三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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安藤守就(あんどう・もりなり)
美濃の人(1503?~1582)
安藤家はもともと伊賀姓を称していたため、守就もしばしば伊賀を名乗り、官名とあわせ伊賀伊賀守(いが・いがのかみ)と記した書状も残る。
はじめは美濃守護の土岐頼芸(とき・よりあき)に仕えていたが、斎藤道三(さいとう・どうさん)によって頼芸が追放されると鞍替えし稲葉一鉄(いなば・いってつ)、氏家卜全(うじいえ・ぼくぜん)とともに「西美濃三人衆」と呼ばれた。
道三と嫡子の斎藤義龍(さいとう・よしたつ)の仲が険悪になると、守就は義龍に味方し、道三を討ち取った。
しかし義龍は若くして病死し、跡を継いだ斎藤龍興(さいとう・たつおき)は三人衆を疎んじたため、業を煮やした守就はわずか2千の兵で斎藤家の居城・稲葉山城を占領した。この逸話は竹中半兵衛によるものとして大いに脚色されて後世に伝わったという。
後に守就は龍興と和解し城も返還したが、不遇は変わらず、三人衆はそろって織田信長に寝返り、美濃攻略に大きく貢献した。
三人衆のうち氏家卜全は1571年、伊勢長島攻めで戦死したが、守就と稲葉一鉄は織田軍の主力として多くの戦で手柄を立てた。
信長が嫡子の織田信忠(おだ・のぶただ)に家督を譲ると、美濃衆のほとんどが信忠の麾下に付けられたが、守就は信長直属の立場に残され、各地を転戦して回った。
しかし1580年、突如として武田家との内通を疑われ織田家を追放された。同時期に佐久間信盛(さくま・のぶもり)、林秀貞(はやし・ひでさだ)、丹羽氏勝(にわ・うじかつ)ら重臣が言い掛かりにも等しい理由で追放されており、それに巻き込まれたと思われる。
1582年、本能寺の変が起こると、守就は再起を狙い蜂起し稲葉領の城を奪った。
だが間もなく稲葉一鉄によって奪回され、敗走した守就は一族の多くとともに自害した。本能寺の変から6日後のことだった。
享年は80とされるが定かではない。
守就の血統は、末弟の子が叔父に当たる山内一豊(やまのうち・かずとよ)に仕え、姓を変えながら明治まで残ったという。