三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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村上義清(むらかみ・よしきよ)
北信濃の人(1501~1573)
家督を継いだ時、村上家は信濃の北部から東部へかけて大きな勢力を築いていた。
義清は自ら先陣を切って戦ったと伝わるほど勇猛で、また長槍による槍衾戦法を得意とし、長槍戦術の創始者として斎藤道三(さいとう・どうさん)とともに挙げられている。(余談だが道三を手本にした織田信長の槍衾戦法が一般的には最も著名で、信長が創始者と勘違いされることも多々ある)
1548年、上田原の戦いで武田晴信(後の信玄)を破った。この戦いで武田家は板垣信方(いたがき・のぶかた)、甘利虎泰(あまり・とらやす)ら多くの重臣を失った。
1550年、義清が高梨家を攻撃した隙に武田軍は砥石城を襲ったが、義清はすかさず高梨家と和睦すると反転し、武田軍を大いに打ち破った。武田軍は横田高松(よこた・たかまつ)らが戦死し、信玄の生涯で最も大敗したため後に「砥石崩れ」と呼ばれた。
以降、信玄は正面からの戦いを避け、真田幸隆(さなだ・ゆきたか)に村上家の調略を命じた。
翌1551年に砥石城を奪われたのを皮切りに家臣が次々と寝返り、1553年にはついに抗し切れず、領地を捨て越後の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとへ落ち延びた。
北信濃への侵攻の名目を得た謙信は南下を開始し、武田軍と川中島で幾度にもわたり激突した。
義清は上杉家に仕え、1561年、第四次川中島で信玄の弟・武田信繁(たけだ・のぶしげ)を討ち取ったとも言われる。
1573年、義清は73歳で没した。くしくも仇敵である信玄も同年に急逝した。
嫡子は謙信の養子に迎えられ山浦国清(やまうら・くにきよ)と名乗り、上杉家でも第2位の高位に上り詰めたが、1598年、上杉家が会津へ移封されると歴史から姿を消しており、出奔したと思われる。
上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)
越後の人(1556~1623)
上杉家の当主。父は長尾政景(ながお・まさかげ)、母は上杉謙信の姉・綾御前。
1564年、父が謎の溺死を遂げると叔父・謙信の養子となった。
非常に無口で感情を表に出さず、ある時、飼っていた猿が景勝のものまねをしているのを見て笑ったのを除き、ただの一度も家臣に笑みを見せなかったという。
将兵もまた景勝に準じて統制厳しく、行軍中も一言も発せずただ人馬の足音だけが響いていたと伝わる。
長じると一門衆の筆頭格となり、謙信からも後継者に目されていたようだが1578年、謙信が急死すると北条家から人質兼養子に迎えていた上杉景虎(かげとら)との間で跡目争いが巻き起こった。
景虎には北条家と同盟を結ぶ武田家が味方し、国境近くまで進軍してきたが、景勝は黄金の譲渡と武田勝頼(かつより)の妹をめとることを条件に武田家と和睦。
景虎は後ろ盾にしていた謙信の養父・上杉憲政(のりまさ)と嫡子が暗殺され、正室で景勝の姉も自害すると拠り所を失い、1579年に自害した。
景勝は名実ともに上杉家を継ぎ、国人衆は景虎方はもちろん自分に味方したものまで粛清し、実家の長尾家の権力を強めた。
