三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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松平忠輝(まつだいら・ただてる)
江戸の人(1592~1683)
徳川家康の六男。
母の身分が低く、容貌も醜かったため家康には出生時から疎まれ、下野3万石に過ぎない皆川広照(みながわ・ひろてる)に預けられた。
父に二度目に会ったのは7歳の時で、かつて家康に反目し切腹を命じられた長男・松平信康(のぶやす)に似た容姿に育ってきた忠輝を、家康はますます憎らしく思ったという。
それでも長じると信濃川中島12万石にまで上り、1606年には伊達政宗の長女をめとった。
だが父への反骨心からか粗暴な性格に育ち、養父で家老となっていた皆川広照は素行不良を幕府に訴えさえした。(しかし訴えた広照らが逆に免職となった)
政宗の威光もあり1610年には越後高田を与えられ、川中島と合わせ75万石の大身に上るも、依然として家康とは不仲で、1614年、大坂冬の陣では留守居役を命じられ大いに不満を抱いた。
翌年の大坂夏の陣には参戦したものの、最激戦区となった天王寺への進撃が遅れた。一説に兵力の損耗を嫌った伊達政宗に遅参を命じられたともいうが陰謀論に過ぎるだろうか。
1616年、家康が死の床につくと忠輝も駆けつけたが、面会を許されなかった。
そして父の死から3ヶ月後、徳川秀忠の命で改易となり、伊勢、飛騨、信濃に転々と流された。
息子の松平徳松(とくまつ)は父への同行を許されず、預け先で冷遇され悲嘆のうちに18歳で自害したという。
改易の理由は夏の陣での遅参と、その際に進路を遮った秀忠の旗本を斬り捨てたこと、朝廷への参内を無視して舟遊びに興じていたこと、が挙げられるがいずれも75万石を没収するほどの大罪とは思えず謎は残る。
1682年、忠輝は幽閉先の諏訪で死去した。享年92。
彼が徳川宗家から赦免されたのは実に1984年のことで、それも菩提寺の住職が300回忌に伴い思い立ってのことである。
さんざんな冷遇ぶりは様々な憶測を呼び、家老で死後に多くの大名を巻き込む不正会計事件が発覚した大久保長安(おおくぼ・ながやす)と結託していた、果ては伊達政宗とともに幕府転覆を企んだ、家康や秀忠の暗殺を狙った等とも囁かれる。
一方で織田信長、豊臣秀吉を経て家康の手に渡ったとされる天下人の象徴「野風の笛」が忠輝の所有として現存しており、また75万石もの大領を任されたことから、父子の仲は巷間伝えられるほど悪くなかったのでは、とも言われる。
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松平忠明(まつだいら・ただあき)
三河の人(1583~1644)
徳川家の重臣・奥平信昌(おくだいら・のぶまさ)の四男。母は徳川家康の長女・亀姫(かめ)で、家康の孫に当たる。
6歳で家康の養子になり松平姓を名乗った。10歳の時に兄(次男)が没したためその家督を継ぎ上野7千石を治めた。
17歳で叔父の徳川秀忠から一字拝領し「忠明」に改名し、翌1600年には関ヶ原の戦いにも参戦した。
1610年、伊勢亀山5万石に加増され、1614年、大坂冬の陣では美濃の諸大名を率い河内方面を任された。
もともと美濃勢は兄が率いる予定だったが出陣の直前に病死し、忠明が代役になったため5万石の小身ながら1万3千もの大軍を率いた。
豊臣家との和睦が成立すると、忠明は大坂城の外堀・内堀の埋め立てを命じられ、夏の陣の勝利の布石となった。
