三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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糟屋武則(かすや・たけのり)
播磨の人(1562~1601?)
姓は他に糟谷、粕屋、加須屋、賀須屋などとも記され、名も真雄、数正、宗重、真安、宗孝と多くの別名が伝わるが年代がばらばらで、子の名乗りも混じっていると思われる。
1562年、志村家に生まれる。母は黒田官兵衛の主君として知られる小寺政職(こでら・まさもと)の妹で、武則の兄・糟屋朝正(かすや・ともまさ)を産んだ後に離縁され、志村家に再嫁し武則を産み、未亡人となると糟屋家へ再び嫁ぎ、当主となっていた糟屋朝正に武則の養育を頼んだというやや複雑な出生である。
1577年、羽柴秀吉の播磨攻めに対し糟屋家は、はじめ別所長治(べっしょ・ながはる)につき三木城に籠もり秀吉と戦うが、黒田官兵衛の説得によって寝返り、武則は秀吉の小姓頭となった。
1579年、兄の朝正が三木城攻防戦で討ち死にし武則が家督を継いだ。
1582年、本能寺の変が起こると秀吉の中国大返しに武則も従い、続く賤ヶ岳の戦いでは目覚ましい活躍を見せ、加藤清正や福島正則らとともに「賤ヶ岳の七本槍」に数えられた。
その後も小牧・長久手の戦いや九州・小田原征伐に従軍する一方で行政面にも携わり、各地で奉行や代官に任じられた。
1592年、文禄の役では同じ七本槍の片桐且元(かたぎり・かつもと)ともに目付を務め、織田秀信(おだ・ひでのぶ)を補佐した。
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に属し伏見城攻めにも加わった。本戦では宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)のもとで戦ったとも、大坂城に残ったともされ判然としない。
敗戦後は隠居し家名の存続を図ったが翌1601年に武則が、さらに翌年に嫡子も死去したためあえなく所領没収となった。
死去の経緯には多数の異説があり、没せずに徳川家康に旗本として仕えた説や、はるか前の文禄の役から帰国後に何者かによって毒殺されたという説、後に大名に復帰するも大坂夏の陣で戦死した説と、それなりに著名な人物でありながらその最期はよくわかっていない。
加藤嘉明(かとう・よしあき)
三河の人(1563~1631)
嘉明は晩年の名で、繁勝(しげかつ)の名を長く用いたがあまり知られていない。
加藤家はもともと徳川家康に仕えていたが、嘉明の生年に起こった三河一向一揆で父は一揆方につき、流浪の末に羽柴秀吉に仕えた。
嘉明は福島正則、加藤清正らとともに秀吉の小姓として育ち、1583年の賤ヶ岳の戦いで活躍し三人とも「賤ヶ岳七本槍」に数えられた。
その後は主に水軍を率いて数々の戦に参加し、1586年に淡路1万5千石を得たのを皮切りに、1592年には文禄の役で李舜臣(り・しゅんしん)の朝鮮水軍と戦った功績で伊予6万石に、慶長の役では元均(げんきん)率いる朝鮮水軍を壊滅させ、兵糧攻めに苦しむ加藤清正を救援するなどの軍功で10万石に上った。
1598年、秀吉が没すると石田三成への反目から徳川家康に通じるようになり、翌年には加藤清正らの三成襲撃事件にも関与した。
1600年の関ヶ原の戦いでも東軍に加わり、前哨戦の岐阜・大垣城攻めから盛んに戦い、本戦でも三成の主力と激突した。
岐阜城攻めでは急戦を主張する井伊直政(いい・なおまさ)と慎重論の嘉明の意見がぶつかり、あわや斬り合いをしそうになるも、仔細に情報を分析すると嘉明は潔く直政の意見に同調し、一気に城を陥落させたため「沈勇の士」と讃えられた。
また領国の伊予でも家老の佃十成(つくだ・かずなり)が奇策で毛利軍を撃破し、加藤家は戦後、20万石に加増された。