だが1581年、景勝方として奮闘したもののわずかな恩賞しか与えられず、他の国人衆も粛清され不満を抱いた新発田重家(しばた・しげいえ)が織田・伊達家の援助を得て反乱した。
さらに柴田勝家率いる4万の織田軍が侵攻、翌年には同盟者の武田家が滅亡し、ついに越中も陥落した。
景勝は盟友の佐竹義重(さたけ・よししげ)へ「良い時代に生まれた。六十余州を相手に越後一国をもって戦いを挑み、滅亡することは死後の思い出である」と語るほどの窮地に追い詰められたが、織田信長が本能寺で討たれたため戦況は一変。織田軍は全軍撤退し、逆に北信濃へ侵攻し北条家と領土を分けあった。
新発田重家の反乱鎮圧には大きく手間取り多くの将を討たれ、景勝自身も危うく戦死しかけたが、織田政権を掌握した羽柴秀吉によしみを通じ、徐々に版図を広げた。
1587年には新発田重家を破り越後を再統一。1589年には佐渡と出羽の一部を切り取り、90万石に勢力は拡大した。
腹心・直江兼続と二頭政治を布き、文禄の役では秀吉の名代として参陣し、1595年、小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)が隠居すると後任の五大老に任じられた。
1598年、蒲生氏郷(がもう・うじさと)が没すると関東の徳川家康、奥州の伊達政宗への押さえとして会津120万石へ移封し、豊臣政権での地位は安泰かと思われた。
だが秀吉が逝去すると、兼続と懇意だった石田三成に協力し、徳川家康と対立。
1600年、景勝は領内の築城・改修を独断で進めたため家康が問責の使者を送ると、兼続は「直江状」として著名な挑発的な書状を返し、家康を激怒させた。
家康は全国に号令を発し会津征伐の兵を挙げると、その隙をつき石田三成が豊臣家の名代として挙兵し、関ヶ原の戦いが勃発。
景勝は家康方の東軍に与した伊達政宗や最上義光(もがみ・よしあき)と戦い、最上方の長谷堂城を大軍で包囲するが志村光安(しむら・あきやす)の防戦により落とせず、関ヶ原で三成ら西軍が大敗すると撤退。やむなく家康に降伏した。
翌1601年、景勝は家康の次男・結城秀康(ゆうき・ひでやす)のとりなしを得て謝罪し、家名存続は許されたが出羽米沢30万石へと大幅に減封された。しかし景勝は家臣を全く解雇しなかったため、30万石の身で120万石の家臣を召抱えた米沢藩はしばらく財政難が続くこととなった。
以降は徳川家に従い領内の政治に励み、米沢を大いに発展させた。
1614年からの大坂の陣にも徳川方として参戦し事なきを得て、上杉家は幕末まで続いた。
~~前田慶次との関係~~
天下一の傾奇者・前田慶次が仕えた唯一の人物が景勝である。
ある時、秀吉が催した宴席で慶次は余興として猿面を踊りだし、居並ぶ諸大名の膝の上に座り猿の真似をする暴挙に出た。
秀吉の面前でもあり、余興に怒るのも無粋と諸大名は我慢していたが、慶次は景勝にだけは絡もうとしなかった。後に理由を聞かれると「景勝殿は威風凛然としていてどうしても座ることができなかった。天下広しといえども真に主君と頼めるのは景勝殿しかいない」と語ったという。
その後、慶次は景勝に仕え、長谷堂城の戦いでは撤退する上杉軍の殿軍を務め、奮戦して無事に景勝や旧友の直江兼続を逃がした。
上杉謙信(うえすぎ・けんしん)
越後の人(1530~1578)
越後の大名。本名は上杉輝虎(てるとら)で謙信は法号。