戦後、摂津大坂10万石に加増された忠明は戦災復興にあたり抜群の手腕を見せ、復興させるに留まらず運河を広げ市街地を大幅に拡大し、今日の大阪の発展に多大な貢献をした。道頓堀の名付け親だともいう。
徳川秀忠からは絶大な信頼を受け、もし謀叛が起こり自分が斃れたら後を任せるとまで言われた。
1632年、秀忠が没すると遺言により井伊直孝(いい・なおたか)とともに徳川家光の後見人に任じられる。1639年には播磨姫路18万石に加増され西国探題として西国の諸大名を監督した。
また異説はあるが家康の事績を中心に当時の社会情勢や世相を記した「当代記」の著者としても知られる。
1644年、62歳で没した。
無名に近い人物だが、現代の東京と並ぶ大都市・大阪は彼なくしてあり得なかったろう。
※アイコンは関平
前田利長(まえだ・としなが)
尾張の人(1562~1614)
前田利家の嫡子。幼名は父と同じ犬千代(いぬちよ)で、はじめは前田利勝(としかつ)と名乗った。
織田信長の娘・永姫(えい)をめとり、父の旧領を与えられるなど若くして将来を期待されたが1582年、信長が本能寺の変で討たれると時代のうねりに巻き込まれる。
変の直後には当時7歳の妻を故郷の尾張荒子に匿い、自身は織田信雄(のぶかつ)か蒲生賢秀(がもう・かたひで)に合流し明智光秀に対抗した。
変後は父とともに柴田勝家の傘下に入ったが、1583年、賤ヶ岳の戦いで勝家と親友・羽柴秀吉が争い、板挟みとなった利家は戦線離脱し秀吉の勝利を決定づけた。
勝家は撤退中、利家の居城に立ち寄ると恨み言の一つも言わず、今までの労をねぎらい茶漬けを一杯だけ所望し北ノ庄城に引き上げた。
利家は秀吉のもとで北ノ庄城攻めに加わったが、利長は置いていこうと考えた。しかし妻まつはあえて息子を送り出した。父に隠れて従軍したためか利長にはわずか2騎の供回りしか同行しなかったという。
その後は父とともに秀吉配下として各地を転戦し、1585年には越中に32万石を与えられた。
1598年に秀吉が没し、翌年に利家も没すると家督とともに加賀金沢26万石を受け継いだ。
利家は五大老として諸大名へにらみを利かせ、存命中は大きな問題を起こさせなかった。
しかし死後、徳川家康は利家に代わり五大老となるや禁止されていた諸大名との婚姻を進めて連携を強化し、石田三成ら文治派と加藤清正ら武断派は衝突し、早くも家康の五大老就任の翌日に清正らが三成を襲撃する事件まで起こった。
利長は偉大な父の後継者として反徳川陣営の筆頭に担ぎ上げられようとしたが、3年は上方を離れるなという遺言を無視し、加賀へ引き上げた。
浅野長政(あさの・ながまさ)や増田長盛(ました・ながもり)ら五奉行はすかさず利長に反乱の兆しありと家康に奏上し(そもそも加賀へ引き上げるよう勧めたのも家康で、一連の流れは利長を陥れる謀略と考えられる)家康は加賀征伐を決めた。
前田家は主戦派と降伏派に分かれ激しく議論を戦わせ、利長もはじめは主戦派だったが、豊臣家に援軍要請を断られ、母まつも自ら家康への人質を買って出るなど息子を説得したため、利長は養嗣子の前田利常(としつね)と家康の孫娘の婚姻などを条件に降伏した。
また、まつは江戸へ人質に赴きこれは後の参勤交代の先駆けとなった。
1600年、関ヶ原の戦いで利長は家康率いる東軍につき、丹羽長重(にわ・ながしげ)と戦った。
弟の前田利政(としまさ)が西軍につき出陣しなかったため(妻子を西軍に人質に取られたとも、家康への反感ともいう)戦後に利政の治めていた能登七尾22万石は没収されたうえで利長に与えられ、丹羽軍と戦い制圧した西加賀18万石も領有を認められ加賀・能登・越中に計122万石を有する日本最大の藩である加賀藩が誕生した。
