三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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宇佐美定満(うさみ・さだみつ)
越後の人(1489~1564)
上杉謙信の軍師。
父は越後守護・上杉家を補佐したが、権勢を強める守護代・長尾為景(ながお・ためかげ)と戦い敗死した。
定満も叔父とともに長尾家と戦うも、1536年に敗れ、父の仇である長尾為景に降伏した。
為景が没するとその子や、孫の長尾景虎(後の上杉謙信)に仕え、軍師として采配を振るった。
1564年、一時反乱するなど野心深き謙信の義兄・長尾政景(まさかげ)とともに野尻池で溺死した。
単なる事故死ではなく、引き上げられた政景の遺体には刀傷があったといい、定満の道連れによる暗殺と考えられている。
だがその死には諸説あり、溺死する2年前に武田家との戦いで討ち死にしたとも伝わる。
また17世紀に紀州藩に仕えた宇佐美定祐(さだすけ)という人物が、当時流行していた武田信玄の甲州流軍学に対抗し、上杉謙信の越後流軍学を唱えた際、その考案者にして自分の先祖だと宇佐美定行(さだゆき)なる謙信の軍師の存在をアピールした。
越後流軍学もまた流行し、宇佐美定行の名は世に轟いたが、そのモデルが定満だと考えられ、翻って宇佐美定行は定満の別名としても知られるようになった。
なお定満の次男は宇佐美勝行(かつゆき)といい、定満が実際に定行を名乗っていた可能性は大いにあり、それを(実際に子孫だとすれば)定祐が知っていても不思議はあるまい。
板垣信方(いたがき・のぶかた)
甲斐の人(1489?~1548)
武田二十四将、武田四天王の双方に数えられる武田家の宿老。
武田信玄が父を追放し家督を継ぐと、甘利虎泰(あまり・とらやす)とともにいち早くそれを支持し筆頭家老として仕えた。
1542年、諏訪家を降し当主を死に追いやると、信方に諏訪の統治が任された。
信方は諏訪衆を率いて多くの戦で大功を立てたが1548年、村上義清(むらかみ・よしきよ)との戦いで大敗を喫し、甘利虎泰とともに討ち死にした。
家督は嫡子の板垣信憲(のぶのり)が継いだが器量は父に遠く及ばず、信玄の不興を買い追放されついに誅殺された。(私怨から同僚に斬り殺されたともいう)
しかし信玄は板垣家が絶えるのを惜しみ、信方の娘婿に命じて家督を継がせた。
娘婿もまた長篠の戦いで討ち死にしたが、その子は武田家の滅亡後も真田家に仕え家名を保ったという。
出浦盛清(いでうら・もりきよ)
信濃の人(1546~1623)
武田家に仕えた忍者。甲州透破を統率した。
敵城へ配下を潜入させる際、先に自分が潜入し探索しておき、配下の報告の正確さを確認するほど優れた手腕を持っていた。
1582年、本能寺の変が起こると信濃の国人衆はそのほとんどが織田家に反旗を翻し、森長可(もり・ながよし)は敵中に孤立した。
だが盛清だけは森長可に協力を申し出、撤退を助けた。長可は深く感謝し、別れ際に自分の脇差しを与えたという。
翌年からは真田家に仕え、横谷幸重(よこたに・ゆきしげ)とともに「吾妻忍び衆」を統率した。
1590年の小田原征伐では忍城攻めにも加わり甲斐姫らと戦った。
甲斐統一を果たした武田信虎(たけだ・のぶとら)の嫡子として生まれる。
1546年、板垣信方(いたがき・のぶかた)、甘利虎泰(あまり・とらやす)、飯富虎昌(おぶ・とらまさ)らと共謀し信虎を追放し跡を継いだ。この父追放の理由には諸説あり、弟の信繁(のぶしげ)を寵愛され不仲だったとも、信虎自身の暴政が原因とも、はては板垣らが晴信を傀儡にして政権を牛耳るためともささやかれている。
信濃の守護・小笠原長時(おがさわら・ながとき)らはその機に乗じ攻め寄せたが、信玄はそれを打ち破り、逆に信濃に侵攻した。上野から援軍に駆けつけた上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)をも破り、信濃の南部を一気に制圧したが、北部を領する村上義清(むらかみ・よしきよ)に敗れ板垣・甘利らは戦死した。