1614年、大坂冬の陣では豊臣恩顧の大名であることから警戒され江戸城の留守居役とされたが、翌年の大坂夏の陣には徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)の麾下で参戦した。
1619年、福島正則が改易となると広島城を接収。1627年に会津の蒲生家が伊予へ転封になると、入れ替わりに嘉明が会津40万石に加増のうえ転封となった。
1631年、69歳で死去。家督は嫡男の加藤明成(かとう・あきなり)が継いだが、父と正反対に暗愚の明成は家老の堀主水(ほり・もんど)と醜い私闘を演じたため幕府の逆鱗に触れ、隠居の上2万石に減封された。
全くの余談だが「武将風雲録」では髭面のおっさんなのに8歳で登場するためインパクト抜群である。
~冷静沈着~
岐阜城攻め以外にも冷静さを感じさせる逸話が数多く伝わっている。
ある時、小姓が囲炉裏で火箸を焼いて遊んでいると、不意に嘉明が現れたためあわてて火箸を灰の中へ落とした。
嘉明はそうとも知らず何気なく火箸をつかみ大火傷を負ったが、顔色ひとつ変えずに火箸を元に戻したという。
またある時、近習が嘉明秘蔵の10枚一組の小皿のうち1枚を誤って割ってしまった。
それを聞くと嘉明は叱りつけもせず、残りの9枚も自ら打ち砕き「1枚欠けたままでは誰が粗相したといつまでも名前が残ってしまう。家人は我が四肢と同じであり、どんな名物だろうと引き換えにはできない。着物や庭園、鷹など趣味を持つ者はそのためにかえって家人を失いがちだと心得るべきだ」と述べたという。
嘉明はつねづね「真の勇士とは責任感が強く律儀な人間である」と言っており、武勇の優劣よりも団結や規律を重んじた。
そのため豪傑肌の人物は「勝っている時は調子がいいが、危機には平気で仲間を見捨てる」と評価せず、事実、関ヶ原の戦いで家臣の塙団右衛門(ばん・だんえもん)は抜け駆けで大功を立てたが、率いていた鉄砲隊を置き去りにしたため嘉明は激怒し、団右衛門は加藤家を去り、嘉明も奉公構(他家に仕えられないようにする処罰。死罪に次ぐ罰である)を出すに及んだという。
蜂須賀正勝(はちすか・まさかつ)
尾張の人(1526~1586)父・正勝・子の三代で小六(ころく)を通称とし蜂須賀小六の名でも著名。
若い頃は木曽川の水運業を生業とし、付近の国主・豪族の間を渡り歩いたと思われる。
「太閤記」や講談などでは野盗の親分とされ、今だに広く信じられている。
生涯の主君となる羽柴秀吉との出会いは諸説あり、はじめは秀吉が正勝に仕えていたともされる。
1566年、秀吉躍進のきっかけとなった墨俣城の築城に携わり、地理を活かして美濃の攻略にも貢献した。
以降は秀吉の腹心として付き従い、1581年には播磨に5万石を与えられた。
1585年の四国攻めでは戦はもちろん戦後処理から外交まで全面的に取り仕切り、土佐の長宗我部家への抑えとして阿波一国を任されようとしたが、正勝は秀吉の側近として仕えることを望んだため、阿波は嫡子の蜂須賀家政(はちすか・いえまさ)に与えられた。
翌1586年、61歳で死去。蜂須賀家は幕末まで大名として存続し、明治期にも華族となった。
織田信秀(おだ・のぶひで)の四男。織田信長、お市らと母が同じと思われ、一門衆の第3位に数えられる。
だが血統と地位のわりに記録が少なく、事績は断片的にしか伝わっていない。
1568年、信長の命で養子入りし北伊勢の長野工藤家を継いだ。信長の子・織田信雄(おだ・のぶかつ)、織田信孝(おだ・のぶたか)らも同時期に伊勢の名家に養子入りしており、調略の一環と見られるが、三者ともに間もなく縁組を解消している。
信長からの信頼は厚く、1573年の小谷城の戦いでは妹のお市や茶々(ちゃちゃ 後の淀殿)ら姪を保護し、越前一向一揆や雑賀衆との戦にも参陣。信長の嫡子・織田信忠(おだ・のぶただ)の補佐につけられた他、長男の正室に元尾張守護の斯波義銀(しば・よしかね)の娘を迎えるなど幅広く活躍した。
1582年の本能寺の変後、信長の子らが激しい家督争いを繰り広げるなか、ナンバー3のはずの信包は野心を持たなかったのか、後継者の地位を望まず、また誰からも担ぎ出されることもなく、羽柴秀吉に従い伊勢に15万石を得た。