また妹の豪姫(ごう)が嫁いでいた宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)は西軍の主力として本戦でも奮闘していたが、利長の嘆願により処刑は免れ八丈島への流罪に留まった。豪姫は前田家に戻ったが他家へ嫁ぐことなく秀家への援助を続けたという。
1605年、利長は44歳の若さで隠居し、男子がいないため養嗣子にしていた異母弟の利常に家督を譲ったが、利常は12歳と幼く、利長は一線で活躍し続けた。
しかし1609年頃から病に倒れ、回復の気配もないまま1614年に53歳で没した。
一説には病を苦にして服毒自殺を遂げたとも伝わるが、父利家も重病に苦しみ最期は痛みに激昂し切腹したとの説もある。
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本多正純(ほんだ・ まさずみ)
三河の人(1565~1637)
徳川家康の軍師かつ親友の本多正信(まさのぶ)の嫡子。
出生時、正信は三河一向一揆で一揆方についたため追放され、大和の松永久秀のもとにいたが、正純と母は徳川家の重臣・大久保忠世(おおくぼ・ただよ)に保護されていたという。
父の復帰とともに家康に仕え、父譲りの智謀で頭角を現した。
1600年、関ヶ原の戦いでは家康の側近くで参謀を務め、戦後には捕らえた石田三成の身柄を預かった。
その際には三成に「なぜ捕まる前に潔く腹を切らなかった」と尋ね「大望ある者は最後まで諦めないものだ」と言い返されたという逸話が有名である。
1605年、家康が征夷大将軍の座を徳川秀忠に譲ると、秀忠のもとには大久保忠世の子・大久保忠隣(ただちか)が、家康のもとには正純が、そして両者の仲介役として正信が配された。
家康からの信頼は父にも劣らぬもので、居城にしていた駿府城が失火で焼け落ちると、正純の屋敷で暮らすほどだった。
だが絶大な権勢を手にしたため家康の死後には驕り高ぶるようになり、次第に諸大名の恨みを買っていく。
家康と同年に死去した正信は3万石以上の知行は受けないよう遺命したが、再三の勧めを固辞し切れず1619年には下野宇都宮15万石に加増され、ますます妬みを招いた。
1622年、正純は突如として11ヶ条に及ぶ謀叛の嫌疑を掛けられた。それには淀みなく答えたものの、追加で質問された、将軍家直属の同心を殺したこと、鉄砲を無断で集めたこと、宇都宮城を許可無く改修したこと、の3ヶ条には弁明に窮した。
秀忠はこれまでの忠勤に応じ改易ではなく出羽由利5万石への減封で留めようとしたが、謀叛など身に覚えのない正純はそれを毅然とはねつけたため、激怒した秀忠は改易と幽閉を命じてしまった。
一連の顛末は秀忠の腹心で正純のライバルだった土井利勝(どい・としかつ)による謀略説。
奥平家に嫁いでいた秀忠の姉・亀姫(かめ)が、宇都宮から下総古河に転封させられ後釜に正純が座ったこと、一人娘が嫁いだ大久保家が正純の讒言で改易された(と彼女は見なした)ことを恨み、弟の秀忠に正純を讒言した説。
などが囁かれ、また宇都宮城の無断改修から宿泊した秀忠を機械仕掛けで暗殺しようと企んだという「宇都宮釣り天井事件」の逸話が創られた。
秀忠は重臣中の重臣だった正純の改易について諸大名に説明して回るという異例の対応を取り、説明を受けた細川忠利(ほそかわ・ただとし)は福島正則の改易に正純が反対したこと、宇都宮15万石を得てから数年経って返上を言い出したことが原因であると書き記している。
また関ヶ原の戦いの折、秀忠は真田家の上田城を攻めたため本戦に間に合わず家康から叱責されたが、その際に秀忠のもとには正信が参謀に付いており、正純は父の不手際だったと詫び処罰を願い出て秀忠に感謝されたという逸話があり、命までは取らず幽閉に留めた理由ともされる。
