三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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河尻秀隆(かわじり・ひでたか)
美濃の人(1527~1582)
はじめは清洲織田家に仕え、のちに織田信秀(おだ・のぶひで)に仕えた。
小豆坂の戦いで名を上げ、織田信長の代になると黒母衣衆(馬廻から十人ほど選ばれた精鋭)の筆頭になる。反乱した信長の弟・織田信行(おだ・のぶゆき)殺害の実行役を務めた説もある。
信長からの信頼は厚く、主要な戦のほとんどに参戦し、1574年には嫡子・織田信忠(おだ・のぶただ)の副将に付けられた。信長は「秀隆を父と思え」と信忠に命じるほどで、信忠が東方戦線を任されると秀隆が実質的に指揮を取り、1582年に武田家を滅亡させると甲斐・信濃に22万石を与えられた。
だが同年6月、本能寺の変で信長・信忠父子が暗殺されると甲斐・信濃で武田の旧臣たちが次々と蜂起し、織田家の東国支配体制は崩壊した。
森長可(もり・ながよし)、毛利秀頼(もうり・ひでより)らが領地を捨てて撤退するなか、秀隆は甲斐に留まることを選択する。
しかし徳川家康が「美濃に撤退するよう」寄越した説得の使者を殺害しさらに孤立を深め、結局は一揆に抗しきれず撤退を決意。その途上、武田の旧臣によって討たれた。享年56。