三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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上杉憲政(うえすぎ・ のりまさ)
上野の人(1523~1579)
代々関東管領を務める山内上杉家に生まれたが、3歳の時に父が没したため家督は養兄の上杉憲寛(のりひろ)が継いだ。
しかしすぐに家督争いが持ち上がり、1531年、憲寛を追放し憲政が9歳にして家督と関東管領を継いだ。
1545年、勢力拡大する北条家を討つため憲政は関東の大名に号令を掛け8万もの大軍を集めた。
連合軍は北条綱成(ほうじょう・つなしげ)がわずか3千の兵で守る河越城を囲んだが、遠征に出ていた北条氏康は8千の兵を率いて引き返し、降伏を願い出て憲政を油断させると、夜襲を仕掛けて連合軍をさんざんに打ち破った。これが桶狭間、厳島と並び「日本三大奇襲」に数えられる「河越夜戦」である。
憲政は命からがら逃げ出したものの大損害を被り、求心力を失って山内上杉家は以降、一気に衰退していく。
そして1558年、馬廻りにまで離反されると越後の長尾景虎(ながお・かげとら)のもとへ落ち延びていった。
憲政は景虎を養子に迎えると関東管領を譲り(1561年説もある)景虎は改姓して後に上杉謙信を名乗った。
関東侵攻の大義名分を得た謙信は北条方に寝返った旧憲政方をあるいは滅ぼし、あるいは再度寝返らせ、関東に号令を掛けると大軍で北条家の本拠地・小田原城を包囲した。
一方で憲政は隠居・剃髪し表舞台から姿を消した。
1578年、謙信が死去すると2人の養子である上杉景勝(かげかつ)と上杉景虎(かげとら)の間で家督争いが起こった。
憲政は北条家からの養子である景虎方についたが、越後の国人衆や武田家に支持され、参謀の直江兼続に支えられた景勝を相手に劣勢に陥った。
憲政は景虎の嫡子とともに和睦交渉に赴いたが、その途上で景勝方の武士によって2人とも暗殺された。