直江兼続(なおえ・かねつぐ)
越後の人(1560~1619)
~経歴~
上杉家の家臣。上杉謙信の姉・綾御前に見込まれ、幼い頃から上杉景勝(うえすぎ・かげかつ 綾御前の息子で謙信の跡継ぎ)の近侍として仕えた。
樋口家に生まれたが、21歳の時に直江信綱(なおえ・のぶつな)が暗殺されたため、信綱の未亡人の婿養子になり直江家を継いだ。景勝に信頼され、若くして狩野秀治(かのう・ひではる)とともに執政を行い、秀治が死ぬと全権を任された。上杉家の家臣は景勝を「御屋形」兼続を「旦那」と呼び習わし、二頭政治を布いた。
新発田重家(しばた・しげいえ)が謀反を起こすと、水害に苦しめられたため、兼続は治水工事を行った。乱を鎮圧すると新田開発に励み、今の新潟平野の基礎を築いた。
豊臣秀吉にも目をかけられ「天下の仕置きを任せられる男」と豊臣姓を授け、たびたび招いたが景勝のもとを去ることはなかった。
秀吉が死に徳川家康が台頭すると、家康との関係は悪化。築城をとがめられると「直江状」として知られる挑発的な書状を送りつけ家康を激怒させ、会津征伐を決意させた。
家康が会津に向かうと、その隙を突き豊臣方を糾合した石田三成が挙兵したため、家康は西へと兵を返した。
上杉軍は大軍を擁し最上義光(もがみ・よしあき)の出羽へと攻め込んだが、志村光安(しむら・みつやす)らの守る長谷堂で激しい抵抗に遭い、数倍もの兵力差を持ちながらついに攻略できなかった。
石田三成は関ヶ原で敗れ、伊達政宗の援軍も駆けつけたため、上杉軍は撤退。危機に陥ったが兼続の巧みな采配と前田慶次らの奮戦もあり、辛くも逃げ切った。
兼続は景勝とともに家康のもとへ謝罪に出向き、赦されたが出羽米沢30万石へと大幅に減封された。石高を4分の1に削られながらも、兼続は「人こそ財産である」と家臣を手放さなかった。
その後は米沢でも開発に励み、大いに国を発展させ、60歳で死去した。
~皮肉屋の一面~
親交ある僧侶から「人は利を見て義を聞こうとしないものだが、直江兼続は利を捨て義を取った人である」と評され、兜の前立てには「愛」の一文字を飾った(もっともこれは信仰する愛宕権現、または軍神・愛染明王から取ったものであろう)ように、すっかり義と愛の人としておなじみになってしまったが、残された逸話からは兼続の皮肉屋の一面が見て取れる。
江戸城で伊達政宗と行き会った時のこと、兼続は政宗を無視してすれ違った。政宗が「大名相手に無礼だろう」と憤ると、兼続は「戦場では逃げるあなたの背中ばかり見ていましたから、顔を見ても気づきませんでした」と返したという。(政宗は隻眼で有名であり気づかないわけがないのだが)
また兼続の家臣が下人を無礼討ちし、遺族が「無礼討ちされるほどの粗相はしていない」と訴え出たときのこと、兼続は調査を命じ、遺族の言うとおりだとわかると慰謝料を払った。しかし遺族はあくまで「下人を返せ」と言い募ったので、兼続は「お前たちがあの世に行って閻魔に頼んでこい」と遺族を殺すと、その首を川原にさらし、立て札に「この者どもを使いに出すから死人を返せ」と閻魔に向けた嘆願を書いたという。