馬場信春(ばば・のぶはる)
名は信房(のぶふさ)でも著名。
甲斐の人(1515~1575)
~経歴~
武田家の家臣。始めは教来石景政(きょうらいし・かげまさ)と名乗ったが、武田信虎(たけだ・のぶとら)に処刑された名門・馬場家を継いで馬場信房と改名した。信虎の追放にも参画したという。
武田信玄の信濃攻めに大功があり、戦死を遂げるまで70回の戦に参加し、かすり傷一つ負わなかった。1562年に猛将・原虎胤(はら・とらたね)が隠退すると、美濃守の名を譲り受け、原虎胤と同じく鬼美濃(おにみの)の異名で呼ばれるようになった。山本勘助(やまもと・かんすけ)から伝授された築城の名手としても知られた。
1568年、衰退した今川家の駿河を攻めると、今川義元がたくわえた財宝を惜しんだ信玄は、燃え落ちる城から財宝を運び出すよう命じた。しかしそれを聞いた信春は「貪欲な者よと後世の物笑いになる」と周囲が止めるのも無視し、せっかく運び出した財宝を次々と火中に投げ込んでしまった。伝え聞いた信玄は「後世の名を惜しむとはさすがは信春、7歳上なだけはある」と恥じ入ったという。
信玄が死去すると、後を継いだ武田勝頼(たけだ・かつより)に疎まれ、織田信長との長篠の戦いに臨んでも、不利を説いたが聞き入れられなかった。
右翼を任されたが、数で劣る武田軍は中央の部隊が敗走し壊滅した。勝頼が退却したのを見届けると、信春は殿軍を務め戦死した。
その最期の奮戦ぶりは『信長公記』にも「比類なし」と記されるほどであった。