正純は73歳で没するまで15年間にわたり幽閉され、ともに幽閉となった息子にも先立たれた。
逃亡を防ぐため窓や戸は全て板で釘付けにされ、陽もろくに差さない中での軟禁生活を強いられたという。
孫らは正純の死後に他家へ仕官し、旗本として存続している。
※アイコンは李異
本多政重(ほんだ・まさしげ)
出身地不明(1580~1647)
徳川家康の軍師を務めた本多正信(まさのぶ)の次男。
出生時、正信は家康のもとを出奔していたため堺の生まれか。
1591年、12歳の時に徳川秀忠の乳母の子を口論の末に斬り殺し、徳川家を出奔した。
その後は大谷吉継を経て宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)に仕え、1600年の関ヶ原の戦いでも宇喜多軍として家康と戦った。
戦後は父の威光もあってか罪には問われず、福島正則、次いで前田利長(まえだ・としなが)に3万石の高禄で迎えられた。
しかし1603年、逃亡中の宇喜多秀家が捕縛されると、秀家の正室の弟にあたる利長をはばかって前田家を離れた。
翌年、徳川家への接近を図る直江兼続は政重を婿養子に迎えた。
直江姓を継ぎ、兼続の主君・上杉景勝から一字もらい受け直江勝吉(なおえ・かつよし)と改名した。早くも翌年に妻は没してしまうが、兼続は今度は姪の阿虎(おとら)を嫁がせた。(その際に姪の父(兼続の弟)は縁組に反対して出奔している)
だが1611年、上杉家からも離れると藤堂高虎の仲介により前田家に帰参した。
妻の阿虎をはじめ多くの上杉家の家臣が政重を慕って後追いで仕え、その後も上杉家との交流は続いた。
家老として前田家を支え多くの功を立て、1614年には自称していた安房守に実際に任官された。
前田家5代に仕え、1647年に68歳で没した。
父や兄・本多正純(まさずみ)は智謀で知られたが、政重は武勇に優れたため出奔を重ねても多くの大名に招かれ続けた。
一説には正信の密命を帯びて各地の大名のもとを回る間諜の役目を務めていたともされる。
※アイコンは張苞
本多忠朝(ほんだ・ただとも)
三河の人(1582~1615)
本多忠勝の次男。稲姫の弟。
父に劣らず武勇に優れ1600年、関ヶ原の戦いでは父とともに手柄を立てた。
戦後、忠勝が伊勢桑名に移封されると、その旧領である上総大多喜5万石を与えられた。
1610年、忠勝が没し遺言で1万5千両を忠朝に遺した。だが忠朝は兄の本多忠政(ただまさ)の方が所領は広く軍役も重いからと、これを返上した。忠政も父の遺命に背けないと受け取ろうとせず、幕府の裁定を仰ぎ兄弟で折半することになった。
しかし忠朝は「いつか兄が困った時のために」と取り分は蔵に入れて封をしたという。
1614年、大坂冬の陣では泥酔しているところに奇襲を受け敗走した。
さらに自軍の配置された前方に塀があったため場所替えを徳川家康に申し入れると「図体ばかりでかい役立たずめ」と叱責された。
発奮した忠朝は翌1615年、大坂夏の陣で先鋒を願い出ると、毛利勝永(もうり・かつなが)の陣に突撃を仕掛け戦死した。
死の間際「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」と言い遺したとされ、彼の墓所には現在もなお禁酒を願う参拝客が訪れるという。
戦後、家康はその死を悼み、遺児の本多政勝(まさかつ)を大和郡山15万石の藩主に封じ、生還した5人の家臣には感状を与えた。
また真田信之に嫁いだ姉の稲姫は、夏の陣に出陣した二人の息子が無事に帰ると「実家では弟が戦死したのだから、あなた達のどちらかが戦死すれば真田家の面目が立ったのに」と言い放ったという。
※アイコンは周泰