その後も一進一退の攻防がつづいたが、真田幸隆(さなだ・ゆきたか 幸村の祖父)の策略で要衝を落とすと武田家が優勢に立ち、1553年には小笠原・村上の両名は越後の長尾家(のちの上杉家)のもとへ落ち延びていった。
長尾景虎(ながお・かげとら 後の上杉謙信)は村上義清らの要請を受け、信濃奪回のため兵を進め川中島で武田軍と激突した。晴信は敵対していた今川・北条家と三国同盟し後顧の憂いを断ち上杉との戦いに専念した。
両雄は外交戦でも争い、景虎は上洛し将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)の名をもらい受け輝虎(てるとら)と改名し、晴信は信濃の守護職を得た。またこの頃に出家し信玄の号を使い始めた。
川中島での戦いは5度・10年に及び、その間に武田家は信玄の弟・信繁や軍師の山本勘助(やまもと・かんすけ)ら多くの重臣が戦死したが、ついに決着はつかず痛み分けに終わった。
上杉との戦いを諦めた信玄は上野、ついで今川義元が桶狭間で戦死し今川家が衰退すると同盟を破棄し駿河に侵攻した。義元の娘をめとっていた嫡子の武田義信(よしのぶ)と傅役の飯富虎昌が反対したため、飯富虎昌を切腹させ、義信は廃嫡しのちに自害を命じた。
今川家を裏切ったことで北条家との関係も悪化し、北条は三河で独立した徳川家と同盟し信玄に対抗した。しかし山県昌景(やまがた・まさかげ)の奇襲が成功し北条軍は大破され、一時は小田原城も包囲された。
さらに北条氏康が病を得、東で佐竹・里見らが動き出したため北条軍は駿河の防備を緩め、1570年、武田家はついに駿河を占領した。
1568年、織田信長が上洛を果たし足利義昭(あしかが・よしあき)が15代将軍についたが、二人は対立し義昭は信長包囲網を布いた。それに呼応した信玄は、織田の盟友・徳川家の三河・遠江に侵攻し多くの城を落とした。
北条氏康が死去し、その遺言で武田家との同盟が修復され、背後の不安がなくなった信玄は西上作戦を開始。同盟関係にあった織田信長とは依然よしみを通じていたが、徳川領に多方面から進軍し、大攻勢をかけた。
浅井・朝倉・一向衆と対峙していた信長はわずかな援軍しか送れず、三方ヶ原で徳川家康は大敗した。
しかし信玄の持病が悪化し、武田家の侵攻は止まり、ついには撤退した。その途上に信玄は53歳で死去した。遺言では自分の死を3年の間秘することと、上杉謙信との同盟を命じたという。
江戸城で伊達政宗と行き会った時のこと、兼続は政宗を無視してすれ違った。政宗が「大名相手に無礼だろう」と憤ると、兼続は「戦場では逃げるあなたの背中ばかり見ていましたから、顔を見ても気づきませんでした」と返したという。(政宗は隻眼で有名であり気づかないわけがないのだが)
また兼続の家臣が下人を無礼討ちし、遺族が「無礼討ちされるほどの粗相はしていない」と訴え出たときのこと、兼続は調査を命じ、遺族の言うとおりだとわかると慰謝料を払った。しかし遺族はあくまで「下人を返せ」と言い募ったので、兼続は「お前たちがあの世に行って閻魔に頼んでこい」と遺族を殺すと、その首を川原にさらし、立て札に「この者どもを使いに出すから死人を返せ」と閻魔に向けた嘆願を書いたという。
信玄が死去すると、後を継いだ武田勝頼(たけだ・かつより)に疎まれ、織田信長との長篠の戦いに臨んでも、不利を説いたが聞き入れられなかった。
右翼を任されたが、数で劣る武田軍は中央の部隊が敗走し壊滅した。勝頼が退却したのを見届けると、信春は殿軍を務め戦死した。
その最期の奮戦ぶりは『信長公記』にも「比類なし」と記されるほどであった。
長篠の戦いでは絶望的な戦力差を悟りながらも中核として突撃し、多くの武将が退却戦で討ち取られる中、昌景は序盤戦で織田軍の銃撃の前に倒れた。
非常に小柄で風采も上がらなかったが、戦場に立てば「信玄の小男が現れた」と恐れられ、その死後に昌景の率いていた赤備えは、井伊直政(いい・なおまさ)、真田幸村らに模倣されるほど、その勇猛さは知れ渡っていた。
「真田十勇士」でも知られる屈指の忍者集団であった真田忍者の中でも筆頭格の実力者のはずだが、経歴を見ると
1583年 中山城に忍びこみ馬を盗む
1585年 白井城に忍びこみ馬を盗む
1618年 盗みを働いて農民に殺される
と、とても大忍者には思えない、というかただの馬泥棒なんじゃね? と思いたくなる生涯を送った謎の人物である。