三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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大久保長安(おおくぼ・ちょうあん)
播磨の人(1545~1613)
徳川家に仕え財政を取り仕切り絶大な権力を握ったが、死後に不正蓄財が発覚し、多くの大名が連座して改易された。
猿楽師の大蔵信安(おおくら・のぶやす)の次男。
父とともに甲斐に流れ着くと、父は武田信玄のお抱えの猿楽師となり、長安は才覚を見出され土屋昌続(つちや・まさつぐ)に仕えた。
姓も土屋に改め、金山の開発や税務を任された。
1575年、長篠の戦いで兄と土屋昌続が戦死し、さらに1582年、武田家も滅亡すると徳川家康に仕えた。
長安が手掛けた邸宅の出来栄えに家康が感心したとも、長安自ら武田家の旧臣を通じて売り込んだとも、また一説には武田勝頼(たけだ・かつより)に疎まれ、猿楽師に戻り三河に移ったところを家康に迎えられたともいう。
徳川家では大久保忠隣(ただちか)の与力に付けられ、大久保姓を賜った。
本能寺の変の混乱に乗じて家康は旧武田領の甲斐と信濃を奪い、本多正信(ほんだ・まさのぶ)と伊奈忠次(いな・ただつぐ)に甲斐の再建を命じたが、実質的にそれを取り仕切ったのは長安とされる。
1590年、豊臣秀吉の命で関東に移った家康は、長安や伊奈忠次を奉行に任じ、また100万石にも及ぶ直轄領の代官として事務の一切を任せた。
1591年には武蔵八王子8千石(実質9万石)を与えられ、1600年の関ヶ原の戦いでは兵站を担当。
天下人となった家康からは全国の金銀山の開発の他、甲斐・石見・美濃・大和・佐渡の5ヶ国もの奉行や代官を同時に任された。
外様としては唯一の年寄(後の老中)の座に就いた長安は大名はおろかある意味では家康すら凌駕する絶大な権力を握り、日本中の武士が彼の顔色をうかがい、畏怖したという。
また関東の交通網を整備し、現代にも残る一里=三十六町、一町=六十間、一間=六尺という単位を制定したのも長安である。
しかし晩年には鉱山の採掘量が衰えるとともに家康の信頼も薄れ、全国の代官職も解任されていき、1613年に69歳で没した。黄金の棺に入れ豪奢な葬儀を催すよう遺言したとされ、死因は同時期に相次いで没した加藤清正、池田輝政(いけだ・てるまさ)、浅野幸長(あさの・よしなが)らと同じ腎虚とされるが、老齢でもあり清正らとは違いあまり暗殺説は囁かれていない。
その死からわずか十数日後、権力を隠れ蓑に莫大な不正蓄財をしていたことが発覚し、70~80人とも言われる側室に産ませ、不正にも関わった7人の男子は全員処刑され、一族や利益を得ていた石川康長(いしかわ・やすなが)ら諸大名が処罰された。
猿楽師の生まれ、事務方として徳川幕府の裏での暗躍、死後の電光石火の処罰は様々な憶測や興味を呼び、その生涯や人物像は多くの創作者によって脚色され、また陰謀論など戦国ファンの間では今なお論争が続いている。
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大久保忠世(おおくぼ・ただよ)
三河の人(1532~1594)
徳川十六神将の一人。
大久保家は家康の祖父の代から仕え、忠世の家は庶流ながら多くの武功を立てたため本家の勢力をしのいでいた。
忠世も弟の大久保忠佐(ただすけ)とともに武勇に優れ、1573年の三方ヶ原の戦いでは、敗戦後に意気消沈する味方を励まそうと、武田軍を闇にまぎれて銃撃し、武田信玄をして「勝ちても恐ろしき敵」と感心させた。(ただしこの逸話は下の弟・大久保彦左衛門(ひこざえもん)の著作によるもので信憑性は薄い)
また1575年、長篠の戦いでも活躍し織田信長から「良い膏薬のように敵に貼り付き離れない」と「膏薬侍」なるいかにも信長らしいあだ名を付けられた。