しかし1590年、小田原征伐の際に北条氏政(ほうじょう・うじまさ)父子の助命を嘆願したため秀吉の怒りを買い、1594年「石高のわりに働いていない」と改易された。
剃髪し老犬斎(ろうけんさい)と号し京で隠棲するが、後に許されて秀吉の御伽衆となり、1598年には丹波3万石を与えられた。
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に属したものの、長男の織田信重(おだ・のぶしげ)は東軍で戦ったため徳川家康は罪を問わず所領を安堵された。
その後は姪の淀殿の縁から豊臣家に仕えたが1614年、大坂の陣の直前に急死した。
徳川家との内通がささやかれる片桐且元(かたぎり・かつもと)による暗殺説もあるが、享年は72であり病死でも不自然ではない。
長男の信重とは不和だったのか家督は遺言により三男が継いだ。信重は幕府に不服を申し立てるも「遺言である。僻むな」と逆に改易となった。
河尻秀隆(かわじり・ひでたか)
美濃の人(1527~1582)
はじめは清洲織田家に仕え、のちに織田信秀(おだ・のぶひで)に仕えた。
小豆坂の戦いで名を上げ、織田信長の代になると黒母衣衆(馬廻から十人ほど選ばれた精鋭)の筆頭になる。反乱した信長の弟・織田信行(おだ・のぶゆき)殺害の実行役を務めた説もある。
信長からの信頼は厚く、主要な戦のほとんどに参戦し、1574年には嫡子・織田信忠(おだ・のぶただ)の副将に付けられた。信長は「秀隆を父と思え」と信忠に命じるほどで、信忠が東方戦線を任されると秀隆が実質的に指揮を取り、1582年に武田家を滅亡させると甲斐・信濃に22万石を与えられた。
だが同年6月、本能寺の変で信長・信忠父子が暗殺されると甲斐・信濃で武田の旧臣たちが次々と蜂起し、織田家の東国支配体制は崩壊した。
森長可(もり・ながよし)、毛利秀頼(もうり・ひでより)らが領地を捨てて撤退するなか、秀隆は甲斐に留まることを選択する。
しかし徳川家康が「美濃に撤退するよう」寄越した説得の使者を殺害しさらに孤立を深め、結局は一揆に抗しきれず撤退を決意。その途上、武田の旧臣によって討たれた。享年56。
佐久間盛政(さくま・もりまさ)
尾張の人(1554~1583)
柴田勝家の甥。織田家に仕え身長6尺(182センチ)で武勇に優れ「鬼玄蕃」と恐れられた。
15歳で初陣を飾り、叔父の勝家に越前が与えられると、その麾下に配され常に先鋒を務めた。戦功を重ね1580年には加賀半国を任された。
1581年、勝家が安土城に赴いた隙を突き、上杉軍は白山城を攻め落とした。盛政が救援に駆けつけた時、すでに城は陥落していたが、そのまま上杉軍を襲い撃破した。
1582年、本能寺の変が起こると明智光秀を討った羽柴秀吉は織田家での発言権を強め、勝家と対立した。
翌年、ついに両者は近江で衝突する。勝家は持久戦の構えをとったが、秀吉方から寝返った者が秀吉が陣中にいないことを告げると、盛政は羽柴軍の先鋒・中川清秀(なかがわ・きよひで)の守る砦への強襲を献策した。
勝家は強引な策を危ぶんだが盛政に押し負け「砦を落としたら撤退すること」を条件に承諾した。
盛政の強襲は成功し中川清秀を討ち取ったが、勝家の言いつけに背き、帰陣せずそのまま賤ヶ岳砦の攻略を狙った。
賤ヶ岳砦を守る桑山重晴(くわやま・しげはる)は盛政の降伏勧告に「日没まで待ってくれ」と応じ時間を稼ぐと、琵琶湖を渡り丹羽長秀(にわ・ながひで)の援軍が現れ、桑山軍と合流。急報を聞いた秀吉も中国大返しの再現を思わせる素早さで自陣に戻り、盛政は敵中に孤立した。
さらに勝家の副将格の前田利家が秀吉の説得により中立の立場をとったため、一気に不利に陥った柴田軍は敗走し、勝家は自刃した。
盛政は再起を図り単身で加賀へ戻ろうとしたが領民によって越前で捕らえられた。
命運の尽きたことを悟った盛政は秀吉への面会を願い出ると、秀吉は九州平定後に肥後を与えようと誘ったが、それを固辞した。
