三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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神保長職(じんぼう ながもと)
越中の人(??~??)
出自ははっきりしないが神保家の通称である宗右衛門尉(そうえもんのじょう)を名乗っていることから後継者を自認していたことは確かなようである。
没落していた神保家を再興させ、越中最大の勢力にまで発展させた。
1559年、椎名家を攻撃し上杉謙信に仲裁されたが、それを無視したため謙信に攻め込まれ、富山城を放棄した。
能登畠山家に仲介してもらい上杉家と和睦したものの、今度は武田家と組んで椎名家を再度攻撃。謙信に再侵攻され敗北した。
だが謙信が引き上げたと見るやその背後を襲い撃破。しかし椎名家を滅ぼしきれず、激怒した謙信が戻ってくるとまたも畠山家に仲介を頼み、上杉家に降伏した。
1568年、椎名家が上杉方を離脱し、武田・一向一揆方につくと神保家も長職の嫡子・神保長住(ながずみ)を中心とした反上杉派と、長職と家老・小島職鎮(こじま・もとしげ)を中心とした親上杉派に二分された。
長職はこれまで親密にしていた一向一揆まで弾圧したため家中は内戦状態となり、上杉家の介入によって反上杉派は駆逐されたものの神保家には大きな亀裂が生じ、嫡子の神保長住は出奔して織田信長に仕えた。
その後、家中を半ば上杉家の家臣と化した小島職鎮が牛耳ると、危機感を覚えたのか長職は長住のつてを用い織田家によしみを通じた。
そして最晩年、突如として一向一揆と和睦し、反上杉の姿勢を明確にしたうえで史料から姿を消しており、間もなく没したと思われる。
跡を継いだ神保長城(ながなり)はやむなく反上杉路線を引き継いだが、当然のごとく上杉軍の侵攻を招き居城を落とされた。
神保長城は消息を絶ち、織田家臣として一時は富山城主に返り咲いた神保長住も旧臣の小島職鎮に城を奪われ、激怒した信長によって追放され大名としての神保家は滅亡したが、庶流の神保氏張(うじはる)が徳川家に仕え、子孫は旗本として存続した。