武勇のみならず政治手腕にも優れ、また出奔していた本多正信(ほんだ・まさのぶ)の帰参を助けたり、若く血気にはやる井伊直政をたしなめたりと、人格者の一面も併せ持った。
いざという時の出費に備え、1月のうち7日は断食して金を貯めていたという逸話も伝わる。
1594年、63歳で没した。
家督は嫡子の大久保忠隣(ただちか)が継ぎ、徳川秀忠に仕え絶大な権勢を誇ったが、突如として改易された。
忠隣は没するまで罪を赦されなかったが、死後に孫は帰参を許され藩主に復帰している。
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大久保忠隣(おおくぼ・ただちか)
三河の人(1553~1628)
徳川十六神将に数えられる大久保忠世(ただよ)の嫡子。
11歳で徳川家康に仕え、16歳で初陣を飾った。父とともに家康の下で戦い、三方ヶ原の戦いでは全軍が潰走するなか、家康のそばを離れず付き従い賞賛された。
1582年、本能寺の変の際には堺にいた家康に同行しており、伊賀を越えての逃避行に貢献した。
混乱に乗じて甲斐・信濃を奪うと領国経営を命じられ、後の大久保長安(ちょうあん)を抜擢し大いに腕を振るわせ、大久保姓を与えた。
1590年、小田原征伐後に家康が関東に移封されると、武蔵羽生2万石を与えられた。
さらに家康の跡取りとなる徳川秀忠の家老につけられ、1594年に父・忠世が没すると家督とともに遺領の相模小田原6万5千石を継いだ。
豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)が失脚した際、秀次は秀忠を人質に取り仲介役を強制しようとしたが、忠隣がそれを察して間に入り、巧みに時間稼ぎをしてその隙に秀忠を避難させたという逸話がある。
また家康が重臣を集め誰を後継者にすべきか論じさせた時、武勇に勝る結城秀康(ゆうき・ひでやす)や松平忠吉(まつだいら・ただよし)の名が挙がるなか、忠隣は武名で劣る秀忠の名を挙げたという。
1600年、関ヶ原の戦いでは中山道を進む秀忠に従い、途上の信濃上田城の攻撃を主張し、反対する本多正信(ほんだ・まさのぶ)と衝突。秀忠は攻撃を採用したが真田昌幸(さなだ・まさゆき)・幸村父子の激しい抵抗により甚大な被害を蒙り、また天候の悪化なども重なり関ヶ原の本戦には間に合わなかった。
1601年、上野高崎13万石への加増を断り秀忠のもとに残り、1610年には老中に就任し、征夷大将軍となった秀忠の片腕として、実質的に幕府の最高権力者の一人に上り詰めた。
しかし翌年に病で長男に先立たれると、失意のあまり政務に支障をきたし、家康や周囲の者の不興を買った。
さらに1613年、幕府の許可無く養女を他家に嫁がせ、秀忠の怒りまで買い、娘婿を改易された。忠隣も処分に憤り秀忠との関係が悪化するなか、大久保長安が没するとすぐさま莫大な不正蓄財が発覚した。
窮地に追い込まれた忠隣が謀叛を企んでいるという噂すら流れ、ついに翌年1月、改易処分が下された。
改易を伝える使者として板倉勝重(いたくら・かつしげ)が到着した時、忠隣は京の藤堂高虎の屋敷で将棋を指していた。勝重が来たと聞くや全てを悟り「流罪となっては将棋も指せなくなる。この一局が終わるまで待ってもらいたい」と言い、勝重もそれを許した。
京の民衆は処分を知ると、忠隣の謀叛による大乱を恐れ家財道具をまとめて逃げ出す準備にかかったという。
6日後には小田原城は本丸を残し取り壊され、無嗣断絶した叔父の大久保忠佐(ただすけ)の城も破却された。
忠隣は近江に配流となり、井伊直孝(いい・なおたか)に身柄を預けられ、わずか5千石の知行を与えられ蟄居した。
何度となく弁明書を提出したものの許されることはなく(家康の死後、井伊直孝が代わりに弁明しようとしたが幕府の怒りを買う真似をするなと忠隣が止めたという逸話も伝わる)1628年、75歳で没した。
