三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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北条高広(きたじょう・たかひろ)
越後の人(??~??)
長尾家に仕え長尾景虎(後の上杉謙信)の代になった1554年、武田信玄と内通し反乱した。
しかし翌年に鎮圧されると以降は奉行として活躍する。
1563年、上野厩橋城を任され関東方面を統治した。
だが1567年、今度は北条氏康と内通し離反。氏康は字こそ同じだが読みの違う高広がまぎらわしいため「喜多条」と書いて区別し、高広も毛利姓を名乗った。
しかし翌年、上杉家と後北条家が和睦を結ぶと後北条家の仲介により上杉家に出戻った。
1574年に隠居し、嫡子の北条景広(かげひろ)に家督を譲った。
謙信が没すると出家して弔い、上杉家の後継者争い(御館の乱)では上杉景虎(うえすぎ・かげとら)に肩入れしたものの、父と景広を殺され武田家へ亡命した。
1582年、武田家が滅亡するとそのまま織田家に仕えるが、本能寺の変で織田軍が撤退すると後北条家に従う。
同年のうちに上杉家に三度出戻ったものの、後北条軍に囲まれて降伏。
その後は歴史から姿を消し、跡を継いだ一族の「北条高広」なる同姓同名の別人は上杉家に仕えたものの、家名を復興させることはできず没落したという。
非常に勇猛で「器量・骨幹、人に倍して無双の勇士」とうたわれたが一方で「上杉家一の粗忽者」とも呼ばれていた。
ついうっかり離反を繰り返したものの、あっさり出戻りを何度も許されているあたりにその粗忽さが垣間見える。
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柿崎景家(かきざき・かげいえ)
越後の人(1513?~1574)
上杉謙信に仕えた名将。
はじめは謙信の兄・長尾晴景(ながお・はるかげ)に仕えたが、家督争いが起こると謙信を支持した。
並外れて勇猛で戦では常に先鋒を務め、1561年の第四次川中島の戦いでは武田信玄の本陣を攻め、壊滅寸前にまで追い詰めた。
武勇一辺倒ではなく内政・外交手腕にも優れ、同じく上杉家を代表する名将である斎藤朝信(さいとう・とものぶ)とともに奉行職も担った。
北条家との同盟では次男の柿崎晴家(はるいえ)を人質に送るなど謙信からの信頼も絶大で、関東管領の就任式では朝信とともに太刀持ちを務めたという。
一方でこれは創作と思われるが、敵将の娘と恋仲になった謙信を諌め、娘を自害に追い込んだため謙信は生涯、妻をめとらなかったとする逸話もある。
1574年に62歳で病死した。
嫡子は前年に越中攻めで重傷を負っていたため次男の柿崎晴家が跡を継いだ。
景家は織田信長との内通を疑われ謙信に自害させられたとする俗説が広く信じられているが、これは誤伝である。
晴家は1578年、上杉家の家督争いで上杉景虎(かげとら)方につき、上杉景勝によって暗殺された。これも父と同じく織田家との内通を疑われ死罪を命じられたとする説があり、混同が見られる。
柿崎家は直江兼続の後見により晴家の3歳の長男・柿崎憲家(のりいえ)が継いだが1597年、普請役に異を唱えたところ兼続の逆鱗に触れ追放された。
その際には須田家、本庄家、高梨家に斎藤朝信の息子といった上杉家重臣の子弟も同時に追放されており、粛清の口実にされた感が強い。
なお上杉景勝の息子の代になってから憲家は、他の追放された子弟とともに帰参を許されている。