秀吉は盛政ほどの将を処刑するのは忍びないと切腹を許したが「敗軍の将は処刑されるのが筋道である。京の市中引き回しのうえ首を斬れば、あなたの威光は天下に響くだろう」とあくまで処刑を望んだ。
秀吉は願いを聞き入れ小袖を用意させたが、盛政はその仕立てが気に入らず「死装束は旗指し物のように目立つものが良い。あれぞ盛政と讃えられて死にたい」と自ら小袖のデザインを述べた。秀吉は「最後まで武辺者よ」と感心し、希望通りのものを用意させた。
処刑の日、秀吉はやはり不憫に思い切腹のために短刀を用意させたが、盛政はそれも断り首を打たれた。享年30。
その後、秀吉は盛政の娘・虎(とら)姫を中川清秀の次男・秀成(ひでなり)に嫁がせた。
清秀の仇の娘とあって中川一族には忌み嫌われ、夫の領地に足を踏み入れることは生涯なかったが、夫婦の仲は睦まじく七男をもうけ、さらに虎姫の死後、中川秀成は末子に命じ佐久間家を再興させた。
氏家卜全(うじいえ・ぼくぜん)
美濃の人(1513?~1571)本名は直元(なおもと)
はじめは美濃守護の土岐頼芸(とき・よりあき)に仕えていたが、斎藤道三(さいとう・どうさん)によって頼芸が追放されると鞍替えし稲葉一鉄(いなば・いってつ)、安藤守就(あんどう・もりなり)とともに「西美濃三人衆」と呼ばれ、三人衆の中では卜全の勢力が最も大きかった。
だが斎藤家を継いだ斎藤龍興(さいとう・たつおき)は三人衆を疎んじたため、三人衆はそろって織田信長に寝返り、美濃攻略に大きく貢献した。
以降は織田軍の主力として戦ったが1571年、柴田勝家の下に付けられた伊勢長島の戦いで敗北し、殿軍を務めるも一向一揆と六角軍の追撃にあい、奮闘の末に戦死した。享年は59とも38とも言われる。
家督は長男の氏家直昌(うじいえ・なおまさ)が継ぎ、一乗谷の戦いで旧主の斎藤龍興を討ち取る大功を立てたが若くして没した。
直昌の後は次男の氏家行広(うじいえ・ゆきひろ)が継ぐが、関ヶ原の戦いに際して中立の立場をとったものの、西軍が城下に迫ったためやむなく西軍につき、戦後に改易された。
浪人となった行広は再起を狙い、大坂の陣で荻野道喜(おぎの・どうき)を名乗り豊臣方についた。
徳川家康は才を惜しみ投降を呼びかけたが、行広は応じず敗戦後、豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)らとともに切腹した。
安藤守就(あんどう・もりなり)
美濃の人(1503?~1582)
安藤家はもともと伊賀姓を称していたため、守就もしばしば伊賀を名乗り、官名とあわせ伊賀伊賀守(いが・いがのかみ)と記した書状も残る。
はじめは美濃守護の土岐頼芸(とき・よりあき)に仕えていたが、斎藤道三(さいとう・どうさん)によって頼芸が追放されると鞍替えし稲葉一鉄(いなば・いってつ)、氏家卜全(うじいえ・ぼくぜん)とともに「西美濃三人衆」と呼ばれた。
道三と嫡子の斎藤義龍(さいとう・よしたつ)の仲が険悪になると、守就は義龍に味方し、道三を討ち取った。
しかし義龍は若くして病死し、跡を継いだ斎藤龍興(さいとう・たつおき)は三人衆を疎んじたため、業を煮やした守就はわずか2千の兵で斎藤家の居城・稲葉山城を占領した。この逸話は竹中半兵衛によるものとして大いに脚色されて後世に伝わったという。
後に守就は龍興と和解し城も返還したが、不遇は変わらず、三人衆はそろって織田信長に寝返り、美濃攻略に大きく貢献した。
三人衆のうち氏家卜全は1571年、伊勢長島攻めで戦死したが、守就と稲葉一鉄は織田軍の主力として多くの戦で手柄を立てた。
信長が嫡子の織田信忠(おだ・のぶただ)に家督を譲ると、美濃衆のほとんどが信忠の麾下に付けられたが、守就は信長直属の立場に残され、各地を転戦して回った。
しかし1580年、突如として武田家との内通を疑われ織田家を追放された。同時期に佐久間信盛(さくま・のぶもり)、林秀貞(はやし・ひでさだ)、丹羽氏勝(にわ・うじかつ)ら重臣が言い掛かりにも等しい理由で追放されており、それに巻き込まれたと思われる。
