三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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里見義頼(さとみ・よしより)
安房の人(1543~1587)
安房の大名・里見義堯(よしたか)の子。近年の研究では里見義弘(よしひろ)の庶長子とする説もある。
1578年、当主の義弘が没すると、安房を義頼に、上総を嫡子の里見義重(よししげ)に与えるよう遺言したため両者の仲は険悪となった。
義頼は同盟する北条家から妻を迎えていたため、その後ろ盾を得て1580年に上総を制圧し、義重を出家に追い込んだ。
1580年、北条家に対抗するため武田勝頼(たけだ・かつより)と佐竹義重(さたけ・よししげ)が同盟すると、義頼も北条家と手切れし武田・佐竹と三国同盟を結んだ。
1582年に武田家が織田信長に滅ぼされ、妻も没すると北条家との関係は完全決裂したが、義頼は中央で台頭する豊臣秀吉といち早く手を結び、対抗した。
1587年、45歳で没し、家督は15歳の嫡子・里見義康(よしやす)が継いだ。
また近年になって、生前の日付にもかかわらず義頼の死後に付けられた法号で発給された文書が見つかり、混乱を避けるためしばらく死去を伏せていた可能性が浮上したという。
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里見義弘(さとみ・よしひろ)
安房の人(1530~1578)
安房の大名・里見義堯(よしたか)の嫡子。
義堯は故事に明るく、古代中国の王朝である堯・舜になぞらえ嫡子を義舜(よしたか)と名付けたが、1558年頃に父から家督を譲られると義弘に改名された。
父と同様に北条家と敵対したが1564年、第二次国府台合戦で大敗すると正木時忠(まさき・ときただ)ら有力国人衆の離反を招き、上総の大半を失った。
だが1567年、三船山の戦いで北条軍に大勝利を飾り、大半の領地を奪回し、さらに下総まで版図を広げ里見家の最盛期を築いた。
1569年、上杉謙信が里見家と手切れし、北条家と新たに同盟すると劣勢に立たされ、1577年には不利な条件で北条家との和睦を結ばされた。
そして翌1578年、義弘は急逝した。
遺言ではっきりと後継者を示さず、弟(庶長子とする説も)の里見義頼(よしより)と嫡子の里見義重(よししげ)への領土分割を命じたため、里見家を分裂させてしまった。
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蘆名義広(あしな・よしひろ)
常陸の人(1575~1631)
常陸の大名・佐竹義重(さたけ・よししげ)の次男。
1584年、当主の蘆名盛隆(あしな・もりたか)が痴話喧嘩から家臣に殺され、その子もわずか3歳で没したため、蘆名家は同盟する他家から養嗣子を迎え入れる必要に迫られた。
一門衆の猪苗代盛国(いなわしろ・もりくに)らは伊達小次郎(だて・こじろう)を、金上盛備(かながみ・もりはる)ら重臣は義広を推し、政争の末1587年に義広が当主として迎えられた。
しかし13歳の義広は国政を取り仕切れず、佐竹家から送り込まれた大縄義辰(おおなわ・よしとき)ら家臣団が専権を振るい、伊達方についた蘆名家の家臣を次々と失脚させた。
当主の話が破談となり、支持派を次々と葬られた伊達政宗(小次郎は彼の弟)も激怒し、蘆名家との関係は完全に決裂した。
