三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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大村純忠(おおむら・すみただ)
肥前の人(1533~1587)
肥前の大名。日本初のキリシタン大名で長崎を発展させたことで著名。
有馬家の次男に生まれたが、母の実家の大村家に男子がなかったため6歳の時に養嗣子となった。
18歳で家督を継いだが、純忠の養子縁組の後に生まれ、他家に養子に出された大村家の庶長子である後藤貴明(ごとう・たかあき)との間には禍根が残った。
1562年、キリスト教に興味を抱き、同時に財政改革を図るため純忠はポルトガルの貿易船に横瀬浦の港を提供した。
海外貿易で国庫を潤し、イエズス会から洗礼も受けた純忠はキリスト教を大いに奨励し、領民を教化し各地から信者を招いた結果、最盛期には実に6万人、日本国内の信者の約半数を領内に集めた。
しかしあまりに熱が入りすぎ、領内の寺社や墓地を破壊し、僧侶や改宗しない領民の殺害に及び、武器と引き換えに海外へ他宗の領民を奴隷として輸出するなどしたため大きな反発も招いた。
後藤貴明はそれら不平分子とともに反乱を起こすと横瀬浦を焼き払ったが、純忠は代わって長崎をポルトガル人に提供した。
当時は寒村に過ぎなかった長崎はこれを機に現在も続く大都市へと発展していく。
1572年、貴明率いる1千5百の兵に居城を囲まれたが、非戦闘員を含めても80名、士官はたった7名の小勢で純忠は援軍が駆けつけるまで耐え抜いた。
1578年には長崎を龍造寺家に攻められたが、この時にはポルトガル人が協力し撃退に成功した。だが結局は長男を除く3人の息子を人質に取られ、龍造寺家に従属した。
しかし1584年、沖田畷の戦いで当主の龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)が戦死すると独立を果たした。純忠も参戦していたが、敵方についた実家の有馬軍を相手に戦意はなく、空砲を撃っていたため、隆信を討ち取った島津家は大村軍に追撃を掛けなかった。
また1582年には同じキリシタン大名の大友宗麟(おおとも・そうりん)らと協力し天正少年使節団を欧州へ派遣している。
1587年、豊臣秀吉の九州征伐に協力し、大村家は本領安堵された。
純忠はすでに死の床にあり、死の前日に捕虜に恩赦を与え、飼っていた小鳥も放そうとした。
だがその体力すら無かったため侍女に命じると、彼女は小鳥をぞんざいに扱ったため純忠は激怒した。
すぐに怒りは神の意志に反すると悔やみ、純忠は立派な帯を侍女に与え「小鳥はデウス様が作られたものであるから愛情を持って欲しい」と述べたという。
享年55。バテレン追放令が出される前月の死であった。
家督は嫡子の大村喜前(よしあき)が継いだが、相次ぐ禁止令に逆らえず1602年にはキリスト教を棄て、一転して信徒を激しく弾圧した。
それを恨まれ1616年、キリスト教徒によって喜前が毒殺されると、まるで呪いでも掛けられたように以降も当主が早逝し続け一時は血脈が途絶え改易も危ぶまれたが、他家から養嗣子を迎えると安定を迎え、大村家は幕末まで存続した。
※アイコンは馬邈
大友義統(おおとも・よしむね)
豊後の人(1558~1610)
豊後の大名・大友宗麟(そうりん)の嫡子。
1576年、宗麟の隠居により家督を継いだが、父も依然として実権を握り、二頭政治を布いた。
1578年、耳川の戦いで島津家に大敗すると、家中に内紛が起こり、義統と宗麟も対立しそれに拍車を掛けた。
寡兵ながら優勢に戦いを進めていた立花道雪(たちばな・どうせつ)も死去し、肥前では龍造寺家が台頭。筑前・筑後の国人衆は次々と離反し、大友家の勢力は著しく後退した。
1586年、島津軍が豊後に攻め寄せると大友家は瓦解を始めた。立花道雪と並び称された高橋紹運(たかはし・じょううん)は玉砕し、豊臣家から派遣された遠征軍も、軍監を務めた仙石秀久(せんごく・ひでひさ)の失策で惨敗。
