継いだ。
昌月は養父と同じく箕輪城代として上野を守り、国人衆の調略を担当した。
1582年、武田家が滅亡すると信濃を追われた実父の保科正俊(ほしな・まさとし)を保護し、素早く滝川一益(たきがわ・かずます)に降り地位を保ったが、間もなく本能寺の変が起こり一益も撤退したため北条家に鞍替えした。
その後、徳川家との戦いで劣勢になると保科正俊は徳川家に寝返った。
昌月は北条家に残ったが1588年に39歳の若さで没した。
1590年、北条家が滅びると昌月の子は保科家に仕え、子孫は家老となった。また昌月の下の子は箕輪城を預けられた井伊家に仕えたという。