三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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真田家に仕えた。
1582年、武田家が織田信長に滅ぼされると、旧臣の真田昌幸(さなだ・まさゆき)は独立した。
彼の妻子は甲斐で人質に取られていたが、城を脱出し昌幸のもとへ向かった。
その途上、昌幸の子の真田信幸(信之)・幸村兄弟は追手を振り切ると、雁ヶ沢で一息ついた。
雁ヶ沢には急な断崖があり、雁でも下りていったら上がれないことから名付けられており、兄弟が「ここから飛び降りられる者はいないだろう」と話していると、嘉兵衛が名乗り出て、止める間もなく断崖に身を投げてしまった。
昌幸のもとにたどり着いた兄弟が顛末を話すと、昌幸は「赤沢ほどの勇士を下らんことで失わせるとは」と叱責した。
ところがそこに嘉兵衛が平然と現れた。この程度では死なないと自慢気に語るのを見るや昌幸の怒りは嘉兵衛に向かい「大事の折に命を粗末にする分別のない者など必要ない」と追放してしまった。
嘉兵衛はその後、徳川家康との戦いで首級を2つ挙げ帰参を許された。武勇に優れ生涯で自ら25もの首級を挙げたという。
月日は流れ、嘉兵衛の息子が嫁を迎えることになった。しかし主君・真田信之の側室(厳密に言えば信之は側室を置かなかったので愛人である)の姪だと聞き、嘉兵衛は「今後お前が出世しても妻のおかげと言われるだろう。侍たる者は志の良し悪しで評価されるべきだ。わしが槍一本で稼いだ百六十石はお前のような者にはもったいない。今後は加増は受けまい」と激昂した。
それからというもの、嘉兵衛は出仕をさぼりがちになり、たまに目覚ましい働きを見せれば翌日から仮病で引きこもり、言葉通り加増されないまま没してしまった。
死後、信之は嘉兵衛の息子に「あれほどの武士にはもっと禄を与えてやりたかったが、その隙を見せなかった」と嘆いたという。
嘉兵衛の武辺者ぶりは人外にも発揮される。
ある葬儀の折、棺を運んでいるとにわかに空がかき曇り、棺が宙に浮かび上がった。
死体を動かしさらってしまう妖怪・火車の仕業だと驚き、一人の武者が棺に飛びついた。そこに嘉兵衛も加勢し、棺に飛び乗り蓋を踏みつけ押さえ込んだ。
彼らの働きで無事に棺を取り戻し、この時嘉兵衛が火車を突き刺した槍が今も伝わっているという。