三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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柿崎景家(かきざき・かげいえ)
越後の人(1513?~1574)
上杉謙信に仕えた名将。
はじめは謙信の兄・長尾晴景(ながお・はるかげ)に仕えたが、家督争いが起こると謙信を支持した。
並外れて勇猛で戦では常に先鋒を務め、1561年の第四次川中島の戦いでは武田信玄の本陣を攻め、壊滅寸前にまで追い詰めた。
武勇一辺倒ではなく内政・外交手腕にも優れ、同じく上杉家を代表する名将である斎藤朝信(さいとう・とものぶ)とともに奉行職も担った。
北条家との同盟では次男の柿崎晴家(はるいえ)を人質に送るなど謙信からの信頼も絶大で、関東管領の就任式では朝信とともに太刀持ちを務めたという。
一方でこれは創作と思われるが、敵将の娘と恋仲になった謙信を諌め、娘を自害に追い込んだため謙信は生涯、妻をめとらなかったとする逸話もある。
1574年に62歳で病死した。
嫡子は前年に越中攻めで重傷を負っていたため次男の柿崎晴家が跡を継いだ。
景家は織田信長との内通を疑われ謙信に自害させられたとする俗説が広く信じられているが、これは誤伝である。
晴家は1578年、上杉家の家督争いで上杉景虎(かげとら)方につき、上杉景勝によって暗殺された。これも父と同じく織田家との内通を疑われ死罪を命じられたとする説があり、混同が見られる。
柿崎家は直江兼続の後見により晴家の3歳の長男・柿崎憲家(のりいえ)が継いだが1597年、普請役に異を唱えたところ兼続の逆鱗に触れ追放された。
その際には須田家、本庄家、高梨家に斎藤朝信の息子といった上杉家重臣の子弟も同時に追放されており、粛清の口実にされた感が強い。
なお上杉景勝の息子の代になってから憲家は、他の追放された子弟とともに帰参を許されている。
余談だが海音寺潮五郎の「天と地と」などで景家は脳筋・好色の人物に描かれたため「信長の野望」シリーズでは長らく武力90オーバー、知力10近辺、政治10~30な三国志の張飛さながらの脳筋キャラに設定されていたが、近年のシリーズではまず政治が60台に急上昇し、最新作「創造」では知略77、政治63の文武両道の名将にようやく評価し直されている。
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畠山義綱(はたけやま よしつな)
能登の人(??~1593)
1551年、前年に起きた内乱の責任を取り父の畠山義続(よしつぐ)が隠居したため家督を継いだ。
畠山家は実質的に「畠山七人衆」と呼ばれる重臣が合議の上で支配していたが、義綱父子は実権を取り戻すため1555年、七人衆の中心的人物である温井総貞(ぬくい・ふささだ)を暗殺した。
温井家は加賀一向一揆を招き入れ内乱を起こしたが、義綱父子はそれを鎮圧するとともに1560年頃には実権を奪い返した。
名家として能登という遠方にありながら足利将軍家とも親密に交友し中央政権にも関わったという。
しかし1566年、もとの七人衆である長続連(ちょう・つぐつら)、遊佐続光(ゆさ・つぐみつ)らが反乱し義綱父子を追放した。
父子は縁戚にあたる六角家のもとへ落ち延び、上杉謙信や神保家の援助を得て1568年には能登へ侵攻したが敗北し、その後も様々な手を尽くしたが復権はかなわなかった。
晩年は記録が少なく、義綱は豊臣家に仕えたともされるが定かではない。義続は1590年、義綱は1593年に相次いで没した。
能登に残された嫡子の畠山義慶(よしのり)は七人衆に傀儡として利用された末、1574年に急死し、跡を継いだ次男もその2年後にやはり急死しており、どちらも七人衆による毒殺と思われる。
七人衆は長続連が織田家と通じて権力拡大すると内部分裂し、上杉家、織田家の侵攻によりそのほとんどが討たれた。
長続連の子・長連龍(つらたつ)は織田家に救援を求めに行ったため生き長らえ、後に前田利家の家老として大成した。
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神保長職(じんぼう ながもと)
越中の人(??~??)
