三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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飯富虎昌(おぶ・とらまさ)
甲斐の人(1504?~1565)
甲斐武田家の宿老。
はじめは武田家当主・武田信虎(たけだ・のぶとら)に反抗したが、降伏後は家老として重用された。
1538年、村上・諏訪連合軍との戦いでは首級97を挙げ、その勇猛ぶりから「甲山の猛虎」とうたわれた。
だが1541年、同じく宿老の板垣信方(いたがき・のぶかた)、甘利虎泰(あまり・とらやす)と共謀し信虎を今川家へ追放し嫡子の武田信玄を擁立した。
追放の理由は信虎の悪政、信玄の廃嫡、今川家の指示など諸説あり判然としない。
1548年、村上義清(むらかみ・よしきよ)との戦いで板垣信方、甘利虎泰がそろって戦死すると、虎昌は武田家の中核として信玄を支えた。
戦では常に先陣に立ち、信玄の嫡子・武田義信(よしのぶ)の傅役も務めた。
だが1565年、義信とともに信玄暗殺を企んだとして自害を命じられた。密告したのは弟(甥ともされる)の山県昌景(やまがた・まさかげ)だという。
背景には単純に信玄・義信父子の不和や、今川家との関係が悪化し、今川家から迎えた母を持つ義信が邪魔になった、虎昌の権力が強まりすぎて信玄に疎まれた等、様々な説があり、虎昌は義信をかばい進んで死を選んだともいう。
だが結局は義信も自害を命じられ、飯富家も断絶した。
家臣団は弟の昌景が山県家の家督とともに引き継ぎ、飯富軍の代名詞だった「赤備え(装備を赤で統一した軍)」も踏襲した。
昌景もまた武田軍を代表する勇猛さでその名を轟かせ、昌景が長篠の戦いで戦死後も井伊直政(いい・なおまさ)や真田幸村らが赤備えを受け継いでいった。