余談だが海音寺潮五郎の「天と地と」などで景家は脳筋・好色の人物に描かれたため「信長の野望」シリーズでは長らく武力90オーバー、知力10近辺、政治10~30な三国志の張飛さながらの脳筋キャラに設定されていたが、近年のシリーズではまず政治が60台に急上昇し、最新作「創造」では知略77、政治63の文武両道の名将にようやく評価し直されている。
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伊達秀宗(だて・ひでむね)
陸奥の人(1591~1658)
伊達政宗の庶長子。幼名は兵五郎(ひょうごろう)。
4歳で豊臣秀吉の人質となり、父のもとを離れ伏見城で育った。
翌年、豊臣秀次(ひでつぐ)が処刑されると、秀次と懇意だった政宗も連座し、隠居のうえ兵五郎に家督を譲り伊予に移封するよう命じられた。
徳川家康のとりなしにより許されたものの、伊達家の重臣19名による連署で「もし政宗に叛逆の意志があればただちに隠居させ、兵五郎に家督を譲る」誓約を立てさせられた。
1596年、元服すると秀吉から一字もらい受け秀宗と名乗り、秀吉の嫡子・豊臣秀頼(ひでより)の小姓に取り立てられた。
秀頼と遊びで格闘した際に、年長の秀宗が勝ち秀頼を組み伏せたが、とっさに懐紙を出してその上から踏みつけ、直接には足蹴にしない配慮を見せ、秀吉を感心させたと伝わる。
秀吉が没し1600年、関ヶ原の戦いが起こると、秀宗は石田三成に捕らわれ人質とされた。
政宗は東軍についたが秀宗に手出しはされず、戦後には徳川家康への人質として江戸に預けられた。
1602年、政宗と正室の愛姫(めご)の間に伊達忠宗(ただむね)が生まれると、それまで後継者と目されてきた秀宗は微妙な立場に置かれた。
1609年、19歳となった秀宗は亡き徳川四天王・井伊直政の娘をめとり徳川陣営に迎えられた。
一方で征夷大将軍となっていた徳川秀忠から一字もらい受けた忠宗が、事実上の政宗の後継者に据えられた。
秀宗が遠ざけられた理由は、側室の子であること、豊臣家と関わりが深いこと、が挙げられている。
だが後に徳川家光に拝謁した際には、忠宗よりも上座を望み、伊達家の長子であることを示したという。
1614年、大坂冬の陣で政宗とともに初陣を飾り、戦後に政宗に与えられた伊予宇和島10万石はそのまま秀宗に譲られ、別家を立てられた。
家臣団には政宗が自ら選んだ重臣があてられ、多くの支度金も持たされた。
だが1620年、政宗が家老としてつけていた山家公頼(やんべ・きんより)が対立する家臣によって暗殺された。
秀宗はこれを父にも幕府にも報告しなかったため、激怒した政宗は秀宗を勘当し、宇和島藩の返上を幕府に申し出た。
老中・土井利勝(どい・としかつ)の仲裁により返上は退けられ、父子は面会の場を設けられた。
そこで秀宗は家督を譲られなかったこと、長らく人質生活を送らされたこと等、恨みつらみを正直に父にぶつけた。
腹蔵なく語り合ったことにより父子は和解し、政宗は勘当を解き、以降は和歌や贈り物を交換しあうほどに関係は修復された。
1636年、政宗が没すると秀宗は葬儀に参列した。長子でありながら秀宗が仙台に足を踏み入れたのはこれが最初で最後であった。
翌年には秀宗も体調を崩し、長男も病弱で家督相続を辞退していたため、藩政は次男の伊達宗時(むねとき)が代行した。
1653年、宗時も没すると三男の伊達宗利(むねとし)が嫡子となり、1657年に家督を譲り、翌1658年に秀宗は68歳で没した。
宇和島藩の初代藩主であるが、幕末の藩主が二代にわたり名君と仰がれたこともあり、秀宗の陰は薄くなり現在の宇和島市には銅像も石碑も残っていない。