生涯でほとんどの戦に勝利し「軍神」や「越後の龍(虎)」の異名で知られる。
越後守護代・長尾為景(ながお・ためかげ)の四男に生まれる。幼名は虎千代(とらちよ)。姉に綾御前がいる。
父の為景は越後守護を自害に追い込み、関東管領を討ち取るなど勢力拡大に勤しんだが、旧臣や一族の反発を招き越後統一にまでは至らなかった。
1536年、為景は隠居すると息子の長尾晴景(はるかげ)に家督を譲り、虎千代を林泉寺で出家させた。父に疎まれていたとも伝わる。
林泉寺の住職・天室光育(てんしつ・こういく)に学び、虎千代は軍学に特に興味を示した。2メートル四方もある城の模型を造り図上演習に熱中し、修行を疎かにしたため天室光育は「虎千代殿に僧侶は無理」とさじを投げ、寺から出された。
1542年、為景が没するとその隙をついて敵対勢力が押し寄せ、虎千代らは甲冑姿で葬儀を行ったという。
晴景は才気に乏しく、越後守護の上杉定実(さだざね)も復権し、日に日に長尾家の力は衰えていた。
虎千代は翌年に元服すると長尾景虎(かげとら)と名乗り、戦に出るようになった。
当時、上杉家は伊達家から婿養子を迎えようとしていたが、反対派も根強く内乱状態に陥っていた。反乱軍は15歳の景虎を侮り城下に攻め寄せたが、景虎は伏兵を敵の背後に回すと挟撃を仕掛け、見事に初陣を飾った。
1545年、黒田家が反乱を起こしたが、景虎は兄を殺されながらも反撃し滅亡に追いやった。
兼ねてから晴景に不満を抱いていた国人衆は武勇に優れた景虎を推し、晴景に退陣を迫るようになり兄弟の仲は険悪化した。
越後を二分する内乱に発展しかけたが1548年、上杉定実が調停し晴景に景虎を養子に取らせたうえで隠居させ、ここに19歳の越後守護代・長尾景虎が誕生した。
1550年、上杉定実も没すると景虎は22歳にして名実ともに越後を統一した。かつて晴景派についた長尾政景(まさかげ)が反乱を起こすもすぐに鎮圧し、景虎の姉婿(綾御前の夫)に当たる政景は赦され、以降は家老として重きを置かれた。
1552年、関東管領・上杉憲政(のりまさ)は北条氏康に上野国を奪われ景虎のもとへ亡命した。
景虎は憲政を旗印に攻め込み、北条幻庵(ほうじょう・げんあん)を破り上野を奪回。さらに武田信玄に領国を奪われた信濃守護・小笠原長時(おがさわら・ながとき)や村上義清(むらかみ・よしきよ)が庇護を求めると、信濃にも侵攻。
武田方の城を次々と落としたが、信玄が前線を下げ防衛線を敷くと、上洛の予定があった景虎は深追いせずに兵を引き上げた。世に言う「第一次川中島の戦い」である。
上洛した景虎は後奈良天皇や将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)に拝謁すると、天皇からは剣や盃とともに「朝敵を討伐せよ」と勅命を賜り、高野山にも詣でたという。
1554年、第二次川中島の戦いも有利な条件で和睦を結び兵を引き上げたが翌年、家臣の内紛や国人衆の争いの調停に嫌気が差した景虎は、突如として出家を宣言し、高野山へ向かった。
旧師の天室光育や長尾政景の説得で翻意したが、大熊朝秀(おおくま・ともひで)がその機に乗じて反乱するなど混乱を招いた。
1557年、武田信玄は和睦を破棄して長尾領に攻め込んだ。
激怒した景虎が反撃に転じると信玄は決戦を避け、背後へ兵を回したが決定打に欠け、小競り合いで終わった。第三次川中島である。
