三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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穂井田元清(ほいだ・もときよ)
安芸の人(1551~1597)
毛利元就の四男。初名は毛利元清。
元就に男子は10人おり3本の矢で知られる毛利隆元(もうり・たかもと)、吉川元春(きっかわ・もとはる)、小早川隆景らは正室の子だが、元清以下は側室の子で、元就は意図的に両者を差別し側室の子らを「虫けらのような間抜けで無力なもの」と呼んだ。
一方で隆元らには「もし賢い者がいれば哀れんで取り立てて欲しい」とも命じ、元清はすぐ上の兄である隆景とは昵懇だった。
1568年、村上水軍との同盟強化のため村上通康(むらかみ・みちやす)の娘をめとった。
同年、毛利軍が北九州を攻め手薄になった隙に、宇喜多直家(うきた・なおいえ)が反乱し備中を攻めた。
元清は直家に父を殺された三村元親(みむら・もとちか)とともに反撃し、数年にわたり一進一退の攻防を繰り広げた。
1574年、毛利家が宇喜多家と和睦すると、離反した三村元親を隆景とともに攻め自害へ追い込んだ。
元清は褒美として備中猿掛城を望み、そこを居城に東部方面の守備を任された。
その際に猿掛城のある穂田の地名から穂田(穂井田)に改姓した。
1576年、宇喜多家が織田信長に従属し同盟破棄すると、宇喜多・織田軍と戦った。
1578年には孤立した山中鹿之助(やまなか・しかのすけ)ら尼子軍を攻め、上月城を落とした。
1582年、本能寺の変の際には羽柴秀吉の大軍と戦っていたが、信長の死をきっかけにした和睦以来、毛利家は秀吉に従うようになり、後には秀吉の命で隆景とともに四国、九州を攻めた。
1585年、秀吉が毛利家当主の毛利輝元(てるもと)に跡継ぎがいないと聞くと、養子の秀秋(ひであき)に毛利家を継がせようと持ちかけた。
乗っ取りの危機を感じた隆景はとっさに、元清の長男・秀元(ひでもと)が跡継ぎに決まっていると言い、秀秋を自分の養子に迎え入れると申し出た。
あてが外れたものの秀吉は「日本の東は徳川家康に、西は隆景に任せよう」と言うほど隆景を評価しており、秀秋は小早川秀秋として家督を継いだ。
これにより息子の秀元が跡継ぎに決まり毛利姓に復したため、元清も再び毛利元清を名乗った。
以後は次期当主の父としてますます重きを置かれ、豊臣政権で吉川家、小早川家が独立大名となり毛利家を離れていくと、元清は一門衆の筆頭格となり、毛利家の発給文書には必ず元清か安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)のどちらかが筆頭として署名した。
1592年、文禄の役では病床にあった輝元に代わり毛利軍を率いて渡海し、秀吉が所望した虎2頭を生け捕りにして献上し、京で公開され天皇が見物に来るほど話題を呼んだという。
1597年、47歳で没した。
晩年は病を得て、隆景とどちらが先に逝くか語り合い、間もなく隆景が没すると一月も経ずに後を追うように元清も没したという。