出自ははっきりしないが神保家の通称である宗右衛門尉(そうえもんのじょう)を名乗っていることから後継者を自認していたことは確かなようである。
没落していた神保家を再興させ、越中最大の勢力にまで発展させた。
1559年、椎名家を攻撃し上杉謙信に仲裁されたが、それを無視したため謙信に攻め込まれ、富山城を放棄した。
能登畠山家に仲介してもらい上杉家と和睦したものの、今度は武田家と組んで椎名家を再度攻撃。謙信に再侵攻され敗北した。
だが謙信が引き上げたと見るやその背後を襲い撃破。しかし椎名家を滅ぼしきれず、激怒した謙信が戻ってくるとまたも畠山家に仲介を頼み、上杉家に降伏した。
1568年、椎名家が上杉方を離脱し、武田・一向一揆方につくと神保家も長職の嫡子・神保長住(ながずみ)を中心とした反上杉派と、長職と家老・小島職鎮(こじま・もとしげ)を中心とした親上杉派に二分された。
長職はこれまで親密にしていた一向一揆まで弾圧したため家中は内戦状態となり、上杉家の介入によって反上杉派は駆逐されたものの神保家には大きな亀裂が生じ、嫡子の神保長住は出奔して織田信長に仕えた。
その後、家中を半ば上杉家の家臣と化した小島職鎮が牛耳ると、危機感を覚えたのか長職は長住のつてを用い織田家によしみを通じた。
そして最晩年、突如として一向一揆と和睦し、反上杉の姿勢を明確にしたうえで史料から姿を消しており、間もなく没したと思われる。
跡を継いだ神保長城(ながなり)はやむなく反上杉路線を引き継いだが、当然のごとく上杉軍の侵攻を招き居城を落とされた。
神保長城は消息を絶ち、織田家臣として一時は富山城主に返り咲いた神保長住も旧臣の小島職鎮に城を奪われ、激怒した信長によって追放され大名としての神保家は滅亡したが、庶流の神保氏張(うじはる)が徳川家に仕え、子孫は旗本として存続した。
※アイコンは馬鉄
上杉景虎(うえすぎ・かげとら)
相模の人(1554~1579)
北条氏康の七男。はじめは北条三郎(さぶろう)と名乗ったとされる。
幼少期は寺に預けられ僧侶として育った。
1569年、一族の長老・北条幻庵(げんあん)の娘をめとり養子になり小机衆を率いたとされるが、北条家時代の彼の事績は判然とせず、北条氏秀(うじひで)の事績と混同されているとも言われる。
同年、武田信玄が北条・今川との三国同盟を破り今川家を攻めると、氏康は信玄を非難し代わって上杉家と同盟した。
翌1570年、三郎は上杉家に人質として送られ、上杉謙信の姪(上杉景勝の姉)をめとり上杉景虎の名を与えられた。なお景虎は謙信の初名である。
1571年、氏康が死去すると跡を継いだ北条氏政(うじまさ)は上杉家との同盟を破棄し武田家と再同盟し、景虎はいったん北条家に帰参したものの結局は上杉家に戻った。
1578年、謙信が急死すると後継者を指名していなかったため、上杉景勝と景虎の間で家督争いが勃発した。
景虎は謙信の叔父・上杉景信(かげのぶ)や謙信の養父・上杉憲政(のりまさ)、重臣の北条高広(きたじょう・たかひろ)らの支持を受け、北条・武田の後ろ盾もあり当初は優勢だったが、景勝はいち早く上杉家の居城・春日山城を占拠し先手を取ると、北信濃の領地を割譲して武田家と和睦した。
そして1579年、景勝は雪に阻まれ北条家の援軍が来られないうちに景虎を強襲した。