信玄は以降、雪に阻まれ景虎が兵を出せない冬期を狙って、じわじわと長尾領に侵攻していく。
1560年、今川義元が桶狭間で戦死し武田・今川・北条の三国同盟にほころびが生じると、景虎はその隙をつき北条家を攻めた。
関東管領・上杉憲政の名の下に大号令を発すると反北条勢力が集結し10万もの大軍に膨れ上がった。
さしもの北条氏康もたまらず小田原城に籠城したが、景虎にも天下一の名城を落とすことは出来ず、また信玄が川中島に迫り、長期の包囲戦で兵糧不足に陥った佐竹家ら連合軍の諸大名も次々と離脱していき、やむなく景虎は撤退した。
また包囲戦のさなかに景虎は上杉憲政から関東管領と山内上杉家の家督を譲られ、上杉政虎(まさとら)と改名した。(憲政が亡命した時点で管領職の移譲や養子縁組はなされたとする説もある)
1561年、第四次川中島ではこれまで決戦を避けてきた両雄がついに激突。武田軍の采配を読んだ政虎は信玄の弟・武田信繁(のぶしげ)や山本勘助(やまもと・かんすけ)ら名だたる敵将を討ち取った。
また武田方の史料には政虎が自ら信玄の本陣に切り込み、一太刀浴びせるも信玄はそれを軍配で受け止めた、と記されている。
しかし上杉方の史料には見当たらず、もし本当に政虎が切り込んだならば大いに喧伝してしかるべきで、察するに本陣まで侵入を許した武田方が、かの政虎に切り込まれたと脚色することで面目を保とうとした、といったところだろうか。
また大勝した上杉軍も無傷では済まず、消耗した隙をついた北条軍の反抗により武蔵の国人衆が次々と寝返り、また上杉方につき箕輪城を守り「上州の黄斑」とうたわれた猛将・長野業正(ながの・なりまさ)が病没すると上野方面でも武田軍が優勢となり、前線の後退を余儀なくされた。
同年12月、政虎は将軍・足利義輝から一字拝領し上杉輝虎(てるとら)と改名した。
1562年、越中の神保家が反乱し、それにかかりきりになった隙に武田・北条連合軍は武蔵の松山城を囲んだ。
輝虎は雪中行軍で救援に急いだが間に合わず、武蔵の拠点である松山城を翌年に失った。
しかし雪解けを迎えるや輝虎は猛反撃に転じ、下野、下総、常陸に侵攻し結城家、成田家らを降し、再三にわたり背いた佐野昌綱(さの・まさつな)もようやく屈服させた。なお彼らは輝虎が撤退すれば北条・武田方に、輝虎が侵攻すれば上杉方へとその後も目まぐるしく所属を変え、狡猾に立ち回っている。
1564年、第五次川中島はにらみ合いに終始し、これを最後に信玄は信濃統一を諦めた。上杉家も北信濃は抑えたが、信玄に奪われた村上家、高梨家の旧領を回復するには至らず、五度に及んだ川中島の戦いは痛み分けに終わったと言える。
1565年、親交厚かった足利義輝が三好三人衆らによって暗殺された。それに気落ちしたかのように関東での上杉軍は劣勢に立たされていく。
翌1566年、同盟を結んだ里見家が北条家に攻められると、輝虎はそれを救援すべく下総に侵攻し千葉家の臼井城を囲んだ。
だが軍師・白井浄三(しらい・じょうさん)は巧みな指揮と、取り付いた上杉軍を城壁ごと崩す奇計でさんざんに打ち破った。輝虎自ら采配を振るいながら惨敗を喫したこの戦いを上杉方は史料に残さず、一説には5千以上の死傷者を出したという。
この敗北を機に関東の諸大名は続々と北条方に寝返り、北条高広(きたじょう・たかひろ)、本庄繁長(ほんじょう・しげなが)ら重臣も一時離反し、また長野業正の没後も抵抗を続けていた箕輪城も武田家に落とされ、実質的な関東での領土は東上野を残すだけとなった。