1582年、本能寺の変が起こると、守就は再起を狙い蜂起し稲葉領の城を奪った。
だが間もなく稲葉一鉄によって奪回され、敗走した守就は一族の多くとともに自害した。本能寺の変から6日後のことだった。
享年は80とされるが定かではない。
守就の血統は、末弟の子が叔父に当たる山内一豊(やまのうち・かずとよ)に仕え、姓を変えながら明治まで残ったという。
稲葉一鉄(いなば・いってつ)
美濃の人(1515~1588)本名は良通(よしみち)
稲葉家は伊予の河野家の一族だったが、祖父の代に美濃に流れ着き土豪になったとされる。
一鉄は六男だったため幼少の頃に僧侶となったが、浅井家と戦い父や兄が敗死したため、還俗して11歳で家督を継いだ。
はじめは美濃守護の土岐頼芸(とき・よりあき)に仕えたが、斎藤道三(さいとう・どうさん)が土岐頼芸を追放し美濃を手中にするとそれに仕え、安藤守就(あんどう・もりなり)、氏家卜全(うじいえ・ぼくぜん)とともに「西美濃三人衆」と呼ばれ、一鉄はその筆頭格とされた。
道三と嫡子の斎藤義龍(さいとう・よしたつ)の仲が険悪になると、道三の妻で義龍の母が一鉄の姉に当たるため去就が注目されるなか、一鉄は義龍に味方し、道三を討ち取った。
しかし義龍は若くして病死し、跡を継いだ斎藤龍興(さいとう・たつおき)は三人衆を疎んじたため、三人衆はそろって織田信長に寝返り、美濃攻略に大きく貢献した。
その後は三人衆のうち安藤守就は信長の勘気を蒙り追放。氏家卜全は長島一向一揆と戦い敗死したが、一鉄は織田家の主要な戦のほとんどに参戦し数々の武功を立てた。
信長の信頼も厚く、1577年には信長の三男・織田信孝(おだ・のぶたか)の副将として、安土城の留守居役を務めるほどであった。
1582年、本能寺の変により混乱が巻き起こると、すでに隠居していた一鉄は美濃の国人衆に呼びかけ、甥で斎藤道三の四男・斎藤利堯(さいとう・としたか)を擁し独立を図った。
だが稲葉領内にいた安藤守就が御家再興のため明智光秀と手を結んで蜂起し、さらに娘婿の堀池半之丞(ほりいけ・はんのじょう)とも対立してしまい、両者を討ち果たした頃には羽柴秀吉が光秀を討ち取り、混乱は収束してしまった。
清州会議の後、織田信孝(おだ・のぶたか)が美濃の領主となったが、一鉄は秀吉と結んでそれに対抗し、以降は秀吉に従属した。
1588年、74歳で死去。70まで戦場に出ていた記録が残る。
~頑固一徹~
一鉄の頑固ぶりは非常に有名で、その名から「一徹」という言葉が生まれたとされる。
その頑固一徹な逸話をいくつか紹介する。
姉川の戦いで信長は同盟軍を率いる徳川家康の兵が少なかったため、家中の者を好きなだけ連れて行くよう勧めた。すると家康は「一鉄が一人いれば良い」と答えた。
一鉄の活躍は目覚ましく、信長は戦功第一と賞し自分の名から「長」の一字を与えようとしたが、一鉄は「戦功第一は家康である」とそれを固辞したという。
一鉄は武勇だけではなく歌道や茶道、果ては医学など文武両道に通じていた。ある時、一鉄を讒言する者があり、それを信じた信長は茶会と称して一鉄を招き、暗殺しようとした。
すると一鉄は即興で、床の間の掛け軸に書かれた詩を引用しながら釈明したため、信長は感嘆するとともに無実を認めた。
「実は周囲の者は懐剣を隠し持っていた」と明かすと、一鉄も「私も暗殺されると思い、一人くらいは道連れにしようと考えていました」と懐剣を取り出したので、信長はますます感心したという。
ある時、敵の間者が稲葉家の家臣に捕らえられた。家臣は処刑を主張したが、一鉄は間者が年若かったので気の毒に思い、縄を解かせると自ら陣中を案内し、自分たち美濃の国人衆の苦心ぶりを明かした。
間者は一鉄の人柄に惚れ込み、その家臣となり姉川の戦いで討ち死にしたという。
また雑賀孫市を降伏させたのは一鉄だという説もある。