しかし彼ら子孫の活躍により宇和島藩の伊達家は侯爵に列し、伯爵どまりとなった仙台藩の本家よりも家格は上になったという。
※アイコンは橋瑁
畠山義綱(はたけやま よしつな)
能登の人(??~1593)
1551年、前年に起きた内乱の責任を取り父の畠山義続(よしつぐ)が隠居したため家督を継いだ。
畠山家は実質的に「畠山七人衆」と呼ばれる重臣が合議の上で支配していたが、義綱父子は実権を取り戻すため1555年、七人衆の中心的人物である温井総貞(ぬくい・ふささだ)を暗殺した。
温井家は加賀一向一揆を招き入れ内乱を起こしたが、義綱父子はそれを鎮圧するとともに1560年頃には実権を奪い返した。
名家として能登という遠方にありながら足利将軍家とも親密に交友し中央政権にも関わったという。
しかし1566年、もとの七人衆である長続連(ちょう・つぐつら)、遊佐続光(ゆさ・つぐみつ)らが反乱し義綱父子を追放した。
父子は縁戚にあたる六角家のもとへ落ち延び、上杉謙信や神保家の援助を得て1568年には能登へ侵攻したが敗北し、その後も様々な手を尽くしたが復権はかなわなかった。
晩年は記録が少なく、義綱は豊臣家に仕えたともされるが定かではない。義続は1590年、義綱は1593年に相次いで没した。
能登に残された嫡子の畠山義慶(よしのり)は七人衆に傀儡として利用された末、1574年に急死し、跡を継いだ次男もその2年後にやはり急死しており、どちらも七人衆による毒殺と思われる。
七人衆は長続連が織田家と通じて権力拡大すると内部分裂し、上杉家、織田家の侵攻によりそのほとんどが討たれた。
長続連の子・長連龍(つらたつ)は織田家に救援を求めに行ったため生き長らえ、後に前田利家の家老として大成した。
※アイコンは韓馥
神保長職(じんぼう ながもと)
越中の人(??~??)
出自ははっきりしないが神保家の通称である宗右衛門尉(そうえもんのじょう)を名乗っていることから後継者を自認していたことは確かなようである。
没落していた神保家を再興させ、越中最大の勢力にまで発展させた。
1559年、椎名家を攻撃し上杉謙信に仲裁されたが、それを無視したため謙信に攻め込まれ、富山城を放棄した。
能登畠山家に仲介してもらい上杉家と和睦したものの、今度は武田家と組んで椎名家を再度攻撃。謙信に再侵攻され敗北した。
だが謙信が引き上げたと見るやその背後を襲い撃破。しかし椎名家を滅ぼしきれず、激怒した謙信が戻ってくるとまたも畠山家に仲介を頼み、上杉家に降伏した。
1568年、椎名家が上杉方を離脱し、武田・一向一揆方につくと神保家も長職の嫡子・神保長住(ながずみ)を中心とした反上杉派と、長職と家老・小島職鎮(こじま・もとしげ)を中心とした親上杉派に二分された。
長職はこれまで親密にしていた一向一揆まで弾圧したため家中は内戦状態となり、上杉家の介入によって反上杉派は駆逐されたものの神保家には大きな亀裂が生じ、嫡子の神保長住は出奔して織田信長に仕えた。
その後、家中を半ば上杉家の家臣と化した小島職鎮が牛耳ると、危機感を覚えたのか長職は長住のつてを用い織田家によしみを通じた。
そして最晩年、突如として一向一揆と和睦し、反上杉の姿勢を明確にしたうえで史料から姿を消しており、間もなく没したと思われる。
跡を継いだ神保長城(ながなり)はやむなく反上杉路線を引き継いだが、当然のごとく上杉軍の侵攻を招き居城を落とされた。
神保長城は消息を絶ち、織田家臣として一時は富山城主に返り咲いた神保長住も旧臣の小島職鎮に城を奪われ、激怒した信長によって追放され大名としての神保家は滅亡したが、庶流の神保氏張(うじはる)が徳川家に仕え、子孫は旗本として存続した。