同年、蘆名・伊達家の援助により7年にわたり上杉家への反乱を継続していた新発田重家(しばた・しげいえ)が、豊臣秀吉の支援を得た上杉景勝によって討たれた。
1588年の郡山合戦では、佐竹家・相馬家と組み伊達政宗と戦うも敗北。
1589年には先に伊達小次郎を擁立した猪苗代盛国が伊達家に寝返るなど、蘆名家は坂を転げ落ちるように衰退していき、ついに摺上原の戦いで政宗に大敗し息の根を止められた。
蘆名四天王に数えられる富田氏実(とみた・うじざね)をはじめ多くの家臣があるいは勝手に戦線離脱し、あるいは傍観しとまともな戦にならず、他の四天王や金上盛備らが戦死した。
義広は無事に逃げ切ったがもはや抵抗する力はなく、大縄義辰らとともに佐竹家へ落ち延びていった。
同行する人数は20名とも、女中ら非戦闘員を合わせ119名とも記される。
これにより戦国大名としての蘆名家は滅亡し、1590年に秀吉の奥州仕置によって伊達政宗は蘆名領を全て没収されたものの、義広に返還されず蒲生氏郷(がもう・うじさと)に与えられてしまった。
その後、義広は佐竹家の与力大名として常陸江戸崎に4万5千石を与えられ大名に復帰したものの、1600年の関ヶ原の戦いで兄の佐竹義宣(よしのぶ)が西軍に与したため、再び所領を没収された。
義広は大名復帰に際し蘆名家の伝統にちなみ盛重(もりしげ)と改めていた名を、佐竹家にちなんだ義勝(よしかつ)と改め、秋田に転封した義宣に付き従った。
角館に1万6千石を与えられると城下町の発展に尽くし、1631年に没した。享年57。
摺上原の戦いの際には20名ほどしかいなかったが、角館に蘆名家の旧臣は200名ほど集まっていたという。
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蘆名盛隆(あしな・もりたか)
陸前の人(1561~1584)
二階堂盛義(にかいどう・もりよし)の長男。
5歳の時、父が蘆名盛氏(あしな・もりうじ)に降伏し、人質として送られた。
だが1575年、盛氏の子で当主の蘆名盛興(もりおき)が若くして没し、男子も兄弟もいなかったため、盛隆が盛興の未亡人(盛隆の叔母にあたる)を正室に迎え、蘆名家を継いだ。
1580年に盛氏が没してからは独自に采配を振るった。
1581年、盛隆は叔父の伊達輝宗(だて・てるむね)と共謀し、新発田重家(しばた・しげいえ)を上杉家から離反させた。
重家の武勇と巧みな采配、蘆名・伊達家の援助により以降7年もの長期間にわたり、上杉家を苦しめた。
当初の盛隆は陰ながら援助をするだけで、上杉家との外交は途絶えていなかったが、織田信長が上杉家を挟撃するため同盟を持ちかけ(盛隆から持ちかけたとする説も)1582年には上杉家と戦闘状態に入った。
盛隆は蘆名家当主の地位を利用し、実家の二階堂家の復権に努めた。
これに反発した蘆名家の旧来の家臣がたびたび反乱を起こし、上杉景勝も彼らを援助し揺さぶりを掛けた。
1584年には栗村盛胤(くりむら・もりたね)、松本行輔(まつもと・ゆきすけ)らが、盛隆が参詣に出た隙をつき居城の黒川城を占拠したが、翌月には奪回された。
しかし同年10月、寵愛する家臣の大庭三左衛門(おおば・さんざえもん)に襲われ、盛隆は没した。享年23。
三左衛門とは衆道の間柄にあり、痴話喧嘩の末の凶行とされる。
家督は生後1ヶ月の息子である蘆名亀王丸(かめおうまる)が継ぎ、叔父の伊達輝宗が後見したが(盛隆の母と正室は姉妹である)、それを機に伊達家の家督を譲られた伊達政宗は翌年に蘆名家との同盟を破棄。