はじめに孫市の説得に赴いた使者は、華美な服装で尊大に振る舞ったため反感を買った。だが次に現れた一鉄は飾らず質実剛健な様子で、感動した孫市は一鉄にならばと説得に応じたという。
武田征伐の際に、一鉄はかつての主君である土岐頼芸が武田家の庇護下にいたのを発見した。
頼芸は病で余命いくばくもなく、しかも失明していたため、不憫に思った一鉄は懸命に奔走し、頼芸を美濃へと帰国させたという。
一鉄は領内の視察など外出時には小銭を持ち歩き、修験者や旅の者に行き会うとそれを与えた。理由を問われると「私の祖父は伊予から美濃へたどり着くまで貧窮していた。一飯の銭が相手と自分を助けるのだ」と答えた。
修験者の中には敵の間者が紛れていたが、一鉄はそれにも小銭を与えた。間者は帰国すると一鉄を「誠の仁者」だと報告したという。
佐々成政(さっさ・なりまさ)
尾張の人(1535?~1587)
佐々家は尾張の土豪で、織田家に仕えていた。成政は2人の兄が相次いで戦死したため家督を継いだ。
織田信長の馬廻から始まり、軍功を重ね1567年に黒母衣衆(馬廻から十人ほど選ばれた精鋭)に抜擢された。
主として鉄砲隊を率い、1575年からの北陸侵攻では方面軍を任された柴田勝家の与力として成政、前田利家、不破光治(ふわ・みつはる)が付けられ、越前府中にあわせて3万3千石を与えられ「府中三人衆」と呼ばれた。
なお三人衆は北陸方面の専属というわけではなく、石山合戦や播磨攻略、荒木村重(あらき・むらしげ)の征伐にも駆り出されており、荒木一族の処刑も三人衆に命じられている。
1580年、上杉家に国を追われた越中守護代・神保家の神保長住(じんぼう・ながずみ)を救援し上杉・一向一揆を破り越中を平定。
神保長住が失脚すると成政に越中一国が任され、富山城を居城とし改修した。
1582年、本能寺の変で信長が討たれた時、北陸方面軍は上杉領の深くに侵攻しており、撤退に手間取るうちに羽柴秀吉が明智光秀を討ち取った。
清州会議で柴田勝家と秀吉が対立すると、成政はそのまま勝家方につき、上杉家への備えとして越中を守った。
だが前田利家の寝返りもあり、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗死すると秀吉に降伏。越中を安堵された。
1584年、小牧・長久手の戦いでは当初は秀吉方につく姿勢を見せたが、一転して徳川家康に味方し、秀吉方の前田利家を攻撃した。
しかし上杉軍との挟撃により苦戦し、秀吉と家康も和睦すると、成政は敵の目を避けるため厳冬の飛騨山脈(北アルプス)を踏破し浜松へ赴き、家康に決起を促した。この現代でも困難をきわめる雪山踏破は「さらさら越え」と呼ばれ半ば伝説化している。
しかし家康の説得には失敗し、織田信雄(おだ・のぶかつ)、滝川一益(たきがわ・かずます)からも色好い返事は得られず、失意のまま帰国した。
翌1585年、秀吉軍10万に富山城を包囲された成政は降伏した。越中の一郡を残し領地は没収されたが、才を評価した秀吉は命を助け、御伽衆にも抜擢し、羽柴の姓を与えるほどだった。
そして1587年、九州征伐で功を立てた成政は肥後一国を与えられるが、性急な検地が大規模な一揆を招き、その鎮圧に失敗したため切腹を命じられた。
享年は53が最も有力視されるが、50歳から73歳まで諸説あり判然とせず、53歳説も1542年(当時8歳となってしまう)の小豆坂の戦いで戦功を挙げた記述が残っており疑わしい。
辞世の句は「この頃の 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今破るなり」。解釈は様々だが切腹に至るまでの紆余曲折を思い起こさせる名句であろう。
1590年、小田原征伐で蒲生氏郷(がもう・うじさと)は秀吉に「三階菅笠」の馬印の使用許可を願い出た。
秀吉は「三階菅笠は佐々成政が用いた馬印だ。成政にも劣らぬ武勇を見せれば許そう」と言い、氏郷は満身創痍になりながらも手柄を立て、許可を得たという。失政から切腹を命じたとはいえ、秀吉の成政への変わらぬ高評価がうかがえる。