戦意喪失した義統は奮闘を続ける宗麟や重臣を尻目に居城を捨て後方に逃れてしまった。
だが翌1587年、高橋紹運の命に代えた足止めが功を奏し、豊臣秀吉自ら率いる遠征軍が大友家の滅亡直前に間に合った。
島津家は秀吉に降伏し、大友家は豊後を安堵された。島津家の降伏を前に宗麟は病没したが、義統は秀吉と馬が合い、一字拝領し大友吉統(よしむね)と改名した。
小田原征伐や文禄の役にも参戦し、1592年には嫡子の大友義乗(よしのり)に家督を譲った。
その後も父と同じように実権を握り続け、自ら朝鮮での戦いも続けていたが1593年、友軍の小西行長(こにし・ゆきなが)が戦死したという誤報を信じて撤退したところ、秀吉の逆鱗に触れあえなく改易された。
吉統は徳川家、佐竹家、毛利家などの下を転々とし、1598年に秀吉が没するとようやく赦免され幽閉状態を脱した。
その後は豊臣家に仕え1600年、関ヶ原の戦いでは周囲の反対を押し切り、西軍に参加すると旧領の豊後へ進軍した。
各地に散らばっていた大友家の旧臣が集結し兵力は膨れ上がったが、豊前の黒田如水(官兵衛)が迎撃に出ると、かつて秀吉の軍師を務めた智謀に翻弄され、大友軍は連敗。
吉統は剃髪すると妹婿で黒田家の重臣・母里友信(もり・とものぶ)を頼り降伏した。
吉統は常陸に流され、1610年に同地で没した。
晩年の事績は不詳だが、亡くなるまで家中に伝わる膨大な史料を「大友家文書録」としてまとめ上げたため、滅亡した大名家としては異例なことに詳細な歴史が現在に伝わっている。
嫡子の大友義乗ははじめ秀吉の小姓だったが、父の改易後に徳川家に仕えていたため、関ヶ原の戦い後も処罰されず旗本として存続した。
義乗が没するとその息子も早逝し嫡流は途絶えてしまったが、大友家は高家(貴族)として再興され、幕末まで続いた。
吉統は大友家を滅ぼした元凶としてしばしば無能に描かれるが、史料でも優柔不断で酒癖、女癖が悪く、またキリスト教に傾倒するあまり神社仏閣を破壊し僧侶を迫害したと記され、さらに大友家衰退のきっかけとなった耳川の戦いを主導したのも彼であり、少なくとも有能な人物とは思えない。
※アイコンは袁術
伊東義祐(いとう・よしすけ)
日向の人(1512~1585)
日向の大名。
1533年、8代当主の兄が没すると、叔父の伊東祐武(すけたけ)が反乱し居城を占拠した。
義祐と弟の伊東祐吉(すけよし)は京に落ち延びようとしたが、家臣に説得されて祐武と対決し、自害に追い込み城も奪回した。
家督ははじめ祐吉が継ぎ義祐は出家したが、わずか3年後に祐吉も病没したため1536年、義祐が家督を継いだ。
地方大名としては異例の高位である従三位に叙せられ、嫡子が夭折すると再び出家し「三位入道」を称した。
義祐は日向南部の飫肥をめぐって島津家と激しい争奪戦を繰り広げた。
1560年、島津家は幕府に調停を求め、13代将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)は和睦を命じたが義祐は聞き入れなかった。
幕府から伊勢貞孝(いせ・さだたか)が派遣されると義祐は伊東家の5代当主が8代将軍・足利義政から賜った「日向・薩摩・大隅の者は伊東家が治める。ただし島津家は除く」というあまりにも伊東家に都合が良すぎる書状を示した。
当時の幕府が用いていない言葉遣いが散見され、伊勢貞孝は偽書だと思ったが確証はなく、やむを得ず飫肥を幕府の直轄領に定め停戦を命じた。
だが義祐はそれをも無視して飫肥に侵攻を続けた。
1568年、義祐は2万の大軍で飫肥城を包囲し援軍も退けると、島津貴久(しまづ・たかひさ)はたまらず和睦を申し入れ飫肥はついに伊東家の手に落ちた。
伊東家の最盛期を築いた義祐は奢侈に溺れ、本拠地の佐土原は「九州の小京都」と呼ばれるまでに発展したが、一方で政治・軍事をおろそかにした家中は次第に衰退していった。
