三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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宮部継潤(みやべ けいじゅん)
近江の人(??~1599)
近江の国人衆の生まれで、比叡山で修行し僧侶になるも、還俗して浅井長政に仕えた。
文武両道に優れ織田信長との戦いで活躍したが1572年、羽柴秀吉に調略され寝返った。
継潤の治める宮部城は、浅井家の居城・小谷城を攻める上で欠かすことのできない要害であり、秀吉は甥で後の豊臣秀次(ひでつぐ)を養子として継潤に預けてまで調略している。(秀次の養子縁組は小谷城の陥落後に解消されており、事実上の人質である)
その後は秀吉の弟・羽柴秀長(ひでなが)に次ぐ重臣として遇され、1577年からの中国攻めでは山陽方面を秀吉が、山陰方面を秀長と継潤が攻め、秀長が山陽方面の援軍に赴くと、山陰方面の指揮は継潤が執った。
1580年には但馬豊岡2万石を与えられ、但馬の国人衆・垣屋光成(かきや・みつなり)、出雲の国人衆・亀井茲矩(かめい・しげのり)らは継潤の指揮下として戦い、実質的に一方面軍を担っていた。
1582年、信長が本能寺で討たれると秀吉は「中国大返し」と呼ばれる迅速な撤退で畿内に戻ったが、継潤は鳥取城に残されその背後を守った。
秀吉が山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いと中央での戦いに主力を投入できたのは、継潤が後方の備えを固めていたからである。
明智光秀、柴田勝家、織田信雄(のぶかつ)らを破った秀吉は西部方面に兵を返し、継潤も因幡・但馬の国人衆を率い九州征伐に加わった。(それに先立ち越中での佐々成政(さっさ・なりまさ)攻めにも動員されている)
1590年、小田原征伐を終え秀吉が事実上、天下統一を果たすと、継潤は家督を嫡子の宮部長房(ながふさ)に譲ったが、隠居はせずに第一線で働き続けた。
1592年、文禄の役では自ら渡海を願い出たものの秀吉の許可は下りず、翌年に大友義統(おおとも・よしむね)が改易されると豊後の検地を、さらに因幡銀山の採掘を任されるなど政務に関わった。
1596年、高齢を理由に隠居したが、その後も秀吉の御伽衆として側近くに仕え、裏から豊臣家を支え1599年に没した。
享年は64、71など諸説ある。
跡を継いだ長房は1600年、関ヶ原の戦いに際し西軍につこうとしたが家臣の反対にあった。
単身で陣を抜け出し、海を渡ろうと船を買収したものの、金を持ち逃げされ途方に暮れ、陣に戻ったところを拘束され、戦後に改易となった。
危うく死罪を命じられかけたが、かつて継潤に仕えた田中吉政(たなか・よしまさ)の助命嘆願により救われ、南部利直(なんぶ・としなお)に預けられ1634年に盛岡で没した。
晩年、西軍につこうとしたのは吉政に騙されたからだとする弁解を始めたが、吉政もその他の者も亡くなっており証拠がないため相手にされず、ただ恩を仇で返しただけだった。