さらに翌年には輝宗の暗殺と亀王丸の急逝が重なり、蘆名家の混乱に拍車が掛かるのであった。
※アイコンは蒋済
蘆名盛興(あしな・もりおき)
陸奥の人(1547~1574)
蘆名盛氏(もりうじ)の嫡子。盛氏は正室の他に妻を持たず、結婚から10年目に生まれた待望の男子だった。
名門・蘆名家の最盛期を築いた父の素質を受け継ぎ、14歳で家督を譲られたが、盛氏は第一線を退かず二頭政治を布いたと思われる。
1566年には伊達輝宗(だて・てるむね)の妹を正室に迎え同盟を強化し、順風満帆に見えたが1574年、28歳の若さで没した。
死因は酒毒(アルコール中毒)とされ、盛氏が2度にわたり領内での酒造を禁止していることから、盛興の酒豪ぶりを懸念していたと推測される。
盛興に男子はなく、他に兄弟もなかったため他家から養嗣子を迎えたが、その後も当主の早逝が相次ぎ、蘆名家は一気に凋落していくこととなる。
※アイコンは袁遺
佐竹義久(さたけ・よしひさ)
常陸の人(1554~1601)
常陸の大名・佐竹家の分家である佐竹東家の当主。父は佐竹義堅(よしかた)。
本家の当主佐竹義重(よししげ)の信頼を受け、主に陸奥方面の軍権を任された。
また外交手腕に優れ、甲斐武田家との同盟締結や、豊臣秀吉との交渉を担当した。
秀吉も大いに気に入られ、豊臣姓を許され、直轄地の代官も任された。
文禄の役では義久が佐竹軍を率いて渡航し、後には常陸鹿島に6万石を与えられ、独立大名として遇された。
1600年、関ヶ原の戦いで佐竹家は西軍につき、改易の危機にさらされた。
義久は徳川家康と交渉し、本家の本領安堵の約束を取り付けたとされるが、急死によりうやむやとなり、佐竹家は秋田への転封を命じられた。
急病による死とも、約束を反故にしたい家康による暗殺ともささやかれ、また義久が家康の意向により本家の当主になるという噂も立っており、それを嫌った勢力による暗殺説も根強い。
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佐竹義昭(さたけ・よしあき)
常陸の人(1531~1565)
常陸の大名。
父の死により15歳で家督を継いだ。
当時の佐竹家は常陸統一に向け勢力拡大しており、義昭は巧みな外交戦略で上杉謙信、宇都宮広綱(うつのみや・ひろつな)ら周囲の大名と同盟を結び、戦いを有利に進めた。
1562年には早くも16歳の長男・佐竹義重(よししげ)に家督を譲ったが、実権は離さず二頭政治の体制をとった。
しかし常陸統一を目前にした1565年、35歳の若さで急逝した。
早くに義重に家督を譲ったことや、若くして急逝したことから重病を患っていたとする説がある。
これにより佐竹家は出直しを余儀なくされ、反抗勢力も盛り返したため、ようやく統一を果たしたのは実に26年後の1591年、義重の子の佐竹義宣(よしのぶ)の代になってからであった。
余談だが1546年、河越夜戦で北条家に大敗した上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)は勢力を維持できなくなり、義昭に関東管領の地位と上杉家の家督を譲ろうと打診したという。(佐竹家は5代前に上杉家から養嗣子を迎えており縁戚にあたる)
しかし義昭は名門・佐竹家の誇りからかこれを拒否した。
憲政が次いで庇護を求め、管領職と家督を譲ったのがかの上杉謙信である。
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太田資正(おおた・すけまさ)