1572年、島津貴久が死去するとそれまで優勢に侵攻を進めていた真幸院を一息に落とすべく、伊東・相良の連合軍は島津方の加久藤城を囲んだ。
だが3千の連合軍は島津義弘の率いるわずか3百の寡兵に大敗し、多くの重臣を討たれた。
この敗戦を気に島津家の反撃が始まり、次々と日向国内の支城を落とされていった。
だがこの頃には義祐の周囲には彼の機嫌を取るだけの佞臣がはびこっており、救援要請は義祐の側近らによって握りつぶされ、伊東軍は連携もできないまま各個撃破された。
1577年には日向北部の土持親成(つちもと・ちかしげ)が反旗を翻し、南から攻め上がる島津家とともに伊東領を挟撃した。
ようやく事態を悟った義祐は孫の伊東義賢(いとう・よしかた)に家督を譲るなど人事の一新を図ったが後の祭りで、次々と国人衆の離反を招き、一族の者すら寝返るに及ぶと、もはや謀叛を恐れ挙兵することすらできなくなった。
義祐は日向を捨て、次男の正室の実家である大友家を頼り、三男の伊東祐兵(すけたか)らを連れ豊後へと落ち延びていった。
その途上、筆頭家老格の落合家まで裏切ったと知ると、義祐は自身の愚行を悔やみ切腹しようとしたが、家臣に止められたという。
豊後へと続く山中を雪中行軍で越え、吹雪や島津家や山賊に襲われ、150名程度いた一行は半分にまで減った。なお一行には後の伊東マンショも含まれている。
大友宗麟(おおとも・そうりん)は義祐を迎え入れ、自身の野望もあり日向に大軍を派遣したが、耳川の戦いで島津家に大敗し、逆に大友家衰亡のきっかけにさえなった。
義祐らは敗戦の責任者のように見られ立場を失い、また宗麟の息子・大友義統(よしむね)が祐兵夫人に懸想したため、義祐・祐兵ら20名は大友家を離れた。
祐兵は羽柴秀吉に仕えていた一族のつてをたどり秀吉に仕えたが、義祐は「流浪の身たりとも、三位入道が羽柴ごときに追従できるか」と拒絶し、供の者を一人連れ中国地方を漫遊の旅に出た。
途中でお供もまいて一人で気ままに旅していたが、やがて病を得ると祐兵のいる堺へ向かった。
だがその途上の船内で危篤状態に陥り、面倒に思った船頭によって砂浜に捨て置かれた。
たまたま通りがかった祐兵夫人に保護され、祐兵の屋敷にはたどり着いたものの、7日あまりの闘病の末に73歳で没した。
義祐は悲惨な最期を遂げたが、祐兵は秀吉のもとで活躍し、1588年には旧領の飫肥を与えられ大名に復帰した。
関ヶ原の戦いでは時勢を見抜いて東軍につき所領を安堵され、伊東家は飫肥5万石の藩主として幕末まで続いた。
※アイコンは韋康
有馬晴信(ありま・はるのぶ)
肥前の人(1567~1612)
肥前の島原半島を治めた大名・有馬義貞(よしさだ)の次男。
義貞は1570年に長男に家督を譲ったが、翌年に没してしまったため晴信がわずか5歳で跡を継いだ。
有馬家は龍造寺家に臣従していたが、1584年に島津義久(よしひさ)に寝返ると、沖田畷の戦いで龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)を討ち取り独立を果たした。
晴信は当初はキリスト教を迫害していたが14歳で洗礼を受けると一転して熱心な信者となり、同じくキリシタン大名の大友宗麟(おおとも・そうりん)や叔父の大村純忠(おおむら・すみただ)らとともに天正遣欧少年使節を派遣し、数万人のキリシタンを保護した。
1587年、豊臣秀吉の九州征伐が始まるといち早く寝返り、1600年の関ヶ原の戦いでも西軍に属したものの、敗北の報を聞くやすかさず隣国でキリシタン大名でもある小西行長(こにし・ゆきなが)の居城を攻撃するなど、随所で機転の早さを見せ所領を安堵された。
さらに嫡子の有馬直純(なおずみ)を徳川家康に仕えさせ、直純がめとっていた小西行長の姪を離縁し、徳川家康の養女を正室に迎えた有馬家は、南蛮貿易で利益をもたらしていたこともあり、領内に隠れキリシタンを多数匿っていたが目こぼしされていたという。
ところが1609年、晴信の運命は一気に暗転する。