大久保家は歴代の武功から存続を許され、忠隣の跡は孫の大久保忠職(ただもと)が継いだ。
その次代に小田原藩主に返り咲き、また忠隣に連座し謹慎していた次男の石川忠総(いしかわ・ただふさ)は早期に帰参を許され、大坂の陣で武功を立て大名に列している。
改易の理由として政敵の本多正信・正純(まさずみ)父子による陰謀論がささやかれるが、正信は小田原に残された忠隣の母や妻の消息を伝えており、むしろ親しい間柄にあった。
また忠隣の叔父・大久保彦左衛門(ひこざえもん)も正信は忠隣に恩があり、両者の間に諍いなど無いと断じている。
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伊奈忠次(いな・ただつぐ)
三河の人(1550~1610)
徳川家康に仕えた名臣。
1563年、父の伊奈忠家(ただいえ)は三河一向一揆に加わるため家康のもとを出奔した。
だが1575年、長篠の戦いで武功を立て帰参を許された。忠次は父とともに家康の嫡子・徳川信康(のぶやす)のもとに付けられたが、信康が武田家に内通した嫌疑を掛けられ自害を命じられると、再び父子は出奔し和泉堺へ逃げた。
1582年、本能寺の変が起こると堺を遊覧中だった徳川家康はわずかな供回りしか連れておらず窮地に陥ったが、忠次が足下に駆けつけ帰国を手伝ったため再び帰参を許された。
その後は奉行として頭角を現していき、兵站や交通網の整備を一手に担った。
1590年、家康が関東に移ると大久保長安(おおくぼ・ちょうあん)らとともに代官を務め、徳川家の関東支配と発展に大きく貢献した。
その際の逸話として以下の話が伝わる。
小田原城の米蔵の備蓄量を調べるよう命じられると、忠次はわずか数日でそれを終えてしまった。
戦国最大の巨城と言われた小田原城には無数の米蔵があるのにと、あまりの早さに家康がいぶかると、忠次は「米蔵を一つ一つ数えていたら膨大な時間がかかり、そのうえ正確ではなく、不正を働く者が出るかもしれません。だから付近の村長に命じて城に納めた租税の量を報告させました」と答え、家康を感嘆させたという。
1610年、61歳で没した。
内政担当のためその事績はあまり表に出ないが、関東全域の検地、開発、河川改修、治水工事などその働きは多岐にわたり、今日の関東の発展、首都東京の繁栄への貢献は計り知れない。
武士や商人はもとより農民にも養蚕や製塩技術、桑や麻の栽培方法を教えたためまるで神仏のように慕われたと言われ、次男で父の仕事を引き継いだ伊奈忠治(ただはる)ともども伊奈町として現在も(合併により忠治のほうは消滅したが)埼玉県に残っている。
また関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はそのほとんどが忠次の官位である備前守に由来している。
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以心崇伝(いしん・すうでん)
京の人(1569~1633)
徳川家康に仕えた臨済宗の僧侶。南禅寺金地院に住したため、金地院(こんちいん)崇伝とも呼ばれ、本来の姓は一色。
徳川幕府の法制立案、外交、宗教統制を担当し「黒衣の宰相」の異名を取った。
室町幕府の直臣である一色家の次男に生まれる。
名家の出で将来を約束されていたが、5歳の時に将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)が織田信長に追放され、幕府が滅亡したため南禅寺で出家した。
その後は官寺の中で最も格式高い南禅寺で学び、全国各地の住職を務め、1605年には37歳にして臨済宗五山派の最高位についた。
1608年、豊臣秀吉や家康の政治顧問を務めた西笑承兌(さいしょう・じょうたい)の勧めにより家康に仕えた。
すぐに信任を受け幕政に関わり、1610年には駿府城内に建立した金地院を与えられる。