景虎の正室(景勝の姉)は降伏勧告を拒否して自害。上杉景信は戦死し、上杉憲政も景虎の子とともに何者かによって暗殺された。
景虎は北条家に落ち延びようとしたが、その途上で家臣の裏切りにあい孤立し、自害を余儀なくされた。享年26。
謙信は生前、景虎に家督を譲り景勝をその補佐に任じる目論見だったとされるが、諸説あり議論は決着していない。
※アイコンは劉繇
上杉憲政(うえすぎ・ のりまさ)
上野の人(1523~1579)
代々関東管領を務める山内上杉家に生まれたが、3歳の時に父が没したため家督は養兄の上杉憲寛(のりひろ)が継いだ。
しかしすぐに家督争いが持ち上がり、1531年、憲寛を追放し憲政が9歳にして家督と関東管領を継いだ。
1545年、勢力拡大する北条家を討つため憲政は関東の大名に号令を掛け8万もの大軍を集めた。
連合軍は北条綱成(ほうじょう・つなしげ)がわずか3千の兵で守る河越城を囲んだが、遠征に出ていた北条氏康は8千の兵を率いて引き返し、降伏を願い出て憲政を油断させると、夜襲を仕掛けて連合軍をさんざんに打ち破った。これが桶狭間、厳島と並び「日本三大奇襲」に数えられる「河越夜戦」である。
憲政は命からがら逃げ出したものの大損害を被り、求心力を失って山内上杉家は以降、一気に衰退していく。
そして1558年、馬廻りにまで離反されると越後の長尾景虎(ながお・かげとら)のもとへ落ち延びていった。
憲政は景虎を養子に迎えると関東管領を譲り(1561年説もある)景虎は改姓して後に上杉謙信を名乗った。
関東侵攻の大義名分を得た謙信は北条方に寝返った旧憲政方をあるいは滅ぼし、あるいは再度寝返らせ、関東に号令を掛けると大軍で北条家の本拠地・小田原城を包囲した。
一方で憲政は隠居・剃髪し表舞台から姿を消した。
1578年、謙信が死去すると2人の養子である上杉景勝(かげかつ)と上杉景虎(かげとら)の間で家督争いが起こった。
憲政は北条家からの養子である景虎方についたが、越後の国人衆や武田家に支持され、参謀の直江兼続に支えられた景勝を相手に劣勢に陥った。
憲政は景虎の嫡子とともに和睦交渉に赴いたが、その途上で景勝方の武士によって2人とも暗殺された。
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真田信之(さなだ・のぶゆき)
信濃の人(1566~1658)
真田昌幸(まさゆき)の長男。真田幸村は弟。はじめは真田信幸(のぶゆき)の字を用いた。
策謀家で知られる父、日本一の兵とうたわれた弟にも劣らぬ勇猛さで「信濃の獅子」と呼ばれ、残された羽織などから当時としては並外れた長身の185センチと推定される。
真田家は武田家に臣従していたため幼少期は人質として育った。
1582年、武田家が織田信長に滅ぼされると、同じく人質だった母を伴い父の待つ上田城へと逃れた。
昌幸は織田家に鞍替えしたものの3ヶ月後に信長が本能寺の変で討たれ、東部戦線が崩壊。信濃は北条・上杉・徳川の三者による争奪戦に巻き込まれた。
はじめは北条家に従い川中島で上杉軍と戦ったが、徳川家に仕える昌幸の弟・真田信尹(のぶただ)の説得により寝返り、沼田城を奪った。