有馬家の朱印船がマカオに寄港した折、ポルトガル船と諍いを起こし、マカオ総司令アンドレ・ペソアに鎮圧され水夫に多数の死者が出た。
ペソアは自ら家康に事件の説明と弁解をしたいと申し出たが、長崎奉行の長谷川藤広(はせがわ・ふじひろ)はポルトガルとの交易が縮小されるのを恐れ、都合よく書き換えた報告書を幕府に送った。
ペソアは藤広が慣例を破って商船の取り締まりを強化していること、生糸の交易で不利益を被っていることに以前から不満を抱いていたこともあり、激怒して強引に家康へ陳情に出向こうとした。
藤広もこれに怒り、晴信を焚きつけ幕府にペソアの捕縛とポルトガル船への報復攻撃を願い出させた。
晴信は藤広が家康に伽羅木の調達を命じられるも苦戦しているのを知っており、それを出し抜こうと考え、同時に伽羅木の調達を引き受けた。
幕府は許可を与え、監視役として岡本大八(おかもと・だいはち)を送ると、身の危険を感じたペソアは船に引き上げ帰国しようとした。
晴信はそこを船団で襲撃し、4日4晩の戦いの末にペソアは船を爆破し自決した。
以後、ポルトガルとの交易は2年間途絶えた。
晴信はかねてより龍造寺家に奪われた旧領の回復を望んでおり、今回の功績でそれが叶うと期待を寄せていた。
一方で伽羅木の件で面目を潰された藤広との間は険悪になり、藤広はポルトガル船との交易が再開されると有馬家が従来用いていたのとは別の取引先を使い始めた。
さらに藤広に「船を一隻沈めるのに4日も掛けるとは手ぬるい」と笑われ、晴信は「次はお前を沈めてやる」と憤った。
こうした情勢につけ込み岡本大八は晴信に「家康側近の本多正純(ほんだ・まさずみ)に仲介を頼み旧領を回復させる」と持ちかけ、賄賂を要求した。
晴信は6千両もの大金を支払ったが一向に沙汰が無いため正純に直談判に赴いたところ、大八の詐欺が発覚した。
拷問された大八は詐欺を認め、さらに「晴信は藤広の殺害を企んでいる」と以前の発言を採り上げた。
尋問を受けた晴信は潔くそれを認め、改易と流罪を命じられ、大八は火刑に処された。
2ヶ月後、晴信は改めて切腹を命じられた。
キリシタン側の資料では自害を禁じられているため家臣の手で斬首されたと伝わる。享年46。
嫡子の直純は家康の娘婿で、父から離れていたこともありお咎め無しとなり、家督を継ぎ有馬家は幕末まで存続した。
また長谷川藤広は妹が家康の側室で、海外貿易を一手に引き受ける幕府の重鎮ということもあり処罰されていない。
多数のキリシタンを匿う有馬家の改易を好機と、大八の処刑と同日に幕府はキリスト教の禁教令を発した。
翌年にはバテレン追放令に発展し、高山右近(たかやま・うこん)ら有力大名、家康の寵愛を受けたジュリアおたあすら追放となった。
後に島原を治めた松倉重政(まつくら・しげまさ)らは苛烈なキリシタン弾圧により島原の乱を引き起こしたが、そもそもの契機となったのはこの岡本大八事件であるとも言えるだろう。
※アイコンは王基
毛利秀元(もうり・ひでもと)
備中の人(1579~1650)
毛利元就の四男で東方面を任された穂井田元清(ほいだ・もときよ)の嫡子。
1585年、実子のない毛利家当主・毛利輝元(てるもと)の養嗣子になった。推薦した伯父の小早川隆景は「眼差しや秘めたるものが父・元就に似ている」と述べたという。
だが1595年に輝元に待望の男子が生まれると、次期当主の座を自ら明け渡した。
1593年、文禄の役では毛利軍を率いた父や伯父の小早川隆景とともに渡海した。当時15歳ながら、碁盤の上に人を立たせ、それを持ち上げることができたと伝わるほどの怪力で早くも武功を挙げた。
1597年、慶長の役の折には父も亡く、19歳の秀元が毛利軍3万を率い黒田長政(くろだ・ながまさ)、加藤清正らの窮地を救う活躍を見せた。
1599年には独立大名として長門一国と周防・安芸の一部に計17万石を領したが、まだ年若いため家老の安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)が後見役に付けられた。