※アイコンは袁紹
蘆名盛氏(あしな もりうじ)
陸奥の人(1521~1580)
1537年、伊達稙宗(だて・たねむね)の娘を正室に迎え、1541年に蘆名家の家督を継いだ。
翌1542年、稙宗と嫡子の伊達晴宗(はるむね)の間で実権争いが起こると、当初は稙宗方についたが、1547年に稙宗方の田村家と衝突し、一転して晴宗に味方したため晴宗の勝利を決定づけた。
その後は北条家・武田家と結び、田村家・佐竹家と戦う。
1561年には嫡子の蘆名盛興(もりおき)に家督を譲ったが、隠居後も実権は握り続けた。
1563年、二階堂盛義(にかいどう・もりよし)を攻めると、盛義は正室の父である伊達晴宗を頼り、伊達家との関係が悪化した。
しかし1566年、二階堂盛義が嫡子の二階堂盛隆(もりたか)を人質に差し出し降伏し、一方で盛興に伊達晴宗の四女を嫁がせ伊達家との関係も修復した。
1574年、伊達家の援軍を得て田村家も従属させたが、その矢先に盛興が29歳の若さで急死した。(死因はアルコール中毒とされる)
盛興に男子はなく、盛氏も側室を持たなかったため他に男子がおらず、やむなく二階堂盛隆に盛興の未亡人をめとらせ、蘆名家を継がせた。
盛氏は後見役として権勢を振るい、積極的に出兵も続けたが、他家から迎えた当主の盛隆に家臣は反発し、長年の戦いで国力も傾きつつあり、1580年、盛氏が没した時にはすでに蘆名家は斜陽を迎えていたのであった。
~~~逸話~~~
名門・蘆名家の最盛期を築いた名将として数々の逸話が知られている。
武田信玄は優れた将として赤井直正(あかい・なおまさ)、浅井長政、盛氏、若手では徳川家康と4人の名を挙げたという。
実際に会ったことがないと思われる赤井、浅井はともかくとして近隣の大名の中で盛氏の名を唯一挙げたのは特筆すべきだろう。
盛氏は禅如(ぜんにょ)という僧侶を厚く信仰していたが、単に信心深いだけではなく、重用する家臣がしくじりを犯した時、禅如がとりなしすることで処罰を免れさせる意図があったという。
理由は不明だが側室を置かず、実子は少なかったが、家中の男児を数十名集め「不断衆」と称し、彼らの話を聞いたり見込みのある者は取り立てた。
その中に誰もが才知を認める少年がいたが、盛氏だけは評価せず、長じると少年は凡庸な人物になった。盛氏は理由を聞かれると「子供の頃から大人なら、大人の頃には老人になる。苦い物が甘くなったり、甘い物が酸っぱくなるようなものだ」と答えた。
しかし唯一の男子だった盛興の急死により他家から後継者を迎えたことで、蘆名家の衰退に拍車を掛けたのは誤算であった。
蘆名盛隆もまた23歳の若さで急死し(しかも衆道の相手に痴話喧嘩から殺された)次に家督を継いだのは生後1ヶ月の長男。それもまた3歳で没し、今度は佐竹家から跡継ぎを迎え……と盛氏の死からわずか7年で大名家としての蘆名家は滅亡するのである。
※アイコンは馬騰
津軽為信(つがる・ためのぶ)
陸奥の人(1550~1607)
出自には諸説あり、南部家の史料と津軽家の史料で経歴も多々食い違いがある。
久慈家か大浦家の生まれで、南部家の一族であるともいう。
1567年、大浦家の養嗣子となり家督を継いだ。
津軽家の史料によると1571年、突如として反乱を起こし、南部家当主・南部晴政(なんぶ・はるまさ)の叔父にあたる石川高信(いしかわ・たかのぶ)を攻め殺した。
晴政はこの頃、養嗣子で石川高信の子の南部信直(のぶなお)と争っており、その隙をついて為信は周囲の国人衆を攻撃して回った。信直の勢力を弱めるため、晴政が陰ながら援助したという説もある。
一方で南部家の史料では石川高信は戦死せず、1581年に病没したと記される。