1569年、三国同盟を破棄し今川領に攻め込んだ武田家と断交した北条家は、宿敵の上杉家に和睦を持ちかけた。
輝虎ははじめ渋ったが、この頃には越中や出羽へ勢力を伸ばしており、また関東では劣勢で北条家には拠点の関宿城を囲まれていたため、和睦を承諾した。
一方で長年にわたり上杉家に協力した関東の諸大名は反感を抱き、里見家や佐竹家は敵対する姿勢を見せた。
1570年、北条氏康の七男を養子に迎え、初名を与え上杉景虎(かげとら)と名乗らせ、自身は法号「不識庵謙信」を称した。
だが蜜月は短く1571年、北条氏康が死去すると跡を継いだ北条氏政(うじまさ)は同盟を破棄し武田家と和睦した。
1572年、武田信玄は一向一揆を扇動し、謙信を越中に釘付けにし後顧の憂いを断つと上洛戦を開始した。
三方ヶ原の戦いで徳川家康に大勝した武田軍が迫ると、織田信長は謙信に同盟を持ちかけた。
信玄は1573年に急逝したものの、一向一揆は加賀・越中の両国を巻き込んで拡大の一途をたどり、鎮圧しても再蜂起を繰り返したため、業を煮やした謙信は越中の制圧を決断した。
北条家は手薄になった上野、下総に攻め寄せ、進撃はなかなか進まなかったが1576年、織田信長と敵対する本願寺を率いる顕如(けんにょ)と和睦し、長年悩まされてきた一向一揆を逆に味方につけた。
以降、謙信は足利義昭(よしあき)の敷いた「第二次信長包囲網」にも加わり、再び上洛を目指すことになる。
同年、椎名家を打ち破り越中を制圧した謙信はさらに能登へ侵攻した。
難攻不落の七尾城を攻めあぐんだが、守る畠山家は幼い当主が病没すると実権を握っていた家老らに不協和音が生じ、謙信の調略を受けて同士討ちを始め翌1577年に陥落。能登も上杉家の支配下となった。
さきに内通する畠山家の家老から救援要請を受けた信長は、柴田勝家を総大将に羽柴秀吉、滝川一益(たきがわ・かずます)、丹羽長秀(にわ・ながひで)、前田利家、佐々成政(さっさ・なりまさ)らそうそうたる面子を送り込んでいた。
すでに七尾城は落ちていたが勝家はそのことを知らずに上杉軍との開戦を決断。意見の対立した秀吉は兵を引き上げたが構わず進軍し、手取川を渡ったところでようやく七尾城の陥落を知った。
さらに謙信自ら率いる大軍が目の前まで迫っており、勝家は泡を食って撤退を指示したが渡河に手間取るうちに追撃を受け大敗した。
1577年、居城に戻った謙信は遠征(上洛戦あるいは関東への再進撃か)のため大号令を発したが翌1578年3月、出陣の6日前に厠で倒れ急死した。享年49。
遺体は土葬せず甲冑を着せ太刀を帯びた姿で甕に収め漆で密封し、明治維新を迎えるまで上杉家居城の本丸に安置されたという。
死因は脳溢血と見られ、大変な酒豪で味噌や梅干を肴に飲んでいたという逸話から不摂生もうかがえ、また現在は散逸した肖像画には自分の後ろ姿として盃を描かせ「この盃すなわち我が後影なり」と語ったとされる。
妻帯せず養子を4人迎えていたが、生前に後継者を決めておらず上杉景虎と、甥(綾御前と長尾政景の子)の上杉景勝(かげかつ)との間で激しい跡目争いが勃発した。これにより国力の衰退を招き、後の上杉家没落の一因になったと言わざるを得ない。
上泉信綱(こういずみ・のぶつな)
上野の人(1508?~1577?)