1600年、関ヶ原の戦いでは輝元が西軍の総大将として石田三成に担ぎ上げられた。
当時の毛利家は秀元、恵瓊、吉川広家(きっかわ・ひろいえ)の三人が中枢にいたが、このうち広家は西軍の敗北を予想し、裏では東軍を率いる徳川家康に内通し「毛利軍を参戦させない代わりに所領安堵する」約定を得ていた。
そして本戦では秀元と恵瓊の前に陣取ったまま動かず、彼らの参戦を阻んだ。付近にいた長宗我部軍、長束軍も毛利家の内通を疑って動けず、戦力で上回っていたはずの西軍はこれによりかなりの兵力を奪われた。
また長宗我部軍が毛利軍に進撃をせっついたものの、秀元は動くに動けず「兵に弁当を食べさせている」と苦し紛れの言い訳をし、秀元の官位である参議が中国で宰相と呼ばれることから「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた。
撤退した秀元は大坂城に入っていた輝元に徹底抗戦を呼びかけたが、輝元はそれに応じず国許へ帰った。
秀元もやむなく引き上げ、戦後、安国寺恵瓊は処刑されたものの広家の働きかけにより毛利家は大減封だけに留まり改易を免れた。
以降、秀元は改めて長門に6万石を分けられ西部方面の抑えを任された。
広家の内通に不満を抱き、しばらくは毛利家の運営から離れていたが、やがて和解すると輝元の子・毛利秀就(ひでなり)を後見し、家康の養女を継室として迎えたり、大坂の陣に参戦したりと幕府の信頼を得るべく奔走した。
一方で輝元と共謀し密かに家臣を豊臣方へ送り込み援助させるなど暗躍もしている。
陰謀が発覚すると広家は隠居、重臣の福原広俊(ふくはら・ひろとし)は失脚し、秀元はますます幕府に近づき折衝に努めた。
秀元は内政にも辣腕をふるい、検地や移封で再整備すると、新法の制定や開墾・農地開拓で37万石の長州藩を実質54万石にまで発展させた。
だが苦労知らずで町人の噂の的になるほど放蕩にふけり、不手際や無礼があっても「毛利殿は生まれつき不調法だから」と呆れ半分に目こぼしされるほど浅薄な性格だった秀就との間には軋轢が生じ、秀元は後見役を辞任すると独立の気配を見せ始めた。
秀就は処罰しようとしたが、秀元のこれまでの功績は絶大で、また将軍・徳川家光とも昵懇だったため手出しできずにいたが1636年、事態を重く見た家光が仲裁に入り、ようやく両者を和解させた。
秀元は晩年は江戸に住み、家光の御伽衆を務め、古田織部(ふるた・おりべ)に学んだ茶の湯を披露するなど悠々自適に暮らし1650年に72歳で没した。
戦国武将の気質を残す最後の大名だったともいわれる。
※アイコンは曹爽
三村元親(みむら・もとちか)
備中の人(??~1575)
父・三村家親(いえちか)は備中の大名で戦上手で知られ、宇喜多直家(うきた・なおいえ)を何度も撃退したが、手を焼いた直家によって1566年に暗殺された。(なお当時としては珍しい(暗殺手段としては初の?)銃殺である)
元親は次男だったが兄は庄家を継いでいたため三村家の家督を相続した。
1567年、元親は早速2万の大軍を率い仇討ち合戦に臨むも、5千の宇喜多軍に返り討ちにあった。
その後も毛利家の援軍を得て何度となく宇喜多軍に挑んだが、父から軍才は受け継がなかったようで、連敗を喫しついには兄も戦死した。
1574年、主家にも等しい毛利家が宇喜多家と和睦すると、元親は一族の三村親成(ちかしげ)や重臣の反対を押し切り毛利家と断交した。
毛利家はすぐさま討伐軍を編成。元親の守る備中松山城は手強いと判断し、まず周囲の支城を落としてから松山城を包囲し、さらに麦刈りをし兵糧攻めを行った。
城内からは離反者が続出し、翌1575年、元親は開城し切腹を申し出た。
幼い息子は助命される見通しだったが、毛利家の小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)は彼の利発さに舌を巻き、長じれば災いを招くと考え殺害させたため、三村家の嫡流は途絶えた。
一方、三村親成は毛利家との断交後すぐに出奔し、毛利家に仕えたため難を逃れた。
