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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―毛利秀元  最後の戦国大名

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戦国列伝―毛利秀元  最後の戦国大名


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毛利秀元(もうり・ひでもと)
備中の人(1579~1650)

毛利元就の四男で東方面を任された穂井田元清(ほいだ・もときよ)の嫡子。
1585年、実子のない毛利家当主・毛利輝元(てるもと)の養嗣子になった。推薦した伯父の小早川隆景は「眼差しや秘めたるものが父・元就に似ている」と述べたという。
だが1595年に輝元に待望の男子が生まれると、次期当主の座を自ら明け渡した。

1593年、文禄の役では毛利軍を率いた父や伯父の小早川隆景とともに渡海した。当時15歳ながら、碁盤の上に人を立たせ、それを持ち上げることができたと伝わるほどの怪力で早くも武功を挙げた。
1597年、慶長の役の折には父も亡く、19歳の秀元が毛利軍3万を率い黒田長政(くろだ・ながまさ)、加藤清正らの窮地を救う活躍を見せた。
1599年には独立大名として長門一国と周防・安芸の一部に計17万石を領したが、まだ年若いため家老の安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)が後見役に付けられた。

1600年、関ヶ原の戦いでは輝元が西軍の総大将として石田三成に担ぎ上げられた。
当時の毛利家は秀元、恵瓊、吉川広家(きっかわ・ひろいえ)の三人が中枢にいたが、このうち広家は西軍の敗北を予想し、裏では東軍を率いる徳川家康に内通し「毛利軍を参戦させない代わりに所領安堵する」約定を得ていた。
そして本戦では秀元と恵瓊の前に陣取ったまま動かず、彼らの参戦を阻んだ。付近にいた長宗我部軍、長束軍も毛利家の内通を疑って動けず、戦力で上回っていたはずの西軍はこれによりかなりの兵力を奪われた。
また長宗我部軍が毛利軍に進撃をせっついたものの、秀元は動くに動けず「兵に弁当を食べさせている」と苦し紛れの言い訳をし、秀元の官位である参議が中国で宰相と呼ばれることから「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた。

撤退した秀元は大坂城に入っていた輝元に徹底抗戦を呼びかけたが、輝元はそれに応じず国許へ帰った。
秀元もやむなく引き上げ、戦後、安国寺恵瓊は処刑されたものの広家の働きかけにより毛利家は大減封だけに留まり改易を免れた。
以降、秀元は改めて長門に6万石を分けられ西部方面の抑えを任された。

広家の内通に不満を抱き、しばらくは毛利家の運営から離れていたが、やがて和解すると輝元の子・毛利秀就(ひでなり)を後見し、家康の養女を継室として迎えたり、大坂の陣に参戦したりと幕府の信頼を得るべく奔走した。
一方で輝元と共謀し密かに家臣を豊臣方へ送り込み援助させるなど暗躍もしている。
陰謀が発覚すると広家は隠居、重臣の福原広俊(ふくはら・ひろとし)は失脚し、秀元はますます幕府に近づき折衝に努めた。

秀元は内政にも辣腕をふるい、検地や移封で再整備すると、新法の制定や開墾・農地開拓で37万石の長州藩を実質54万石にまで発展させた。
だが苦労知らずで町人の噂の的になるほど放蕩にふけり、不手際や無礼があっても「毛利殿は生まれつき不調法だから」と呆れ半分に目こぼしされるほど浅薄な性格だった秀就との間には軋轢が生じ、秀元は後見役を辞任すると独立の気配を見せ始めた。
秀就は処罰しようとしたが、秀元のこれまでの功績は絶大で、また将軍・徳川家光とも昵懇だったため手出しできずにいたが1636年、事態を重く見た家光が仲裁に入り、ようやく両者を和解させた。

秀元は晩年は江戸に住み、家光の御伽衆を務め、古田織部(ふるた・おりべ)に学んだ茶の湯を披露するなど悠々自適に暮らし1650年に72歳で没した。
戦国武将の気質を残す最後の大名だったともいわれる。

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