諸大名はもとより明、朝鮮、タイ、ベトナムなど諸外国との交渉も手掛け、1613年にはバテレン追放令を起草した。崇伝の日記によると一晩で仕上げたとされ、その後も武家諸法度や禁中並公家諸法度を起草し、家康はその事務能力の高さをますます評価し、孫(徳川家光)の命名さえ相談するほどだった。
1614年、大坂の陣の発端となった方広寺の鐘銘事件で「国家安康」、「君臣豊楽」の文言に難癖をつけたのは長らく崇伝とされてきたが、近年の研究では疑問が持たれている。
1616年、家康が没すると葬儀を取り仕切った。だが吉田神道で神格化を行おうとすると、同じく僧侶で崇伝と並び称された南光坊天海(なんこうぼう・てんかい)が「山王之神道」なる聞いたこともない神道を持ち出し、家康の遺言であると押し切り、東照大権現として神格化した。
1627年には紫衣事件(朝廷が幕府に無断で紫衣を授与することを禁じ、構わず与えた天皇の勅許を幕府が無効にした)が起こり、それに反対した高僧を流罪としたことにより、幕府の法度は天皇の勅許に優先するという先例を作り、将軍家が天皇より優位だとする権威付けを果たした。
しかし強引な手法は反発も呼び、人々からは「黒衣の宰相」と呼ばれ、事件で処罰された沢庵宗彭(たくあん・そうほう)などは崇伝を「天魔外道」とさげすんだという。
1633年、65歳で没した。
崇伝のこなした多岐にわたる役割を受け継げる者などいるはずもなく、職務は分散して引き継がれていった。
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安藤直次(あんどう・なおつぐ)
三河の人(1555~1635)
幼少期から徳川家康に仕える。
1570年、姉川の戦いで初陣を踏み、以降の徳川家の重要な戦のほとんどに参戦した。
1600年、関ヶ原の戦いでは家康の使い番として奔走し、その後は本多正純(ほんだ・まさずみ)、成瀬正成(なるせ・まさなり)らとともに幕政を取り仕切った。
しかし直次の禄は同世代の家臣と比べて少なく、長らく5千石のままだった。
成瀬正成が家康に「直次だけが加増されていないが彼は一言も不満を言いません」と告げると、家康はただちに5千石を加増して大名に列し、さらに十年分の禄として5万石の米を与えたという。
1610年には家康の十男・徳川頼宣(よりのぶ)の傅役となり、1614年からの大坂の陣では13歳と幼い頼宣を補佐し采配を振るった。
1615年、大坂夏の陣では嫡子の安藤重能(しげよし)が戦死し、家臣が遺体を収容しようとするとそれを押しとどめ「犬にでも食わせろ」と見向きもせずに指揮を執り続け、戦後に嘆き悲しんだという。
ともに幕政を回してきた本多正純の人となりを観察し、直次は「いずれ改易されるだろう」と言った。
家康の死後、正純はすぐに2万石を加増されたが直次は「この後を見よ」と言い、さらに10万石を加増された時も「いよいよ滅びに近づいた」と言い、その理由を「かつて上様(徳川秀忠)が真田昌幸(さなだ・まさゆき)に敗れ関ヶ原の戦いに遅参した折、正純は父の本多正信(まさのぶ)に責任があるとして切腹させるべきだと家康公に申し出た。息子が父親を切腹させようとするなど天罰が下って当然である」と述べた。
間もなく正純は失脚し改易となり、直次の目の正しさが証明された。
1619年、頼宣が紀伊和歌山に移ると、直次も附家老として従い紀伊田辺に3万8千石を与えられた。
頼宣は長じると「自分が大名としていられるのは直次のおかげだ」と述懐した。
1635年、81歳で没した。
跡を継いだ次男も1年後に没したがその息子が跡を継ぎ、彼も亡くなると男子が無かったため、大坂の陣で戦死した重能の孫が家督を継いだ。
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天野康景(あまの・やすかげ)
三河の人(1537~1613)
幼い頃から徳川家康の小姓として仕え、家康が今川家の人質時代にも従っていた。
