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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―太田資正  トップブリーダー

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太田資正(おおた・すけまさ)
武蔵の人(1522~1591)

扇谷上杉家に仕えた。名将・太田道灌の曾孫に当たる。
1536年、父が没すると兄の太田資顕(すけあき)が家督を継いだが、資正はかねてから兄と不仲で、兄の岩付城を出て舅の難波田憲重(なんばだ・のりしげ)の松山城へ移り住んだ。
資顕は相模の北条家へ傾倒していき、資正と憲重は扇谷上杉家に仕え続けた。1537年、北条家との戦いで憲重の3人の息子が戦死すると、資正は婿養子となった。

1546年、戦国三大奇襲の一つ「河越夜戦」で当主が北条家に敗死し、扇谷上杉家は滅亡した。
資正も松山城を追われたものの翌年に奪回し、さらに兄の資顕が没すると太田家の家督と岩付城を奪った。
この頃、数十匹の犬をおそらく日本初の軍用犬として育てた。資正は岩付城を守り、松山城の急事の際には犬を使えと命じた。
松山城が敵に囲まれ、救援を求める使者も脱出できなかった時、言いつけを思い出し犬を放つと、岩付城に走り資正に危機を知らせ、無事に敵を破ったという。

しかし松山城を任せていた上田朝直(うえだ・ともなお)が北条家に寝返ったため孤立し、やむなく資正も北条家に降伏した。
北条氏康は名家の末裔である資正に敬意を払い、名目上は古河公方・足利義氏(あしかが・よしうじ)の家臣として遇し、資正の子・太田氏資(うじすけ)に娘を嫁がせ、伊達家や結城家ら他の名家の大名との交渉役を任せた。
だが1560年、上杉謙信が関東管領として諸大名に大号令を発し小田原城を囲むと、資正は離反した。
上杉軍の撤退後も抵抗を続けたが1564年、親北条派の氏資が岩付城を占拠し北条家へ寝返った。
資正は常陸の佐竹家へ亡命し、片野城を任された。やがて氏資のもとから妻や次男の梶原政景(かじわら・まさかげ)が脱出してくると勢いを盛り返し、政景は佐竹家の重臣・真壁家の婿養子に入り、地場を固めた。

1569年、武田家が今川家を滅ぼすと、北条家は武田家との同盟を破棄し、上杉家と同盟した。
この同盟協議の中で本来は上杉家の家臣である資正の処遇が問題となり、すでに戦死していた氏資の岩付城を与える代わりに、佐竹家から離れるよう求められた。
だが佐竹義重(さたけ・よししげ)は当然反対し、資正も今さら北条家に味方できず、また松山城を奪い占拠し続けている上田朝直の処遇も問題化し、話はこじれた。
資正はついに上杉家と決裂し、北条家との戦闘を継続したが、謙信は資正を惜しみ交渉を粘り強く行い、1575年には同盟締結後、間もなく破綻した北条家に対抗し同盟軍を結成するまで関係は改善された。

一方で資正は織田信長にも通じており、1578年に謙信が急死するとそれをすぐさま信長に知らせた。
だが織田家との関係も本能寺の変で終わり、1584年には梶原政景が北条家に寝返ってしまう。資正の仲介と長年の武功により間もなく政景は帰参を許されたが、資正は後継者に政景ではなく三男の太田資武(すけたけ)を選び、1588年頃に家督を譲った。
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、資正もそれに参戦し、生涯の仇敵・北条家の滅亡を見届けた。

1591年、居城の岩付城に戻る夢は叶わず70歳で没した。
太田資武は結城秀康(ゆうき・ひでやす)に仕え福井藩士となるも、資武の曾孫の代に当主が出奔したうえ無嗣断絶したという。

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