北条軍の反撃にあい手子丸城を奪われると、800の兵を率いた17歳の信幸は城兵を挑発しておびき出し、伏兵でさんざんに叩いた。守る富永主膳(とみなが・しゅぜん)は5千の兵で籠城したが、信幸は一部隊を城内へ潜入させると反乱と偽り同士討ちを誘い、混乱の隙に自ら決死隊を率いて突入し、見事に陥落させた。
後に徳川家に仕えた富永主膳は、若き信幸の巧みな采配ぶりを酒席でたびたび披露したという。
その後、上杉家に鞍替えしたが台頭する豊臣秀吉に上杉家も降伏したため道を同じくし、1589年に家康とも和睦すると、真田家は徳川家の与力大名に付けられた。
父のもとでたびたび小勢ながら北条軍を撃退してきた信幸を家康は大いに気に入り、重臣の本多忠勝の娘・稲姫をめとらせ側近くに仕えさせた。
稲姫との初対面では、平伏する諸将のまげをつかみ無理やり頭を上げさせる稲に立腹し、手を扇子ではたき叱責したところ一目惚れされた、という逸話が広く知られるが創作である。
1600年、関ヶ原の戦いが起こると、昌幸の妻は西軍の指揮官・石田三成の妻の姉妹、幸村の妻は三成の腹心・大谷吉継の娘、信之の妻は東軍総大将・家康の腹心の娘と、真田家は複雑な立場に置かれた。
信幸は父を説得したが、昌幸と幸村は西軍に、信幸は東軍に付くことが決まった。
昌幸は引き上げる途中、信幸の沼田城に立ち寄り孫の顔が見たいと稲に申し入れたが、乗っ取りを危惧した稲は城門を閉ざし、家臣の家族を歓待と称して人質に取ったため「さすが本多忠勝の娘」と笑い昌幸は手出しせず帰ったという逸話が伝わる。
昌幸父子は上田城に籠り、大軍を率いて関ヶ原へと向かう徳川秀忠を足止めし多大な被害を与え、悪天候も重なり本戦に間に合わせなかった。
戦後、昌幸は改易となり、秀忠軍に同行していた信幸に父の旧領とあわせ9万石が与えられた。
信幸は父と弟の助命嘆願をし、本多忠勝もそれに同調したため死罪は免れ流罪と蟄居に留められた。
父との訣別を示すため真田信之に改名し、破却された上田城に代わり自身の治める沼田城を居城に定めた。
1614年からの大坂の陣には病気で出陣できず、二人の息子が名代として参戦した。
昌幸はすでに亡く、幸村は大坂方として奮戦し、家康を窮地に追いやる意地を見せ討ち死にした。
また無事に帰った息子らに母の稲は「実家の本多家で戦死者(稲の弟である)が出たのだから、あなた達のどちらかが戦死していれば忠義も示せて釣り合いが取れたのに」と言い放ったという。
戦後、信濃松代13万石に転封となった。加増ながら任地を変えられた(徳川秀忠による関ヶ原の意趣返しとされる)ことに信之は怒り、引き継ぐべき重要書類を全て焼き捨て、灯籠や植木さえ抜かせて持ち去ったと伝わる。
その後も第一線で働き続け1656年、実に91歳でようやく隠居し、長男もその子もすでに没していたため次男に家督を譲った。
ところが2年後に次男も没してしまい2歳の孫が当主になったため、信之は復帰し自ら政務をとった。
同年10月に93歳で逝去。文字通りに最後の最後まで生涯現役を貫いた。
真田家は松代藩で幕末まで続いた。
明治時代、信之が家康から拝領したと伝わる短刀が収められた箱が初めて開かれると、中には短刀ではなく、石田三成と内通する機密書類が入っていた。
温厚な人柄と伝わる信之の、父と弟を奪い故郷からも遠ざけた徳川家に対する静かな怒りがしのばれる。
※アイコンは董白
綾御前(あやごぜん)
越後の人(1524~1609?)