1563年、三河一向一揆では一向宗徒の天野家は多くの者が一揆方につく中、康景は家康のもとを離れなかった。
戦後には高力清長(こうりき・きよなが)、本多重次(ほんだ・しげつぐ)とともに三河岡崎の奉行を命じられその人柄から三者は「仏高力、鬼作左(重次)、どちへんなき(公平)は天野三郎兵衛」とうたわれた。
1586年には甲賀忍者の統率を任され、1590年に家康が関東に移封となると江戸町奉行に任じられた。
1601年、駿河興国寺に1万石を与えられ大名に列した。
だが1607年、備蓄してあった竹木を盗む者がおり、家臣が成敗したところ、幕府の直轄領の領民であった。
家康の命を受け本多正純(ほんだ・まさずみ)が下手人の引き渡しを求めたものの「公儀の民を私兵が討ったのだから、どう義理立てしてもかばいきれない」という発言に康景は激怒し「正しきを曲げて間違ったことに従うのは心掛けに反する」と息子とともに出奔してしまった。
その後は相模小田原で出家し1613年に77歳で没した。
ともに出奔した子の天野康宗(やすむね)は1628年に帰参を許され、天野家は旗本として存続した。
一家臣をかばい、公平ならざる価値観に激怒し地位をなげうった康景は、真実どちへんなき人物であろう。
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淀殿(よどどの)
近江の人(1569?~1615)
豊臣秀吉の側室で、秀吉の死後は実質的に豊臣家を支配した。
浅井長政とお市の間に生まれた長女で本名は浅井茶々(ちゃちゃ)。妹の初(はつ)、江(ごう)と三姉妹揃って著名。
1573年、浅井家が伯父の織田信長によって滅ぼされ、父、祖父と兄を処刑された。
母お市と三姉妹は伯父の織田信包(のぶかね)に預けられたが1582年、本能寺の変で信長が討たれると、母は織田家の重臣・柴田勝家に再嫁し三姉妹は越前北ノ庄に移った。
しかし翌1583年、勝家は秀吉に賤ヶ岳の戦いで敗れ、お市とともに自害し、三姉妹は秀吉に保護された。
その後は信長の次男・織田信雄(のぶかつ)や、信長の弟・織田有楽斎(うらくさい)、信長の妹・お犬(いぬ)の方や従姉の京極竜子(きょうごく・たつこ)らに庇護されたと伝わる。
かつて秀吉が懸想したという母お市は戦国一の美女とうたわれたが、茶々も母に生き写しと言われ、1588年に秀吉の側室となった。
翌年には無数の側室を抱えながら子宝に恵まれなかった秀吉にとって初の実子となる鶴松(つるまつ)を産み、喜んだ秀吉は茶々に山城の淀城を与えたため、淀殿と呼ばれるようになった。
鶴松は3歳で夭折したが1593年に次男の豊臣秀頼(ひでより)も産まれ、1598年に秀吉が没すると淀殿は幼い秀頼を後見し実質的に豊臣家の実権を握った。
1600年、関ヶ原の戦いでは、石田三成の挙兵の噂を聞きつけると、徳川家康に対し謀叛を事前に防ぐよう依頼した。
三成は毛利輝元(もうり・てるもと)を西軍の総大将として豊臣家の居城・大坂城に入れ、秀頼の出陣やお墨付きを求めたが、淀殿は頑として首を縦に振らず、豊臣家の立場を中立に近いものとした。
家康は淀殿からの依頼状を三成らの謀叛の証拠として用い、「豊臣家のために謀叛人を討つ」ことを大義名分とした。
また重臣で淀殿の乳兄弟であり、秀頼の実父の噂すらささやかれる大野治長(おおの・はるなが)は、家康の暗殺を企んだ嫌疑を掛けられ流罪となっていたが、淀殿の要請を受けてか東軍に参戦し手柄を立て、罪を赦されると家康によって、豊臣家に敵意のないことを伝える使者として大坂城に送り込まれた。
淀殿は家康を大坂城に招くと歓待し、自ら酒盃を与えるとそれをすぐさま秀頼に与えるよう求め、家康が秀頼の父代わりであると宣言したという。
だが家康は豊臣家に処罰こそしなかったが、全国の豊臣家の直轄領を東軍で戦功のあった大名に全て与えてしまい、豊臣家を実質的に一大名に転落させた。
