三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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宮田光次(みやた・みつつぐ)
出身地不明(??~1578)
羽柴秀吉が近江長浜に城を与えられた頃からの重臣で「羽柴四天王」に数えられる。通称の喜八(きはち)でも著名。
四天王の筆頭格で、家臣団でも武勇第一と讃えられたが、1578年の播磨攻めで戦死した。
戦死の地は三木城、上月城、高倉城と諸説ある。
光次の死の翌年、秀吉は酒宴を開き家臣をねぎらい「我が家の家臣団も昔に比べ随分と盛んになったと思わぬか」と聞いた。
家臣らもそれに同調し「三倍になりました」「いや五倍です」と言い、秀吉も「それどころではない、十倍だ」と大笑いした。
すると竹中半兵衛が静かに「昔に劣ります」と述べた。秀吉が驚いて理由を尋ねると「宮田喜八が死にました」と答えた。
秀吉も在りし日の光次の勇姿を思い出し「半兵衛の申す通りだ」と嘆息したという。