その後は浪人中に世話をした徳川家の重臣・水野勝成(みずの・かつしげ)に招かれ家老となり、子孫も水野家に仕えている。
※アイコンは曹性
穂井田元清(ほいだ・もときよ)
安芸の人(1551~1597)
毛利元就の四男。初名は毛利元清。
元就に男子は10人おり3本の矢で知られる毛利隆元(もうり・たかもと)、吉川元春(きっかわ・もとはる)、小早川隆景らは正室の子だが、元清以下は側室の子で、元就は意図的に両者を差別し側室の子らを「虫けらのような間抜けで無力なもの」と呼んだ。
一方で隆元らには「もし賢い者がいれば哀れんで取り立てて欲しい」とも命じ、元清はすぐ上の兄である隆景とは昵懇だった。
1568年、村上水軍との同盟強化のため村上通康(むらかみ・みちやす)の娘をめとった。
同年、毛利軍が北九州を攻め手薄になった隙に、宇喜多直家(うきた・なおいえ)が反乱し備中を攻めた。
元清は直家に父を殺された三村元親(みむら・もとちか)とともに反撃し、数年にわたり一進一退の攻防を繰り広げた。
1574年、毛利家が宇喜多家と和睦すると、離反した三村元親を隆景とともに攻め自害へ追い込んだ。
元清は褒美として備中猿掛城を望み、そこを居城に東部方面の守備を任された。
その際に猿掛城のある穂田の地名から穂田(穂井田)に改姓した。
1576年、宇喜多家が織田信長に従属し同盟破棄すると、宇喜多・織田軍と戦った。
1578年には孤立した山中鹿之助(やまなか・しかのすけ)ら尼子軍を攻め、上月城を落とした。
1582年、本能寺の変の際には羽柴秀吉の大軍と戦っていたが、信長の死をきっかけにした和睦以来、毛利家は秀吉に従うようになり、後には秀吉の命で隆景とともに四国、九州を攻めた。
1585年、秀吉が毛利家当主の毛利輝元(てるもと)に跡継ぎがいないと聞くと、養子の秀秋(ひであき)に毛利家を継がせようと持ちかけた。
乗っ取りの危機を感じた隆景はとっさに、元清の長男・秀元(ひでもと)が跡継ぎに決まっていると言い、秀秋を自分の養子に迎え入れると申し出た。
あてが外れたものの秀吉は「日本の東は徳川家康に、西は隆景に任せよう」と言うほど隆景を評価しており、秀秋は小早川秀秋として家督を継いだ。
これにより息子の秀元が跡継ぎに決まり毛利姓に復したため、元清も再び毛利元清を名乗った。
以後は次期当主の父としてますます重きを置かれ、豊臣政権で吉川家、小早川家が独立大名となり毛利家を離れていくと、元清は一門衆の筆頭格となり、毛利家の発給文書には必ず元清か安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)のどちらかが筆頭として署名した。
1592年、文禄の役では病床にあった輝元に代わり毛利軍を率いて渡海し、秀吉が所望した虎2頭を生け捕りにして献上し、京で公開され天皇が見物に来るほど話題を呼んだという。
1597年、47歳で没した。
晩年は病を得て、隆景とどちらが先に逝くか語り合い、間もなく隆景が没すると一月も経ずに後を追うように元清も没したという。
※アイコンは金環三結
亀井茲矩(かめい・これのり)
出雲の人(1557~1612)
尼子家に仕える湯家の長男として生まれる。
1566年、毛利元就によって尼子家が滅ぼされ浪人となった。放浪時代の詳細は不明だが、京に潜伏し尼子家残党の山中鹿之介(やまなか・しかのすけ)や尼子勝久(あまご・かつひさ)と合流したと思われる。
長じると尼子家再興を目指す鹿之助、勝久とともに戦い、鹿之介の養女をめとり、妻の実家である亀井家を継いだ。
尼子残党軍は中国地方へ版図を広げようとする織田信長に降伏し、中国方面軍を率いる羽柴秀吉の指揮下に入った。
だが1578年、信長の方針転換により孤立した残党軍は、毛利軍に上月城を包囲され勝久は自害、鹿之介も処刑されてしまう。茲矩は秀吉のもとにいたため無事で、以降は残党軍を率いた。
茲矩は24歳の若さで前線の城を預けられ、中国大返しの際には宮部継潤(みやべ・けいじゅん)とともに毛利家への抑えとして残されるなど早くから秀吉の信任を得た。