本多重次(ほんだ しげつぐ)
三河の人(1529~1596)
徳川家の重臣。通称は作左衛門(さくざえもん)で勇猛かつ非常に激しやすかったことから「鬼作左」と呼ばれた。
高力清長(こうりき・きよなが)、天野康景(あまの・やすかげ)とともに奉行を務め、公明正大、即断即決で知られた。
また三人はそれぞれの性格から「仏高力、鬼作左、どちへんなき(公平)は天野三郎兵衛(さぶろべえ)」とうたわれた。
厳しくも温かい性格は民衆に慕われ、ある時、家康が立て札に法令を掲げさせたが、それを読んだ重次はこんな難解な文章では伝わらないと憤慨し、自ら平易な文で書き下すと、最後に「以上のことを守らなければ作左が叱る」と付け加えた、という逸話が広く伝わる。
また妻に宛てた手紙である「一筆啓上、火の用心、お仙(息子)泣かすな、馬肥やせ」は日本一短い手紙、武士の手紙の見本として著名である。
軍事面でも活躍し、三河一向一揆の際には一向宗門徒の多くが一揆方につくなか、改宗してまで徳川家康に尽くした。
三方ヶ原の戦いでは数十人の敵に囲まれるも、突かれた槍をつかんで敵兵を引きずり下ろすと、馬を奪い包囲を破ったと伝わる。
一方で体中に傷を負い、片目と片足を失い、指も数本無くしていたという。
1585年、家康が悪性の腫瘍を発し危篤に陥った。近くに明から来ていた名医がいたが、自ら薬を作るほど医学に凝っていた家康は異国の医者を嫌い診察を断った。
すると重次は「助かる命を捨てるとはなんともったいない。殿の後に死ぬのも悲しく、生き残ってもみじめなのでお先に死にます」と言い残し辞去していった。
重次の剛直さをよく知る家康は、本当に死ぬつもりだと慌てて止め、自分の死後に徳川家を頼むと伝えさせた。
だが重次は「私が手足や片目を失いながらも今ここにあるのは殿のおかげです。かつて武田家は徳川家よりも大きく、知勇兼備の士を揃えていながら滅びました。武田の旧臣は我々よりずっと低い身分で耐えています。殿が亡くなれば我らも同じ運命をたどるでしょう」と重ねて治療を受けるよう願い出た。家康も心動かされ、治療を受け完治した。
重次の諫言がなければ家康はここで命を落とし、徳川の世は来なかったかも知れない。
しかし1590年、小田原征伐後に徳川家が関東へ移封されると、秀吉の意向によりわずか3千石を与えられ蟄居となった。
重次は秀吉のもとへ人質に出していた息子を母の病気と偽って呼び戻したり、秀吉の母の世話役を命じられた時、屋敷の周囲に薪を積み上げ、家康に害をなせば火を放つと脅したり、城に立ち寄った秀吉を無視したりと、あからさまに歯向かっていたため、大いに恨みを買っていたという。
1596年、68歳で没した。
家督はお仙こと本多成重(なりしげ)が継ぎ、松平忠直(まつだいら・ただなお)に仕えたが、忠直が改易になると越前丸岡4万石の譜代大名に取り立てられた。
※アイコンは文聘
平岩親吉(ひらいわ・ちかよし)
三河の人(1542~1612)
徳川十六神将の一人。
主君の徳川家康と同い年で、今川義元の人質時代から側近くに仕えた。
家康からの信頼厚く、長男の松平信康(まつだいら・のぶやす)が元服すると傅役を命じられたが、1579年に織田信長の勘気を蒙り、信康は切腹を命じられた。
親吉は自分の首と引き換えに助命嘆願したが許されず、信康が自害すると責任を取り蟄居した。なお近年の研究では信康自害は信長の命ではなく家康の意向とする説も有力視されている。
1582年、本能寺の変で信長が討たれると、混乱に乗じて家康は甲斐を奪い、親吉に統治させた。
家康が豊臣秀吉の命で関東に移封されると親吉も上野厩橋3万石に移されたが、1600年の関ヶ原の戦いで家康が覇権を握ると、再び甲斐甲府6万石に戻った。
