三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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佐々成政(さっさ・なりまさ)
尾張の人(1535?~1587)
佐々家は尾張の土豪で、織田家に仕えていた。成政は2人の兄が相次いで戦死したため家督を継いだ。
織田信長の馬廻から始まり、軍功を重ね1567年に黒母衣衆(馬廻から十人ほど選ばれた精鋭)に抜擢された。
主として鉄砲隊を率い、1575年からの北陸侵攻では方面軍を任された柴田勝家の与力として成政、前田利家、不破光治(ふわ・みつはる)が付けられ、越前府中にあわせて3万3千石を与えられ「府中三人衆」と呼ばれた。
なお三人衆は北陸方面の専属というわけではなく、石山合戦や播磨攻略、荒木村重(あらき・むらしげ)の征伐にも駆り出されており、荒木一族の処刑も三人衆に命じられている。
1580年、上杉家に国を追われた越中守護代・神保家の神保長住(じんぼう・ながずみ)を救援し上杉・一向一揆を破り越中を平定。
神保長住が失脚すると成政に越中一国が任され、富山城を居城とし改修した。
1582年、本能寺の変で信長が討たれた時、北陸方面軍は上杉領の深くに侵攻しており、撤退に手間取るうちに羽柴秀吉が明智光秀を討ち取った。
清州会議で柴田勝家と秀吉が対立すると、成政はそのまま勝家方につき、上杉家への備えとして越中を守った。
だが前田利家の寝返りもあり、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗死すると秀吉に降伏。越中を安堵された。
1584年、小牧・長久手の戦いでは当初は秀吉方につく姿勢を見せたが、一転して徳川家康に味方し、秀吉方の前田利家を攻撃した。
しかし上杉軍との挟撃により苦戦し、秀吉と家康も和睦すると、成政は敵の目を避けるため厳冬の飛騨山脈(北アルプス)を踏破し浜松へ赴き、家康に決起を促した。この現代でも困難をきわめる雪山踏破は「さらさら越え」と呼ばれ半ば伝説化している。
しかし家康の説得には失敗し、織田信雄(おだ・のぶかつ)、滝川一益(たきがわ・かずます)からも色好い返事は得られず、失意のまま帰国した。
翌1585年、秀吉軍10万に富山城を包囲された成政は降伏した。越中の一郡を残し領地は没収されたが、才を評価した秀吉は命を助け、御伽衆にも抜擢し、羽柴の姓を与えるほどだった。
そして1587年、九州征伐で功を立てた成政は肥後一国を与えられるが、性急な検地が大規模な一揆を招き、その鎮圧に失敗したため切腹を命じられた。
享年は53が最も有力視されるが、50歳から73歳まで諸説あり判然とせず、53歳説も1542年(当時8歳となってしまう)の小豆坂の戦いで戦功を挙げた記述が残っており疑わしい。
辞世の句は「この頃の 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今破るなり」。解釈は様々だが切腹に至るまでの紆余曲折を思い起こさせる名句であろう。
1590年、小田原征伐で蒲生氏郷(がもう・うじさと)は秀吉に「三階菅笠」の馬印の使用許可を願い出た。
秀吉は「三階菅笠は佐々成政が用いた馬印だ。成政にも劣らぬ武勇を見せれば許そう」と言い、氏郷は満身創痍になりながらも手柄を立て、許可を得たという。失政から切腹を命じたとはいえ、秀吉の成政への変わらぬ高評価がうかがえる。