三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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稲葉一鉄(いなば・いってつ)
美濃の人(1515~1588)本名は良通(よしみち)
稲葉家は伊予の河野家の一族だったが、祖父の代に美濃に流れ着き土豪になったとされる。
一鉄は六男だったため幼少の頃に僧侶となったが、浅井家と戦い父や兄が敗死したため、還俗して11歳で家督を継いだ。
はじめは美濃守護の土岐頼芸(とき・よりあき)に仕えたが、斎藤道三(さいとう・どうさん)が土岐頼芸を追放し美濃を手中にするとそれに仕え、安藤守就(あんどう・もりなり)、氏家卜全(うじいえ・ぼくぜん)とともに「西美濃三人衆」と呼ばれ、一鉄はその筆頭格とされた。
道三と嫡子の斎藤義龍(さいとう・よしたつ)の仲が険悪になると、道三の妻で義龍の母が一鉄の姉に当たるため去就が注目されるなか、一鉄は義龍に味方し、道三を討ち取った。
しかし義龍は若くして病死し、跡を継いだ斎藤龍興(さいとう・たつおき)は三人衆を疎んじたため、三人衆はそろって織田信長に寝返り、美濃攻略に大きく貢献した。
その後は三人衆のうち安藤守就は信長の勘気を蒙り追放。氏家卜全は長島一向一揆と戦い敗死したが、一鉄は織田家の主要な戦のほとんどに参戦し数々の武功を立てた。
信長の信頼も厚く、1577年には信長の三男・織田信孝(おだ・のぶたか)の副将として、安土城の留守居役を務めるほどであった。
1582年、本能寺の変により混乱が巻き起こると、すでに隠居していた一鉄は美濃の国人衆に呼びかけ、甥で斎藤道三の四男・斎藤利堯(さいとう・としたか)を擁し独立を図った。
だが稲葉領内にいた安藤守就が御家再興のため明智光秀と手を結んで蜂起し、さらに娘婿の堀池半之丞(ほりいけ・はんのじょう)とも対立してしまい、両者を討ち果たした頃には羽柴秀吉が光秀を討ち取り、混乱は収束してしまった。
清州会議の後、織田信孝(おだ・のぶたか)が美濃の領主となったが、一鉄は秀吉と結んでそれに対抗し、以降は秀吉に従属した。
1588年、74歳で死去。70まで戦場に出ていた記録が残る。
~頑固一徹~
一鉄の頑固ぶりは非常に有名で、その名から「一徹」という言葉が生まれたとされる。
その頑固一徹な逸話をいくつか紹介する。
姉川の戦いで信長は同盟軍を率いる徳川家康の兵が少なかったため、家中の者を好きなだけ連れて行くよう勧めた。すると家康は「一鉄が一人いれば良い」と答えた。
一鉄の活躍は目覚ましく、信長は戦功第一と賞し自分の名から「長」の一字を与えようとしたが、一鉄は「戦功第一は家康である」とそれを固辞したという。
一鉄は武勇だけではなく歌道や茶道、果ては医学など文武両道に通じていた。ある時、一鉄を讒言する者があり、それを信じた信長は茶会と称して一鉄を招き、暗殺しようとした。
すると一鉄は即興で、床の間の掛け軸に書かれた詩を引用しながら釈明したため、信長は感嘆するとともに無実を認めた。
「実は周囲の者は懐剣を隠し持っていた」と明かすと、一鉄も「私も暗殺されると思い、一人くらいは道連れにしようと考えていました」と懐剣を取り出したので、信長はますます感心したという。
ある時、敵の間者が稲葉家の家臣に捕らえられた。家臣は処刑を主張したが、一鉄は間者が年若かったので気の毒に思い、縄を解かせると自ら陣中を案内し、自分たち美濃の国人衆の苦心ぶりを明かした。
間者は一鉄の人柄に惚れ込み、その家臣となり姉川の戦いで討ち死にしたという。
また雑賀孫市を降伏させたのは一鉄だという説もある。
はじめに孫市の説得に赴いた使者は、華美な服装で尊大に振る舞ったため反感を買った。だが次に現れた一鉄は飾らず質実剛健な様子で、感動した孫市は一鉄にならばと説得に応じたという。
武田征伐の際に、一鉄はかつての主君である土岐頼芸が武田家の庇護下にいたのを発見した。
頼芸は病で余命いくばくもなく、しかも失明していたため、不憫に思った一鉄は懸命に奔走し、頼芸を美濃へと帰国させたという。
一鉄は領内の視察など外出時には小銭を持ち歩き、修験者や旅の者に行き会うとそれを与えた。理由を問われると「私の祖父は伊予から美濃へたどり着くまで貧窮していた。一飯の銭が相手と自分を助けるのだ」と答えた。
修験者の中には敵の間者が紛れていたが、一鉄はそれにも小銭を与えた。間者は帰国すると一鉄を「誠の仁者」だと報告したという。