1603年、徳川義直(よしなお)が甲斐25万石に封ぜられた時も、義直が幼少のため親吉が傅役かつ代理として甲斐を統治した。
義直からの信頼も厚く、尾張に移封となると家老として藩政を任され、尾張犬山に12万石を得た。
1611年、70歳で没した。
親吉には男子が無かったため家康は自分の八男を養嗣子として与えていたが、彼も1600年に没しており、平岩家は断絶の危機に見舞われた。
親吉は所領を義直に譲るよう遺言していたが、家康は八方手を尽くして私生児を探し、ようやく見つけたものの母親に否定されてしまい、やむなく断絶となった。
こうして本家は途絶えたものの、庶家は義直に仕え、また他の一族は姫路で現在まで続いている。
~滅私奉公の男~
無私無欲の性格を表す逸話がいくつも伝わっている。
秀吉が伏見城を築いた時のこと、本多忠勝、井伊直政、榊原康政(さかきばら・やすまさ)、親吉らに祝儀として黄金百枚を与えた。
忠勝と直政は受け取り家康には黙っていた。康政は家康に報告し、許可を得てから懐に収めた。
親吉は「家康に禄を受け衣食足りているのに受け取るいわれはない」と突き返したという。
親吉の弟が、若い頃の榊原康政と諍いを起こし、斬られて傷を負った。
すでに家老の地位にいた親吉は「康政は今は小身だが才知に長け勇敢で、いずれ主君の役に立つ傑物だ。弟は人に斬られる程度の役立たずである」と裁定し、弟に兵法を習うのをやめさせ、逆に康政を推挙したという。
1611年、家康と豊臣秀頼(ひでより)が会見した後、同席していた加藤清正が急死した。
親吉も9ヶ月後に没しており、それを受けて毒まんじゅうによる暗殺説がささやかれ、後に歌舞伎の題材となった。
内容は以下の通りである。
家康は秀頼の暗殺を企み、遅効性の毒を仕込んだ毒まんじゅうを秀頼に勧めた。警戒を解くため親吉が進んで食べたが、意図を見抜いた清正が横からまんじゅうを全て平らげ、揃って毒死したというのである。
創作にすぎないが、この会見から2年のうちに池田輝政(いけだ・てるまさ)、浅野幸長(あさの・よしなが)ら豊臣恩顧の大名が相次いで(それも清正と同じ病名で)急死し、毒殺説がささやかれ、また親吉も若い頃に信長の命を受け、家康の叔父である水野信元(みずの・のぶもと)を暗殺しており、虚実入り交ざったいくらかの信憑性を与えている。
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丹羽長重(にわ・ながしげ)
尾張の人(1571~1637)
織田信長の重臣にして親友・丹羽長秀(ながひで)の嫡子。
1582年、信長が本能寺の変で討たれると、父とともに羽柴秀吉に従い、数々の戦に出た。
長秀が体調を崩したため代わって指揮を取り、1585年に没すると越前・若狭・加賀の計123万石を継いだ。
だが同年、家臣が敵方に内応したと難癖を付けられ越前・加賀を没収され若狭15万石に大減封された上に、重臣の長束正家(なつか・まさいえ)、溝口秀勝(みぞぐち・ひでかつ)、村上頼勝(むらかみ・よりかつ)らを秀吉の直臣として召し上げられた。
さらに1587年、またも家臣の不祥事を口実に若狭も取り上げられ、父の死からわずか2年で加賀松任4万石にまで転落した。
一連の減封は外様で最大勢力に近かった丹羽家の力を削ぐための秀吉の工作と思われる。
それ以上の処罰は受けず、1590年、小田原征伐の軍功により加賀小松12万石に加増のうえ転封となった。同時に従三位参議の官位を得たため、参議の中国名にちなみ「小松宰相」と呼ばれた。
1598年、秀吉と前田利家が相次いで没すると、徳川家康からは利家の嫡子で領地を接する前田利長(としなが)を監視する密命を受けた。