武蔵の人(1522~1591)
扇谷上杉家に仕えた。名将・太田道灌の曾孫に当たる。
1536年、父が没すると兄の太田資顕(すけあき)が家督を継いだが、資正はかねてから兄と不仲で、兄の岩付城を出て舅の難波田憲重(なんばだ・のりしげ)の松山城へ移り住んだ。
資顕は相模の北条家へ傾倒していき、資正と憲重は扇谷上杉家に仕え続けた。1537年、北条家との戦いで憲重の3人の息子が戦死すると、資正は婿養子となった。
1546年、戦国三大奇襲の一つ「河越夜戦」で当主が北条家に敗死し、扇谷上杉家は滅亡した。
資正も松山城を追われたものの翌年に奪回し、さらに兄の資顕が没すると太田家の家督と岩付城を奪った。
この頃、数十匹の犬をおそらく日本初の軍用犬として育てた。資正は岩付城を守り、松山城の急事の際には犬を使えと命じた。
松山城が敵に囲まれ、救援を求める使者も脱出できなかった時、言いつけを思い出し犬を放つと、岩付城に走り資正に危機を知らせ、無事に敵を破ったという。
しかし松山城を任せていた上田朝直(うえだ・ともなお)が北条家に寝返ったため孤立し、やむなく資正も北条家に降伏した。
北条氏康は名家の末裔である資正に敬意を払い、名目上は古河公方・足利義氏(あしかが・よしうじ)の家臣として遇し、資正の子・太田氏資(うじすけ)に娘を嫁がせ、伊達家や結城家ら他の名家の大名との交渉役を任せた。
だが1560年、上杉謙信が関東管領として諸大名に大号令を発し小田原城を囲むと、資正は離反した。
上杉軍の撤退後も抵抗を続けたが1564年、親北条派の氏資が岩付城を占拠し北条家へ寝返った。
資正は常陸の佐竹家へ亡命し、片野城を任された。やがて氏資のもとから妻や次男の梶原政景(かじわら・まさかげ)が脱出してくると勢いを盛り返し、政景は佐竹家の重臣・真壁家の婿養子に入り、地場を固めた。
1569年、武田家が今川家を滅ぼすと、北条家は武田家との同盟を破棄し、上杉家と同盟した。
この同盟協議の中で本来は上杉家の家臣である資正の処遇が問題となり、すでに戦死していた氏資の岩付城を与える代わりに、佐竹家から離れるよう求められた。
だが佐竹義重(さたけ・よししげ)は当然反対し、資正も今さら北条家に味方できず、また松山城を奪い占拠し続けている上田朝直の処遇も問題化し、話はこじれた。
資正はついに上杉家と決裂し、北条家との戦闘を継続したが、謙信は資正を惜しみ交渉を粘り強く行い、1575年には同盟締結後、間もなく破綻した北条家に対抗し同盟軍を結成するまで関係は改善された。
一方で資正は織田信長にも通じており、1578年に謙信が急死するとそれをすぐさま信長に知らせた。
だが織田家との関係も本能寺の変で終わり、1584年には梶原政景が北条家に寝返ってしまう。資正の仲介と長年の武功により間もなく政景は帰参を許されたが、資正は後継者に政景ではなく三男の太田資武(すけたけ)を選び、1588年頃に家督を譲った。
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、資正もそれに参戦し、生涯の仇敵・北条家の滅亡を見届けた。
1591年、居城の岩付城に戻る夢は叶わず70歳で没した。
太田資武は結城秀康(ゆうき・ひでやす)に仕え福井藩士となるも、資武の曾孫の代に当主が出奔したうえ無嗣断絶したという。
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足利藤氏(あしかが・ふじうじ)
下総の人(??~??)