その後は豊臣政権で行政手腕も発揮し、文禄・慶長の役では水軍を任された。
1598年、秀吉が没すると機を見て徳川家康に接近し、1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に加わった。
本戦の勝利後に鳥取城を攻めたが落とせず、敵将の斎村政広(さいむら・まさひろ)を寝返らせるとその助けを得て城下を焼き落とし、強引に城を陥落させた。
家康はむやみな放火に気を悪くしたが、政広が焼き討ちの首謀者として切腹を命じられたため、茲矩にお咎めはなかった。
これは茲矩の讒言による工作とする説もある。
戦功により因幡鹿野に3万8千石を与えられ、以降は政治手腕を大いにふるい、また日本海側の大名としては異例の南蛮貿易を行うなど、先見性を示した。
1582年のこと、茲矩はかねてから出雲に領地を得ることを所望していたが、中国大返しに際し毛利家と和睦したため、毛利領の出雲を得ることは不可能となった。
秀吉に代わりにどこに領地が欲しいかと問われた茲矩は、琉球を領地にもらいたいと申し出た。当時は島津家の管理下にあったためやはり実現は難しかったが、秀吉は代わりに扇に「亀井琉球守殿」と記し褒美に与えた。
この扇は文禄の役で朝鮮の将・李舜臣(りしゅんしん)が奪った戦利品の中に含まれており、逸話が真実だと確かめられた。
その他にも居城をインドの古代都市と同じ「王舎城」と名づけたり、明領の「台州守」を自称したりと、茲矩の海外への興味や傾倒は昔からのものだったという。
1612年、56歳で没した。
亀井家は息子の代に出雲へ転封となり、茲矩の悲願は死後に叶えられた。
※アイコンは厳白虎
浦上宗景(うらがみ・むねかげ)
備前の人(??~??)
父の戦死後、兄の浦上政宗(まさむね)が幼くして家督を継いでいたが1551年、侵攻してきた尼子家に従属しようとした兄と意見が対立し、宗景は反尼子派の家臣とともに独立した。
宗景は安芸の毛利元就に従属し、備中の三村家親(みむら・いえちか)とは同盟し、1560年頃までに尼子・政宗勢力を破り備前の支配権を得た。
だが毛利家に従属した立場に不満を抱き1563年、一転して政宗と和睦すると毛利・三村両家と断交した。
翌1564年、赤松家の内紛に巻き込まれた政宗が息子の結婚式のさなかに暗殺されたものの、跡を継いだ浦上誠宗(なりむね)との関係は良好で、ともに協力し1567年には毛利・三村勢力を備前から駆逐し名実ともに備前を平定した。
宗景はこの機とばかりに誠宗や有力国人衆を暗殺し、さらに地盤を固めた。
だがそうした強引な統治は他の国人衆の反発を招いた。もともと浦上家と他家は主従関係というよりも寄り合い所帯に近く、中でも有力者の宇喜多直家(うきた・なおいえ)は野心深く反抗の機会をうかがっていた。
1569年、播磨の赤松義祐(あかまつ・よしすけ)を救援する名目で兵を動かし、義祐と敵対する赤松政秀(まさひで)を攻撃した。
ところが政秀は懇意にしていた将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)に救援を要請。義昭の命で織田信長が援軍を出し、それに乗じて宇喜多直家も反旗を翻し、宗景は挟撃を受け窮地に陥った。
しかし織田軍は背後を三好家に突かれるとすぐに撤退し、宗景はすかさず政秀を攻め立てて降伏させ、孤立した宇喜多直家もやむなく浦上家に帰参した。
1571年、宗景は三好家や山中鹿之介(やまなか・しかのすけ)に率いられた尼子残党と連携し、毛利軍を相手に優勢に戦いを進めた。
しかし毛利元就は北九州での大友宗麟(おおとも・そうりん)との争いに見切りをつけると、兵を本州に引き上げ浦上軍に対して反転攻勢に転じた。
そこで宗景は(赤松政秀を通じて?)足利義昭に仲介を頼み毛利家と和睦し、さらに織田信長からは備前・播磨・美作の支配権を認める朱印状を得た。