上杉謙信の姉。法名の仙洞院(せんとういん)でも著名。
長尾政景(ながお・まさかげ)に嫁ぎ、後に謙信の跡を継ぐ上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)を産んだ。
14歳の頃に嫁ぎ、2男2女に恵まれた。長男は早逝したが次男の景勝は後に上杉家の家督を継ぎ、長女はその景勝と家督争いの末に敗死した上杉景虎(かげとら)に嫁いでいる。
1564年、夫の政景が溺死すると(上杉家の軍師・宇佐美定満(うさみ・さだみつ)による心中とささやかれる)謙信に庇護された。
謙信死後の1578年、景勝と景虎の間で家督争いが起こると、綾御前は娘婿の景虎に味方しともに籠城したが、景勝方に敗れて娘と景虎は自害し、その子らは殺害された。
景勝の片腕として策謀を凝らし勝利に貢献した直江兼続は、皮肉にも綾御前が景勝に推挙したと伝わる。
その後は景勝の庇護を受け、関ヶ原の戦い後に転封された後も付き従い、1609年に没した。享年は86か82とされる。
真田家に仕えた忍者。
「真田三代記」に登場する霧隠鹿右衛門(しかえもん)がモデルとされるが、そもそも「真田三代記」は創作色の強い記録で架空の人物と思われる。
父は浅井家に仕えていたが、滅亡すると才蔵は伊賀にかくまわれ、伊賀三大上忍の百地丹波(ももち・たんば)に忍術を学んだ。
その後、山賊となったが猿飛佐助(さるとび・さすけ)と意気投合し真田家に仕え、真田十勇士に数えられた。
十勇士では佐助に次ぐ人気を博し、主役を務める作品も多い。
1615年、大坂夏の陣では徳川軍を撹乱し、家康の本陣に潜入し暗殺を狙うも失敗。佐助とともに豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)を大坂城から脱出させた。
山本勘助(やまもと・かんすけ)
三河の人(1493~1561)
武田信玄の家臣。伝説的軍師として長らく実在が疑問視されてきたが、近年の研究により山本菅助(読みは同じ)というモデルになったと思われる人物の存在が確認された。
本名は山本晴幸(はるゆき)で武田晴信(たけだ・はるのぶ)と名乗った頃の武田信玄に与えられたとされるが、「晴」の字は信玄が時の将軍から与えられたものであり、それを家臣に又貸しのように与えることは考えられない。
また「ヤマカン」の語源とされる。
以下の記述は内容の信憑性に乏しい「甲陽軍鑑」を基とする。というか勘助の業績は「甲陽軍鑑」以外の史料に見当たらない。
26歳または20歳のとき、武者修業の旅に出た。剣豪・上泉秀綱(こういずみ・ひでつな)の弟子と試合をしたというが、上泉秀綱が旅に出たのは勘助の死後であり、いきなり史実と食い違う。
10年の間、諸国を渡り歩き、兵法を学んだ。勘助の子孫を自称する者が、中国の大内家に仕えていたとするが、矛盾が多くやはり信憑性は低い。
1536年、駿河の今川家に仕えようとしたが、隻眼で足が不自由な、容貌も醜い勘助はあなどられ、仕官はかなわないまま9年の時を悶々と過ごした。
しかし次第に勘助の名声は高まり、1543年(9年の時を過ごしたはずがなぜか7年後である)、武田晴信に仕官がかなった。
同年、武田軍が信濃に侵攻すると、勘助は兵法を駆使し9つの城を落とす大功を立てた。
1544年には諏訪家を降したというが、史実では1542年のことでありここでも矛盾する。
1546年、武田軍は北信濃の村上義清(むらかみ・よしきよ)を攻めた。
だが反撃にあい、武田軍は総崩れとなりあわや全滅の危機に陥った。
そこで勘助は50騎を率いて陽動に出ると、巧みな采配で村上軍を迎え撃ち、「摩利支天」のようだと恐れられたというが、史実ではこの戦いは1550年のことであり「甲陽軍鑑」の作者にはもう少ししっかりして欲しい。
1547年、上田原の戦いで大敗した村上義清は国を捨て、越後の長尾景虎(ながお・かげとら 後の上杉謙信)を頼った。
いちいち突っ込むのも面倒だが、史実では村上義清が国を捨てたのは1553年、上田原の戦いは1548年である。