「剣聖」の異名を取る兵法家。諸説あるが一般に戦国時代に「剣聖」の名で呼ばれるのは彼と塚原卜伝(つかはら・ぼくでん)のみである。
上野の大胡家の一族で、大胡(おおご)信綱とも名乗った。
数々の武芸を修め、陰流の始祖・愛洲移香斎(あいす・いこうさい)、またはその子の愛洲元香斎(げんこうさい)に師事し、新陰流を開いた。
また袋竹刀(竹刀に革袋をかぶせ殺傷力を抑えたもの)の考案者とされ、それまで木刀が用いられ、稽古中に致命傷を負うことも珍しくなかった剣術を安全に習えるようになり、その発展に大きく寄与した。
はじめは上野の長野家に仕えたが、1566年、長野家が武田家に滅ぼされると、武田信玄の誘いを断り弟子を連れ武者修行の旅に出た。
その際に武勇を惜しんだ信玄から一字贈られ「信綱」と改名したとの説もある。
しかし1565年に没した足利義輝(あしかが・よしてる)に兵法を披露したなど、多くの記録に1563年から旅に出たと記録され矛盾が生じており、確かな足跡はわからない。
没年も最期の地も諸説あり判然としない。
疋田景兼(ひきた・かげとも)、柳生宗厳(やぎゅう・むねしげ)、丸目長恵(まるめ・ながよし)、宝蔵院胤栄(ほうぞういん・いんえい)ら後に名だたる兵法家として知られる多くの弟子を持ち、中でも柳生宗厳は柳生新陰流、丸目長恵はタイ捨流を興し、きわめて著名であり、彼らの師として信綱の名は燦然と輝き続けている。
南部信直(なんぶ・のぶなお)
陸奥の人(1546~1599)
陸奥の戦国大名。南部家26代当主。
南部家の22代当主・南部政康(まさやす)の次男・石川高信(いしかわ・たかのぶ)の庶長子として生まれた。
1565年、従兄で南部家24代当主・南部晴政(はるまさ)に男子が無かったため、その長女の婿となり養嗣子の座についた。
義父子の関係は当初は良好で、安東愛季(あんどう・ちかすえ)との領土争いでもともに戦ったが、1570年、晴政に待望の男子・南部晴継(はるつぐ)が生まれると、晴政は実子に跡を継がせたいと考え、信直との関係は悪化した。
1571年、南部一族の大浦為信(おおうら・ためのぶ 後の津軽為信)が反乱し、石川高信を殺し津軽とその周辺を制圧した。(晴政が石川家の力を弱めるため扇動したとの説もある)
晴政は信直との確執から兵を出そうとせず、信直は単身で討伐軍を差し向けたが敗北した。
1572年、晴政は参拝中の信直を自ら襲撃した。しかし返り討ちにあい、信直の銃撃により晴政は落馬し、それを助けに行った晴政の次女の婿である九戸実親(くのへ・さねちか)も撃たれたというが、これは出典からやや怪しい記述ではある。
1576年、信直の正室(晴政の長女)が没すると、信直はいよいよ身の危険を感じ、養嗣子の座を辞退した。さらに暗殺を恐れて居城を出て北信愛(きた・のぶちか)ら支持する重臣の間を転々としたため、南部家は晴政・九戸家と信直・北家らの間で内部分裂の様相をていした。
1582年、晴政が病没し南部晴継が家督を継いだが、同年に正体不明の暴徒に襲われ死亡した。(信直による暗殺とも、急病とも伝わり、晴政・晴継はともに信直によって1572年に暗殺され、10年の間、死亡を秘匿したという説まである)
南部家の一族・重臣らは議論を重ね、信直が当主に決まったものの、対抗馬として推された九戸実親の兄・九戸政実(まさざね)はそれに不満を抱き、後には自らが当主であると主張し出し、家中に大きな亀裂が生じた。
1590年、信直は大浦為信が留守にした隙をつき津軽に侵攻した。しかし激しい抵抗と大雪に阻まれ、さらに豊臣秀吉から小田原征伐に加わるよう命令が届いたためやむなく撤退した。
信直は秀吉から所領安堵の保証を得たが、大浦為信が先手を打って津軽の所領安堵を秀吉から許されており、津軽奪回の道は閉ざされた。