浦上家はここに最盛期を迎えたが、それはここまで宗景に協力してきた小寺家や、信長の手先として激しく争ってきた別所家ら東播磨の大名らを臣下扱いにすることを意味し、彼らの反感を招いた。
1574年、宇喜多直家は小寺政職(こでら・まさもと)に預けられていた浦上政宗の孫に目を付け、擁立すると再び謀叛を起こした。
直家は前回の反省を活かし、美作や備前の国人衆に事前に根回ししており、次々と浦上家から離反させた。
さらに毛利軍も兵を挙げ三村家を滅ぼすと、もはや宗景に抗す術はなく、居城を捨てて逃亡した。
宗景は一族や旧臣とともに備前でゲリラ戦を展開し、さらに幾度となく上洛し織田信長に支援を請うたが色好い返事は得られなかった。
そして1578年、味方勢力を結集しいったんは居城を奪回したものの、すぐに鎮圧され、以降は表舞台から姿を消した。
宗景の最期も判然としないが、かつて小寺家に仕えていた黒田官兵衛に招かれ、黒田家の治める筑前に移り80歳前後で没したと思われる。
※アイコンは陳敗
安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)
安芸の人(1537?~1600)
毛利家に仕えた僧侶。
安国寺は住持した寺の名で、禅僧としての正しい名は瑶甫恵瓊(ようほ・えけい)。
父は安芸武田家に仕えたが、5歳の時に毛利元就によって滅ぼされたため、恵瓊は安国寺に逃れ出家した。
師が元就の嫡子・毛利隆元(もうり・たかもと)と親交があったため、その縁で毛利家に仕えるようになった。
大友宗麟(おおとも・そうりん)や朝廷への交渉役を務める他、軍勢を率いることもあった。
将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)は後に毛利家のもとへ落ち延びるが、恵瓊は再三にわたりそれに反対し、織田信長との同盟を主張したという。
一方で1573年、毛利家の家臣に宛てた手紙で「信長の世は3年から5年は続くが、その後は高転びするだろう。木下藤吉郎という者は大した人物だ」と記しており、後の信長の失墜と秀吉の躍進を見事に言い当てている。
1582年、毛利軍が羽柴秀吉と備中高松城でにらみ合いをするさなか、信長が本能寺で討たれた。
秀吉はその事実を隠し毛利家との和睦を結び撤退した。その際に毛利家の窓口として積極的に和睦をまとめ上げたのが恵瓊である。
秀吉が明智光秀を討ち、対抗勢力を次々と下し天下人への道を上り始めると、1585年、毛利家はいち早く秀吉への臣従を決めた。恵瓊はその時も交渉役を務めている。
大いに秀吉に気に入られた恵瓊は毛利家から離れ秀吉の側近になり、四国制圧後には伊予和気2万3千石を与えられ、1586年の九州制圧後には6万石に加増され僧侶ながら大名となり、外交、検地、戦と全面的に活躍した。
特に肥後国人一揆では毛利軍を率いて第二陣として出撃し、国人衆をあるいは調略し、あるいは暗殺し一揆を迅速に鎮圧した。
文禄・慶長の役でも小早川隆景とともに参戦。戦働きの他、僧侶らしく現地の子供に日本語を教えたりもしたという。
恵瓊は豊臣家と毛利家の橋渡し役もしていたが秀吉、小早川隆景が没すると毛利家は吉川広家(きっかわ・ひろいえ)ら反豊臣派が台頭した。
しかし1600年、関ヶ原の戦いでは懇意にしていた石田三成にいち早く通じ、西軍の総大将として毛利輝元(てるもと)を担ぎ上げることに成功。
本戦にも出陣したが、吉川広家は裏で徳川家康と内通しており、毛利・安国寺軍の前に布陣したまま動かず、両軍は参戦できずに合戦は終結した。
恵瓊は逃亡したが家康の娘婿・奥平信昌(おくだいら・のぶまさ)の兵に捕らえられ(捕らえたのは長篠の戦いで著名な鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)の子だという)石田三成、小西行長(こにし・ゆきなが)ら西軍の主力とともに斬首された。
なお戦後、毛利家はいったんは取り潰されかけたが、吉川広家が奔走し安芸一国への減封で存続させている。