三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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三村元親(みむら・もとちか)
備中の人(??~1575)
父・三村家親(いえちか)は備中の大名で戦上手で知られ、宇喜多直家(うきた・なおいえ)を何度も撃退したが、手を焼いた直家によって1566年に暗殺された。(なお当時としては珍しい(暗殺手段としては初の?)銃殺である)
元親は次男だったが兄は庄家を継いでいたため三村家の家督を相続した。
1567年、元親は早速2万の大軍を率い仇討ち合戦に臨むも、5千の宇喜多軍に返り討ちにあった。
その後も毛利家の援軍を得て何度となく宇喜多軍に挑んだが、父から軍才は受け継がなかったようで、連敗を喫しついには兄も戦死した。
1574年、主家にも等しい毛利家が宇喜多家と和睦すると、元親は一族の三村親成(ちかしげ)や重臣の反対を押し切り毛利家と断交した。
毛利家はすぐさま討伐軍を編成。元親の守る備中松山城は手強いと判断し、まず周囲の支城を落としてから松山城を包囲し、さらに麦刈りをし兵糧攻めを行った。
城内からは離反者が続出し、翌1575年、元親は開城し切腹を申し出た。
幼い息子は助命される見通しだったが、毛利家の小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)は彼の利発さに舌を巻き、長じれば災いを招くと考え殺害させたため、三村家の嫡流は途絶えた。
一方、三村親成は毛利家との断交後すぐに出奔し、毛利家に仕えたため難を逃れた。
その後は浪人中に世話をした徳川家の重臣・水野勝成(みずの・かつしげ)に招かれ家老となり、子孫も水野家に仕えている。