一方で淀殿は毛利輝元ら五大老、石田三成ら五奉行の去った豊臣家をますます牛耳るようになった。
豊臣家と徳川家は水面下で対立していき1614年、ついに大坂冬の陣を招いた。
全国に号令を掛けたもののもはや豊臣家に従う大名はなく、改易された元大名や主君を失った浪人だけが応じ、その中で主力を担った真田幸村は秀頼の出陣を請うたものの、淀殿はそれを断った。
また豊臣軍の奮戦に手を焼いた家康は、兵を下げると大砲で昼夜を問わず城を狙い撃ち心理的な圧迫を掛けたが、そのうちの一発が淀殿居室を直撃して侍女を殺したため、震え上がった淀殿が講和を求めたともされる。
翌1615年、再度の侵攻を招くと真田幸村ら浪人の猛攻で、家康を窮地に追い込んだものの衆寡敵せず、燃え落ちる天守閣から逃れ秀頼や大野治長らとともに自害した。
大坂の陣を前に戦の趨勢を聞かれた細川忠興(ほそかわ・ただおき)は「秀頼は乳飲み子でお袋(淀殿)が専制を敷いている」と答え、即座に家康の勝利と断じた。
すでに成人していた秀頼が乳飲み子さながらに扱われているとの表現は、豊臣恩顧の大名としてつぶさに内情を見てきた忠興の言葉として説得力がある。
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毛利勝永(もうり・かつなが)
尾張の人(1577~1615)
森吉成(もり・よしなり)の子。
父とともに豊臣秀吉に仕え、九州征伐の武功から父に豊前小倉6万石、勝永にも豊前国内に1万石が与えられ、あわせて秀吉から毛利姓を名乗るよう命じられ、父は毛利勝信(かつのぶ)に改名した。
1600年、関ヶ原の戦いでは父は豊前にいたため、勝永が兵を指揮して伏見城の戦いで大功を立てた。
本戦では毛利家(中国地方の本来の毛利家)の安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)の指揮下に置かれたが、徳川家康と内通する吉川広家(きっかわ・ひろいえ)が毛利家の参戦を阻むため、前に布陣したまま動かず、ろくに戦闘に参加することなく終わった。
豊前小倉城も黒田如水に奪われ、戦後は改易され、土佐の大名となった旧知の山内一豊(やまのうち・かずとよ)に預けられた。
1614年、豊臣家と徳川家が戦闘状態になると、豊臣秀頼(ひでより)に招かれた。
しかし妻子を残していくのを気に病んでいると、妻は「心配ならば我々は海に身を投げましょう」と励ましたため参戦を決意し、勝永は若い頃に衆道の関係にあった当主の山内忠義(やまうち・ただよし)を助けたいと偽り、家族を人質に差し出して出立した。
長男が城を抜け出し、勝永ともども豊臣方についたと聞くと忠義は激怒し、勝永の妻子を軟禁したが、話を伝え聞いた家康は感心し、逆に彼女らの保護を命じたという。
勝永は豊臣家譜代の家臣ということもあり、真田幸村らとともに主力として迎えられた。
大坂冬の陣では幸村とともに野戦を支持したが容れられず、籠城戦となったため目立った活躍はなかったが、翌1615年の夏の陣で勝永の名は一躍、世に轟くこととなる。
緒戦、勝永らの救援が間に合わず後藤又兵衛(ごとう・またべえ)を見殺しにすると、幸村はそれを恥じて斬り死にしようとしたが、勝永は「死ぬならば秀頼公の御前で華々しく死のう」と言い翻意させた。
そして兵4千を率いて家康本隊の正面に陣取ると、先鋒の本多忠朝(ほんだ・ただとも)、小笠原秀政(おがさわら・ひでまさ)を相次いで討ち取り、足並みの揃わない浅野・秋田・榊原・安藤・仙石・松下・酒井・諏訪・六郷らの部隊を次々と撃破し家康の本陣にまで突入した。
徳川秀忠の陣を守り、遠巻きに見ていた黒田長政(くろだ・ながまさ)は驚き、加藤嘉明(かとう・よしあき)にあれは誰かと尋ねた。勝永だと聞くと長政は「この前まで子供のように思っていたのに歴戦の将のようだ」と嘆息したという。