1591年、奥州での大規模な一揆に加え九戸政実が反乱すると、信直はそれを単独では鎮圧できず、秀吉に討伐軍の派遣を願い出た。
九戸政実は討伐軍に間もなく討たれ、これにより実質的に秀吉の天下統一は果たされた。
信直は討伐軍に津軽為信が加わっているのを知ると、彼を父の仇として成敗したいと浅野長政(あさの・ながまさ)に許可を求めたが却下され、長政は為信に早く領地に帰るよう命じ、また南部家には津軽の代わりに二郡が与えられたという。
その後は領地を接するようになった伊達政宗を警戒し盛岡に居城を移し、領内の統治に専心した。
秀吉が没するといち早く徳川家康に接近し、信直は1599年に没したが跡を継いだ長男の南部利直(としなお)は徳川方につき、盛岡藩の基礎を築き、南部家は明治期に華族となり、現代まで続いた。
南部晴政(なんぶ・はるまさ)
陸奥の人(1517~1582)
陸奥の戦国大名。「三日月の 丸くなるまで 南部領」とうたわれるほど広大な領土を有し南部家の最盛期を築いた。
25歳で家督を継ぎ、分裂していた南部家を統一した。家系図に不審な点が多いことから、もともと分家だった晴政が宗家を破り、系図を書き換えて自分こそが宗家だと主張したと見られるが、いずれにしろ戦国大名としての南部家が晴政から始まったのは確かである。
1565年、男子がいなかったため叔父・石川高信(いしかわ・たかのぶ)の子の南部信直(のぶなお)を長女の婿に迎えた。
義父子の関係は当初は良好で、安東愛季(あんどう・ちかすえ)との領土争いでもともに戦ったが、1570年、晴政に待望の男子・南部晴継(はるつぐ)が生まれると、晴政は実子に跡を継がせたいと考え、信直との関係は悪化した。
1571年、南部一族の大浦為信(おおうら・ためのぶ 後の津軽為信)が反乱し、石川高信を殺し津軽とその周辺を制圧した。(晴政が石川家の力を弱めるため扇動したとの説もある)
晴政は信直との確執から兵を出そうとせず、信直は単身で討伐軍を差し向けたが敗北した。
1572年、晴政は参拝中の信直を自ら襲撃した。しかし返り討ちにあい、信直の銃撃により晴政は落馬し、それを助けに行った晴政の次女の婿である九戸実親(くのへ・さねちか)も撃たれたというが、これは出典からやや怪しい記述ではある。
1576年、信直の正室(晴政の長女)が没すると、信直はいよいよ身の危険を感じ、養嗣子の座を辞退した。さらに暗殺を恐れて居城を出て北信愛(きた・のぶちか)ら支持する重臣の間を転々としたため、南部家は晴政・九戸家と信直・北家らの間で内部分裂の様相をていした。
1582年、晴政は病没した。
家督は南部晴継が継いだが、同年に正体不明の暴徒に襲われ死亡した(信直による暗殺とも、急病とも伝わる)ため、結局は信直が継いだ。
また晴政・晴継はともに信直によって1572年に暗殺され、10年の間、死亡を秘匿したという説もある。
鮭延秀綱(さけのべ・ひでつな)
出羽の人(1563?~1646)
最上家に仕えた猛将。もともとは近江佐々木家の一族で、小野寺家に仕えていたが、父の代に大宝寺家に敗れて鮭延に逃れ、姓を改めた。また幼い頃の秀綱は一時期、大宝寺家に捕らわれ小姓として仕えたという。
1581年、最上家の軍師・氏家守棟(うじいえ・もりむね)に調略され降伏すると、徐々に頭角を現した。
1600年、長谷堂城が上杉家の2万の大軍に包囲されると、志村光安(しむら・あきやす)とともに防衛し、秀綱はわずかな兵で打って出てはたびたび上杉軍を撃破し、ついに関ヶ原で西軍が敗れた影響により上杉軍が撤退するまで守り抜いた。
相対した直江兼続は「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と感嘆し、後に敵ながら褒美まで与えたという。
