三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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氏家卜全(うじいえ・ぼくぜん)
美濃の人(1513?~1571)本名は直元(なおもと)
はじめは美濃守護の土岐頼芸(とき・よりあき)に仕えていたが、斎藤道三(さいとう・どうさん)によって頼芸が追放されると鞍替えし稲葉一鉄(いなば・いってつ)、安藤守就(あんどう・もりなり)とともに「西美濃三人衆」と呼ばれ、三人衆の中では卜全の勢力が最も大きかった。
だが斎藤家を継いだ斎藤龍興(さいとう・たつおき)は三人衆を疎んじたため、三人衆はそろって織田信長に寝返り、美濃攻略に大きく貢献した。
以降は織田軍の主力として戦ったが1571年、柴田勝家の下に付けられた伊勢長島の戦いで敗北し、殿軍を務めるも一向一揆と六角軍の追撃にあい、奮闘の末に戦死した。享年は59とも38とも言われる。
家督は長男の氏家直昌(うじいえ・なおまさ)が継ぎ、一乗谷の戦いで旧主の斎藤龍興を討ち取る大功を立てたが若くして没した。
直昌の後は次男の氏家行広(うじいえ・ゆきひろ)が継ぐが、関ヶ原の戦いに際して中立の立場をとったものの、西軍が城下に迫ったためやむなく西軍につき、戦後に改易された。
浪人となった行広は再起を狙い、大坂の陣で荻野道喜(おぎの・どうき)を名乗り豊臣方についた。
徳川家康は才を惜しみ投降を呼びかけたが、行広は応じず敗戦後、豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)らとともに切腹した。