関東の将軍家とも呼ぶべき古河公方の第4代である足利晴氏(はるうじ)の長男。
藤氏は室町幕府第13代将軍から偏諱を受けるなど、次代の古河公方の座を約束されていたが1546年、父の晴氏は河越夜戦で北条氏康に大敗し、その権威は地に落ちた。
次男で氏康の甥にあたる足利義氏(よしうじ)への家督相続を余儀なくされ、古河公方は北条家の勢力拡大のための傀儡として用いられた。
1557年、藤氏は謀叛を試みるも失敗し、晴氏を幽閉され自身は追放された。
藤氏は北条家の宿敵である安房の里見家に庇護を求め、さらにかつて晴氏とともに北条家と戦った上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)のつてをたどり、長尾景虎(上杉謙信)に救援を求めた。
1561年、長尾家に保護されていた憲政は関東管領の権限で、出兵の大義名分を景虎に与えた。憲政・景虎の号令に応じ関東の諸大名が兵を送り、10万もの大軍に膨れ上がり、北条家は小田原城での籠城戦を強いられた。
戦国一の巨城の小田原城は落とせず、兵糧不足で連合軍は撤退したが、藤氏は古河城の奪回に成功した。
古河御所をおさえた景虎は、憲政から上杉家の家督と関東管領の座を譲られた。
そして前年に死去した晴氏の正統な後継者として藤氏を擁立し、足利義氏の相続を認めず、藤氏こそ第5代古河公方であると主張した。
これに関東の反北条勢力の大名も同調したため、藤氏は数年間だが正統な古河公方として認められた。(ただし彼を第5代、あるいは第6代に数えることはない)
だが上杉軍が撤退するや北条家は反撃に乗り出し、同年のうちに古河城を奪い返した。
藤氏は里見家に庇護を求め、以降は上杉・北条の間で古河城の争奪戦が繰り広げられた。藤氏も何度となく御所へ出入りを繰り返したものの1562年、ついに北条軍に捕らえられた。
その後の事績は不詳だが1566年以降は消息が途絶えており、処刑されたものと思われる。
藤氏を失った謙信は関東出兵の大義名分を失い、以降は北陸での活動が主となった。
古河公方の座は1570年の北条家と上杉家の同盟締結の際に、上杉方も足利義氏の相続を正式に認めたが、1583年に義氏が没すると男子がなく、事実上の消滅を遂げた。
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足利氏姫(あしかがうじひめ)
相模の人(1574~1620)
関東の将軍家とも呼ぶべき古河公方の第5代である足利義氏(よしうじ)の娘。母は北条氏康の娘。
氏姫は名前ではなく「足利家の姫」という意味であるとも言われ、院号の徳源院(とくげんいん)でも知られる。
1583年に父が没すると、弟が早逝していたため古河城主の座を10歳で継いだ。彼女が第6代古河公方に数えられることはないが、立場は実質的に古河公方と同等であったと思われる。
父と同じく北条家の関東支配における傀儡として用いられたが1590年、豊臣秀吉により北条家は滅ぼされた。
古河城も没収され、古河公方の館が置かれた鴻巣御所の周辺わずか300石だけを与えられた。
翌年、名家の血が途絶えるのを惜しんだ秀吉は、義氏の大叔父でかつて小弓公方を自称し古河公方と対立した足利義明(よしあき)の孫である足利国朝(くにとも)と氏姫を結婚させ、喜連川を与えた。
これにより古河・小弓両家は80年ぶりに統一され、国朝は喜連川に移り住んだものの、氏姫は古河公方嫡流の意地から、鴻巣御所に居を構え続けた。
1593年、国朝が文禄の役への出陣を命じられ、行軍中に病死した。
氏姫は国朝の弟である足利頼氏(よりうじ)と再婚し一男一女をもうけた。
1600年、関ヶ原の戦いで頼氏は中立を保ったが、戦後にすかさず徳川家康に戦勝祝いを送ったため喜連川の安堵と加増を受け、後の喜連川藩の成立につなげた。
頼氏は代々の鎌倉公方が就いた官位を自称するなど権威付けに勤しみ、家康もまた名家の血統を重んじそれを黙認し、5千石にも満たない小身ながら10万石の大名格の扱いをし、皇族や将軍家が用いた「御所」の尊称を許した。
だが氏姫は変わらず鴻巣御所で暮らし続け、1620年に同地で没した。享年46。
息子の足利義親(よしちか)も母の遺志を継ぎ、生涯を鴻巣で過ごした。
孫の足利尊信(たかのぶ)もまた祖母・父と同じく鴻巣に住んだが、1630年に喜連川藩主で祖父の頼氏が没したため、跡を継ぐためようやく喜連川に移った。
国朝の頃から姓も喜連川(きつれがわ)を用い始め、やがて「喜連川公方」の名でも呼ばれ、足利家の中で唯一、大名格として幕末まで存続した。