為信はその後、跡を継いだ高信の次男・石川政信(まさのぶ)の側室に自分の妹を差し出し、重臣の地位に収まり、讒言で次々とライバルを放逐した。
そして1590年、妹もろとも政信を毒殺し、城を乗っ取ったとされるが、他家の史料に前述の石川高信との戦いが記される他、1590年の小田原征伐に為信が参戦した記録と食い違い、これは為信をおとしめるための南部家による工作とする説が有力である。
なお津軽家の史料によると政信は1572年に為信に敗れ戦死しており、そもそも為信に妹は存在しない。
1582年、晴政が病没し、跡を継いだ南部晴継(はるつぐ)も暴漢に襲われ謎の死を遂げた。
南部信直がその機に乗じて家督を継ぐ(晴継を暗殺した、晴継も晴政も暗殺したとする説もある)と、為信は信直の父の仇として恨まれた。
信直は九戸家に為信の討伐を命じたが、信直と家督をめぐって争っていた九戸家は従わず、反乱を恐れて身動きがとれない間に、為信はさらに勢力を拡大した。
為信は独立の大義名分を得るために中央で台頭する豊臣秀吉の許可を得ようと、何度となく上洛を目指したが南部家に阻まれた。
しかし1589年、家臣を上洛させることに成功し、切り取った津軽三郡の領有を認められた。
1590年、小田原征伐にも参戦し、秀吉に拝謁した。
南部信直も為信を反逆者として秀吉に訴え、政治的に追い落とそうと画策したが、為信が一歩先んじており、鷹狩りを好む秀吉や豊臣秀次(ひでつぐ)らに鷹を送り、また元関白・近衛前久(このえ・さきひさ)には養父が前久の祖父の落胤だという噂を利用し「実は私もあなたの祖父の落胤」と主張した。
当時の公家は窮乏しており、為信の莫大な支援金を目当てに、前久は為信を猶子とした。
為信は姓を津軽に改め、またそれ以前に前久は秀吉も猶子にしていることから、形式上は為信と秀吉は義兄弟となった。
その後の為信は豊臣家に従い、奥州征伐や文禄・慶長の役に参戦し、武功を立てた。
1600年、関ヶ原の戦いでは周辺の大名が軒並み東軍に名を連ねていたため、否応なく東軍に参戦したが、嫡子は豊臣秀頼(ひでより)の小姓として大坂城におり、また戦後には石田三成の子を保護した。
留守中に居城は反乱軍に占拠されたが、間もなく鎮圧している。
1607年、病に臥せった嫡子を見舞うため自身も病身を押して上洛したが、到着前に嫡子は没してしまい、為信もまた上洛後間もなく58歳で死去した。
死後、家督を継いだ三男と孫(嫡子の子)の間で跡目争いが起こったが、幕府の裁定により三男が家督を得た。
明治時代、居城の稲荷社の裏に為信が築かせた「館神」なる守り神が収められているという厨子が初めて開かれると、中には豊臣秀吉の木像があった。
徳川政権下において秀吉を祀るのは改易の危険すらある行為だが、それを顧みずに祀るほど、津軽家を認めてくれた秀吉への感謝の念が濃かったことがうかがえる。
※アイコンは公孫瓚
安東愛季(あんどう・ちかすえ)
出羽の人(1539~1587)
出羽の大名。
安東家は湊系と檜山系の二派に分かれ長年対立していたが、湊系の当主・安東堯季(たかすえ)はそれを解消するため、娘婿に檜山系の当主・安東舜季(きよすえ)を迎えた。そして堯季の娘と舜季の間に生まれたのが愛季である。
余談だが義父子の名の「堯・舜」は中国古代の名君から採られたものと思われ、堯から舜に譲位したこともなぞらえており、偶然の一致とは考えられず、縁組にあたって(どちらかが、または双方が)改名したのだろう。
さらに余談だが安房の大名・里見義堯(さとみ・よしたか)も「堯・舜」になぞらえ嫡子を里見義舜(よしきよ)と名付けている。