1551年、武田晴信は出家して武田信玄と号し、勘助もそれにならい出家し山本道鬼斎(どうきさい)と名乗ったが、史実での信玄の出家は1559年である。
1553年、上杉家に備え北信濃に海津城を築いた。城主となった高坂昌信(こうさか・まさのぶ)は「武略の粋が極められている」と讃え、対上杉戦での拠点となった。
そして1561年、上杉謙信は川中島に出陣すると、妻女山に布陣し海津城をうかがう素振りを見せた。
それに対し武田信玄は海津城に入ると、勘助と重臣の筆頭格である馬場信春(ばば・のぶはる)に策を求めた。
勘助らは別働隊で妻女山を襲い、上杉軍が山を下りたところで本隊に攻撃させる、世に言う「キツツキ戦法」を立案した。(キツツキがくちばしで木をつつき、驚いた虫が飛び出したところを食べる様にちなむ)
信玄はそれを採り上げ兵を二手に分け、早朝に馬場信春らに妻女山を襲わせ、自身は勘助とともに逃げる上杉軍を待ち構えた。
しかし翌朝、馬場軍が妻女山を襲うと、そこに上杉軍の姿はなく、逆に信玄の本隊の目の前に展開していた。
不意をついた上杉軍の猛攻により、武田軍は潰走した。
信玄の弟・武田信繁(たけだ・のぶしげ)ら多くの重臣が戦死し、その中には勘助の名も含まれていた。
ちなみに上杉謙信が単騎で信玄の本陣に突入して斬りかかり、信玄が軍配で刀を受け止めたとされるのは、この時である。
~山本勘助は実在したか~
「甲陽軍鑑」は1600年代の初頭に書かれ、そこに描かれた勘助の勇姿は大いに人気を集め、講談や浄瑠璃など物語上で脚色されていった。
しかし先に挙げたとおり時系列の誤りが異常に多く、武田家も実際以上に美化されていることから、「甲陽軍鑑」は偽作であるという意見は当初からあった。
史料の研究が進んだ明治時代には、勘助の存在自体が疑問視され、架空の人物と認識されることがほとんどだった。
しかし昭和44年、大河ドラマ「天と地と」の視聴者が、「山本菅助」の名が記された古文書を見つけ、鑑定したところ真物であると判明し、架空人物説に一石が投じられた。
平成20年、「山本菅助」に関する文書がさらに5通確認された。彼が山本勘助と同一人物、あるいはモデルとなったかは見解が分かれているという。今後の研究が待たれる。
ちなみに「天と地と」の原作小説には勘助は登場しておらず、もしドラマ版でも原作準拠で登場していなかったら、「山本菅助」の文書の発見は遅れ、現在でも架空の人物とされていただろう。
飯富虎昌(おぶ・とらまさ)
甲斐の人(1504?~1565)
甲斐武田家の宿老。
はじめは武田家当主・武田信虎(たけだ・のぶとら)に反抗したが、降伏後は家老として重用された。
1538年、村上・諏訪連合軍との戦いでは首級97を挙げ、その勇猛ぶりから「甲山の猛虎」とうたわれた。
だが1541年、同じく宿老の板垣信方(いたがき・のぶかた)、甘利虎泰(あまり・とらやす)と共謀し信虎を今川家へ追放し嫡子の武田信玄を擁立した。
追放の理由は信虎の悪政、信玄の廃嫡、今川家の指示など諸説あり判然としない。
1548年、村上義清(むらかみ・よしきよ)との戦いで板垣信方、甘利虎泰がそろって戦死すると、虎昌は武田家の中核として信玄を支えた。
戦では常に先陣に立ち、信玄の嫡子・武田義信(よしのぶ)の傅役も務めた。
だが1565年、義信とともに信玄暗殺を企んだとして自害を命じられた。密告したのは弟(甥ともされる)の山県昌景(やまがた・まさかげ)だという。
背景には単純に信玄・義信父子の不和や、今川家との関係が悪化し、今川家から迎えた母を持つ義信が邪魔になった、虎昌の権力が強まりすぎて信玄に疎まれた等、様々な説があり、虎昌は義信をかばい進んで死を選んだともいう。
だが結局は義信も自害を命じられ、飯富家も断絶した。
家臣団は弟の昌景が山県家の家督とともに引き継ぎ、飯富軍の代名詞だった「赤備え(装備を赤で統一した軍)」も踏襲した。
昌景もまた武田軍を代表する勇猛さでその名を轟かせ、昌景が長篠の戦いで戦死後も井伊直政(いい・なおまさ)や真田幸村らが赤備えを受け継いでいった。