三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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神子田正治(みこだ・まさはる)
尾張の人(??~1587)
豊臣秀吉の早くからの重臣で「羽柴四天王」に数えられる。姓は御子田と書かれることも多い。
はじめは父とともに織田信長に仕え、桶狭間の戦いや美濃斎藤家との戦いで活躍し、秀吉に請われて家臣となった。
その後は秀吉が関わった重要な戦のほとんどに従軍し、1583年の賤ヶ岳の戦いでは一軍を任され、戦後には播磨広瀬に1万2千石を与えられた。
しかし一説に軍学に優れたものの、それを鼻にかけ傲慢で皮肉屋な性格を秀吉に疎まれていたといい、1584年の小牧・長久手の戦いで殿軍を務めるも、他部隊が交戦中にも関わらず無断で戦線離脱したため改易となり、高野山へ追放された。
翌年には高野山も追われて諸国を放浪。豊後に流れ着き、1587年に秀吉の九州征伐が始まると帰参を願い出たが、これが藪蛇となりついに自害を命じられた。
同じく羽柴四天王で草創期からの重臣である尾藤知宣(びとう・とものぶ)もこの3年後に死を賜っており、正治の死は秀吉政権の転換期を象徴する事件であった。