1617年、最上義光(もがみ・よしあき)の孫でわずか13歳の最上義俊(よしとし)が家督を継いだことに反対し、義光の四男・山野辺義忠(やまのべ・よしただ)を擁立したため最上家は内部分裂を起こした。
この「最上騒動」により最上家は近江1万石へと改易され、秀綱も責任を問われ土井利勝(どい・としかつ)のもとに預けられた。
その後は土井家に仕えたが、与えられた知行はすべて旧臣に分け与え、自身は家臣のもとを転々としたとも伝わる。
延沢満延(のべさわ・みつのぶ)
出羽の人(1544~1591)
最上家。姓は野辺沢と書くこともある。
延沢家は天童家を盟主とする「最上八楯」の一家で、当初は最上義守(もがみ・よしもり)方に付いたため、その嫡子で父と反目する最上義光(よしあき)とは敵対した。
中でも満延の武勇は飛び抜けており、義光は「最上八楯」を破るには満延を引き抜くしかないと考え、軍師・氏家守棟(うじいえ・もりむね)を通じ自分の娘を満延の息子に嫁がせた。
満延は降伏の条件として「最上八楯」盟主の天童頼澄(てんどう・よりすみ)の助命を申し出、義光もそれを受け入れた。
満延を失った「最上八楯」は各個撃破されたが、天童頼澄は約定通り見逃され、後に伊達家に仕えた。
ある時、義光は満延の怪力を試そうと、力自慢の家臣7~8人に不意に飛びかからせたが、満延は簡単に振り払った。
驚いた義光は太さ2尺ほどの桜の木に登って逃げようとしたが、それを満延が捕まえ引っ張ると、両者がもみ合ううちに桜の木は根から引き抜かれ、倒れてしまったという。
義光自身も怪力で、現存する義光が使ったという指揮棒は一般的な刀の実に2倍もの重さがあり、両者の力が合わさればありえない話ではなかろう。
しかし最上家ではその武勇を存分に発揮する前に、義光に従い上洛した際に病に倒れ、48歳で没した。
最上義守(もがみ・よしもり)
出羽の人(1520~1590)
最上家の当主。
1520年、当主だった大伯父の最上義定(よしさだ)が没すると、嗣子がいないのをいいことに義兄の伊達稙宗(だて・たねむね)は実権を掌握し、わずか2歳の義守を擁立し傀儡政権を築いた。
だが1542年、伊達稙宗と子の伊達晴宗(はるむね)の間で争いが起きるとその隙に乗じ、重臣の氏家定直(うじいえ・さだなお)らに助けられ独立を果たした。
当初は稙宗方についたものの劣勢と見るや晴宗方に鞍替えするなどうまく立ち回り、徐々に力を蓄えていった。
1570年頃、嫡子の最上義光(よしあき)との仲が険悪になり、たがいに刺客を送り合うほどだった。
氏家定直の仲裁でどうにか和解し、家督も義光に譲ると、義守は重病により危篤状態となった。
義光と伊達家当主・伊達輝宗(てるむね)、輝宗に嫁いでいた娘の義姫(よし)を臨終の床に呼び寄せ、義兄弟で仲良く事にあたるよう告げたものの、それで安堵したのか義守はすっかり快復してしまい、義光はさては父の謀略だったかと考え、再び父子の仲は険悪化した。
1574年、伊達家との同盟破棄も視野に入れていた義光を警戒する伊達輝宗の兵を招き入れ、ついに父子は衝突した。
最上家は内部分裂しかけたが、義姫が義光・輝宗両軍の対峙する間に輿を乗り付けると「なぜ醜い兄弟喧嘩をするのか」と両者を叱責したため、伊達・最上両家に強い影響力を持つ義姫の意向を無視できず和議を結ぶにいたった。
その後も暗闘は続いたが、晩年には父子は和解し、義守が再び危篤に陥ると義光は病気治癒の祈祷を大々的に行い、ついに没すると義光は豊臣秀吉の小田原征伐への招集も「父の葬儀を行うため」と断りを入れ、大幅に遅参した。
招集を渋り家名取り潰しされかけた伊達政宗(輝宗と義姫の嫡子である)よりも到着は遅れ、徳川家康のとりなしもあり、お咎め無しとなったものの、危険も顧みずに父の葬儀を優先した義光とは、完全に和解していたと見るべきだろう。