しかし家康の叱咤を受け死にものぐるいの突撃を仕掛ける松平忠直(まつだいら・ただなお)によって真田幸村が討ち取られると、戦線は崩壊し退却を余儀なくされた。
その際にも勝永は追いすがる藤堂高虎、細川忠興(ほそかわ・ただおき)、井伊直孝(いい・なおたか)ら名だたる猛将を退け、無事に城内へ戻った。
翌日、豊臣秀頼の介錯を務めた後に切腹して果てた。享年39。
勝永の活躍は衆目を驚かせ、山内家は後に旧臣に命じて勝永の伝記をまとめさせた。
大坂の陣を見聞した宣教師は「勝永と幸村の猛攻により家康は色を失い切腹しかけた」と本国に報告したという。
しかし後年、「真田十勇士」などで幸村が講談の英雄として祭り上げられていくなか、勝永の存在は忘れられ、その武功も多くが幸村のものとして取り入れられていった。
早くも江戸時代中期の文人・神沢杜口(かんざわ・とこう)は随筆で「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」と記している。
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宮部継潤(みやべ けいじゅん)
近江の人(??~1599)
近江の国人衆の生まれで、比叡山で修行し僧侶になるも、還俗して浅井長政に仕えた。
文武両道に優れ織田信長との戦いで活躍したが1572年、羽柴秀吉に調略され寝返った。
継潤の治める宮部城は、浅井家の居城・小谷城を攻める上で欠かすことのできない要害であり、秀吉は甥で後の豊臣秀次(ひでつぐ)を養子として継潤に預けてまで調略している。(秀次の養子縁組は小谷城の陥落後に解消されており、事実上の人質である)
その後は秀吉の弟・羽柴秀長(ひでなが)に次ぐ重臣として遇され、1577年からの中国攻めでは山陽方面を秀吉が、山陰方面を秀長と継潤が攻め、秀長が山陽方面の援軍に赴くと、山陰方面の指揮は継潤が執った。
1580年には但馬豊岡2万石を与えられ、但馬の国人衆・垣屋光成(かきや・みつなり)、出雲の国人衆・亀井茲矩(かめい・しげのり)らは継潤の指揮下として戦い、実質的に一方面軍を担っていた。
1582年、信長が本能寺で討たれると秀吉は「中国大返し」と呼ばれる迅速な撤退で畿内に戻ったが、継潤は鳥取城に残されその背後を守った。
秀吉が山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いと中央での戦いに主力を投入できたのは、継潤が後方の備えを固めていたからである。
明智光秀、柴田勝家、織田信雄(のぶかつ)らを破った秀吉は西部方面に兵を返し、継潤も因幡・但馬の国人衆を率い九州征伐に加わった。(それに先立ち越中での佐々成政(さっさ・なりまさ)攻めにも動員されている)
1590年、小田原征伐を終え秀吉が事実上、天下統一を果たすと、継潤は家督を嫡子の宮部長房(ながふさ)に譲ったが、隠居はせずに第一線で働き続けた。
1592年、文禄の役では自ら渡海を願い出たものの秀吉の許可は下りず、翌年に大友義統(おおとも・よしむね)が改易されると豊後の検地を、さらに因幡銀山の採掘を任されるなど政務に関わった。
1596年、高齢を理由に隠居したが、その後も秀吉の御伽衆として側近くに仕え、裏から豊臣家を支え1599年に没した。
享年は64、71など諸説ある。
跡を継いだ長房は1600年、関ヶ原の戦いに際し西軍につこうとしたが家臣の反対にあった。
単身で陣を抜け出し、海を渡ろうと船を買収したものの、金を持ち逃げされ途方に暮れ、陣に戻ったところを拘束され、戦後に改易となった。
危うく死罪を命じられかけたが、かつて継潤に仕えた田中吉政(たなか・よしまさ)の助命嘆願により救われ、南部利直(なんぶ・としなお)に預けられ1634年に盛岡で没した。
晩年、西軍につこうとしたのは吉政に騙されたからだとする弁解を始めたが、吉政もその他の者も亡くなっており証拠がないため相手にされず、ただ恩を仇で返しただけだった。