1600年、関ヶ原の戦いでは密命を愚直に守ったわけではあるまいが、東軍についた前田家に対抗するように西軍につき、激しく争ったため戦後にはついに改易となった。
しかし築城技術に優れ、実直な性格の長重は家康らに信頼され1603年には常陸古渡1万石を与えられ大名に復帰した。
1617年にはやはり西軍に与し改易されながらも大名に復した立花宗茂とともに徳川家光の御伽衆に抜擢された。同時に任官された4人の中で長重は最年少である。
その後は2万石、5万石と加増を重ね1627年には陸奥白河10万石に上った。関ヶ原で西軍に与し改易された後に10万石を得たのは長重と立花宗茂の2人だけである。
丹羽家の再興を聞き、離散していたかつての旧臣たちが次々と舞い戻り、またもともと白河を治めていた蒲生家の旧臣も召し抱え城が手狭となり、新たに白河小峰城を築いたため丹羽家の財政は逼迫したと伝わる。
1637年、67歳で没した。
子や家臣らに「将軍の恩を第一として、幕僚と円滑に付き合い、徳川幕府への忠勤に励め。しかし機転を利かせすぎたり、媚びへつらうのは良くない」と遺言したという。
家督は子の丹羽光重(みつしげ)が継ぎ、後に陸奥二本松10万石に転封となり幕末まで続いた。
光重は茶道や絵画の腕に優れ、作品は現存している。
※アイコンは南華老仙
南光坊天海(なんこうぼう・てんかい)
陸奥の人(1536?~1643)
徳川家康の側近。
出自を語らなかったため前半生の事績は不確かだが、蘆名家の一族だという。
はじめは随風(ずいふう)と名乗り天台宗を修めたが、織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちを機に山を降り、武田信玄に招かれ甲斐に移った。
その後は蘆名家に招かれ陸奥へ、上野、武蔵と関東を転々とし、やがて天海を名乗ると1590年、小田原征伐の頃に徳川家康に仕えた。
僧侶ながら家康の参謀として政治・軍事を問わず献策し、朝廷との交渉役も務めた。
1600年、関ヶ原の戦いに勝利した家康は幕府を開くにあたり、天海の意見をもとに江戸を選んだ。
天海は風水や陰陽道に基づき呪術的に江戸を守るため区画割りや設計を行ったといい、1640年に完成するまで全工程に関わった。
1616年、危篤に陥った家康は天海と、臨済宗の僧侶でやはり参謀を務めた以心崇伝(いしん・すうでん)に自身の葬儀を委ねた。
二人の意見は対立したが、天海の主張が通り家康は「東照大権現」として日光に葬られた。
天海は家康の死後も徳川幕府に重用され、没した時には百歳を悠に超える長命だったという。
~~天海=明智光秀説~~
謎に包まれた前半生から創作では彼を12代将軍・足利義晴(あしかが・よしはる)の落胤とするなど様々な説が挙げられるが、中でも最も著名なのは明智光秀と同一人物とするものである。
以下にその傍証を記す。
・日光東照宮の装飾に多数の桔梗紋が用いられているがこれは明智家の家紋である
・天海の墓所に天海自ら名づけた「明智平」という地名がある
・比叡山には光秀が没した1582年以降に「明智光秀」の名で寄進された石碑が残る
・実戦経験が無いはずの天海の甲冑が現存し、関ヶ原の屏風絵には家康本陣に天海の姿がある
・徳川家光の乳母を務め後に絶大な権力を有した春日局は、光秀の腹心・斎藤利三(さいとう・としみつ)の娘
・光秀の孫にあたる織田昌澄(おだ・まさずみ)は大坂の陣で豊臣方についたが、戦後に助命されたばかりか旗本に登用された
それぞれ反証もあるがいずれにしろ夢のある話であり、さるテレビ番組で天海と光秀の筆跡鑑定をしたところ「同一人物か、親子など非常に近しい人物」という結果が出たという。
いつか真偽が明らかになる日は来るだろうか。