愛季は長じると文武両道に卓越した才能を示し、特に土崎港を改修して北日本最大級の港湾都市に育て上げるなど交易で莫大な富を築いた。
史料に乏しく経緯は諸説あるが、愛季の父方の檜山系が母方の湊系を吸収する形で安東家は統一された。
中央で台頭した織田信長にいち早くわたりを付け、信長の死後にはその後を継いだ豊臣秀吉にもよしみを通じるなど巧みな外交戦略も見せ、安東家の最盛期を築き、その栄華は「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と讃えられた。
またルイス・フロイスは「日本の極北に一大国あり、野獣の皮を着、全身多毛、髪髭すこぶる長き蛮人が住む」といささか誇張気味に記している。
愛季は出羽北部の沿岸部をほぼ制圧し、内陸部にも侵攻を始めるも1587年、陣中で没した。享年49。
晩年には秋田に改姓しており、次男の秋田実季(あきた・さねすえ)は父の急死で12歳で家督を継いだが、それに不満を抱いた従兄で12歳年長の安東通季(みちすえ)が反乱を起こした。
通季は「湊系安東家の復興」を掲げ実季の十数倍の兵力を集めた。内乱に乗じて南部家、小野寺家、戸沢家も南部領に攻め込み、一方で大浦家が南部家の後方で独立を図るなど、北奥羽全体を巻き込む大乱へと発展したが、実季と家臣団は粘り強い采配で耐え抜き、通季を撃退し、南部家にいったんは奪われた領土も回復した。
その後は減封、転封や実季の戦国気質の剛直な性格を厭われ、蟄居処分なども受けたが秋田家は陸奥に落ち着き幕末まで存続した。
※アイコンは公孫度
蠣崎季広(かきざき・すえひろ)
蝦夷の人(1507~1595)
1545年に父が没し家督を継いだ。
父の代からアイヌと敵対していたが、季広は跡を継ぐや和睦路線に転じ、蝦夷南部の首長との和睦を結んだ。なおこれは主家の安東愛季(あんどう・ちかすえ)による命令とする説もある。
季広は13人の娘を安東家のみならず奥州各地の諸大名に嫁がせて縦横無尽に姻戚関係を作り上げ、地盤を固めた。
1583年、三男の蠣崎慶広(よしひろ)に家督を譲り(長男・次男はなんと長女に毒殺されている)やがて豊臣秀吉の直臣となり安東家から独立を果たすと、季広は「私はこれまで安東家に仕えてきたが、お前は天下の将軍の臣となった」と息子を伏し拝んで喜んだという。
慶広は秀吉の信頼を得て蝦夷の支配権も確立し、それを見届けて季広は89歳で没した。
※アイコンは孫礼
加藤清正(かとう・きよまさ)
尾張の人(1562~1611)
刀鍛冶の父が没すると、母が羽柴秀吉の母・大政所(おおまんどころ)の縁戚だったことから1573年、秀吉に小姓として仕えた。
実子のない秀吉・ねね夫妻は清正や福島正則らを我が子同然に養育し、やがて子飼いの武将として成長していった。
1582年、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは敵将を討ち取るなど大功を挙げ福島正則らとともに「賤ヶ岳七本槍」と讃えられた。
その後も多くの戦で手柄を立て1586年、肥後を治めていた佐々成政(さっさ・なりまさ)が大規模な一揆を招いたため切腹となると、北肥後に19万石を与えられ、熊本城を居城に定めた。
清正は統治にも抜群の手腕を見せ、現在の熊本の発展を築いたと言って過言ではない。
1592年からの文禄の役では先鋒として鍋島家、相良家を傘下に置き、小西行長(こにし・ゆきなが)と激しく功を争った。
行長とは領地を接し以前から犬猿の仲で、やがて戦線が膠着すると進軍を主張する清正と講和を主張する行長は意見が対立した。
秀吉が明・朝鮮に示した講和の条件は到底受け入れられるものではなく、行長は独断で和睦を進め、それに石田三成の賛成も得ると、清正を讒言し本国送還のうえ謹慎に追い込んだ。
だが行長は明には秀吉が降伏すると、秀吉には明が降伏すると詐称しており、工作が露見すると一転して窮地に立たされ、前田利家や淀殿(よどどの 秀吉の側室)のとりなしがなければ処刑されるところだった。
ちなみに京で蟄居していた清正は伏見の大地震の際に秀吉のもとへ駆けつけたことで赦免されている。
1597年、慶長の役でも清正と行長は先鋒を務めた。
先の和睦工作の責任から手柄を立てるよう命じられていた行長は、明・朝鮮軍に清正の上陸予想地点を密告し討たせようとしたが、敵将の李舜臣(りしゅんしん)はこれを罠だと疑い兵を動かさなかった。
築城の名手として知られる清正は前線に城を築いていたが、そこに5万7千もの明・朝鮮軍が攻め寄せた。清正はわずか5百の手勢で籠城し、兵糧も乏しく城も未完成のなか10日間にわたり耐え抜き、援軍が駆けつけると逆襲に打って出て敵軍に死傷者2万もの大損害を与えた。
清正は朝鮮の人々から鬼(幽霊)と恐れられ、現地では虎を殴り殺したという伝承が残る。(もともとは黒田家の逸話だが、畏怖された清正の逸話へと変わったという)
1598年、秀吉が没すると徳川家康は無断で有力大名と血縁を結び、清正も家康の養女を継室として迎えた。
翌年、前田利家も亡くなると清正ら武断派と石田三成ら文治派の対立は深刻化し、ついには福島正則らとともに三成の暗殺未遂事件を起こした。
1600年、関ヶ原の戦いでは三成への反発もあり東軍につき、黒田如水らとともに西軍方の勢力と戦った。
小西行長は西軍につき本戦でも奮闘するも、敗北し処刑され、彼が治めていた南肥後は清正に与えられ52万石に加増された。
またこの時、立花家の旧領を通過しようとするも、立花道雪(たちばな・どうせつ)の娘(立花誾千代)が兵を集めており、領民もよく懐いていると聞くとあわてて道を変えた、という逸話が残るが伝承の域を出ない。
その後は一時の泰平を得た世で肥後の発展に尽くし、幕府に請われて各地に城を築いた。
また徳川家と豊臣家との仲を取り持ったが1611年、家康と豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)の会見を斡旋し帰国中の船内で急死した。享年50。
2年後に清正と並ぶ豊臣家の有力者だった浅野幸長(あさの・よしなが)が同じ病で没し、さらに池田輝政(いけだ・てるまさ)も急死しており、一連の死は家康による毒殺説も根強い。
家康と秀頼の会見の際、家康は遅効性の毒を仕込んだ饅頭を差し出し、徳川家の平岩親吉(ひらいわ・ちかよし)がそれを毒味して見せたが、清正は意図を察すると秀頼の横から饅頭を取り、会見後に二人は急死した、という逸話が歌舞伎の題材にもなっている。
長男・次男は早逝していたため三男の加藤忠広(ただひろ)が11歳で家督を継いだ。
しかし幼君を抱えた家臣団は権力争いに励み、ついには改易された。理由として忠広の子・加藤光広(みつひろ)が徳川幕府転覆を誓う諸大名の名前を連署した「ぼくの考えた謀叛の連判状」を作ったため、とも言われている。
加藤家の改易後、肥後に入った細川忠利(ほそかわ・ただとし)は清正の霊をうやうやしく祀った。
領民も佐々成政の切腹を招くなど荒れに荒れていた肥後を安定させ、21世紀の現在も参考にされるほど優れた建築・治水技術を持ち、工事の際には農閑期に手の空いた人々を老若男女を問わず集め、無理なく働かせ給金も多く支払った清正を慕い、やがて神格化され民間で信仰されていったという。