三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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淀殿(よどどの)
近江の人(1569?~1615)
豊臣秀吉の側室で、秀吉の死後は実質的に豊臣家を支配した。
浅井長政とお市の間に生まれた長女で本名は浅井茶々(ちゃちゃ)。妹の初(はつ)、江(ごう)と三姉妹揃って著名。
1573年、浅井家が伯父の織田信長によって滅ぼされ、父、祖父と兄を処刑された。
母お市と三姉妹は伯父の織田信包(のぶかね)に預けられたが1582年、本能寺の変で信長が討たれると、母は織田家の重臣・柴田勝家に再嫁し三姉妹は越前北ノ庄に移った。
しかし翌1583年、勝家は秀吉に賤ヶ岳の戦いで敗れ、お市とともに自害し、三姉妹は秀吉に保護された。
その後は信長の次男・織田信雄(のぶかつ)や、信長の弟・織田有楽斎(うらくさい)、信長の妹・お犬(いぬ)の方や従姉の京極竜子(きょうごく・たつこ)らに庇護されたと伝わる。
かつて秀吉が懸想したという母お市は戦国一の美女とうたわれたが、茶々も母に生き写しと言われ、1588年に秀吉の側室となった。
翌年には無数の側室を抱えながら子宝に恵まれなかった秀吉にとって初の実子となる鶴松(つるまつ)を産み、喜んだ秀吉は茶々に山城の淀城を与えたため、淀殿と呼ばれるようになった。
鶴松は3歳で夭折したが1593年に次男の豊臣秀頼(ひでより)も産まれ、1598年に秀吉が没すると淀殿は幼い秀頼を後見し実質的に豊臣家の実権を握った。
1600年、関ヶ原の戦いでは、石田三成の挙兵の噂を聞きつけると、徳川家康に対し謀叛を事前に防ぐよう依頼した。
三成は毛利輝元(もうり・てるもと)を西軍の総大将として豊臣家の居城・大坂城に入れ、秀頼の出陣やお墨付きを求めたが、淀殿は頑として首を縦に振らず、豊臣家の立場を中立に近いものとした。
家康は淀殿からの依頼状を三成らの謀叛の証拠として用い、「豊臣家のために謀叛人を討つ」ことを大義名分とした。
また重臣で淀殿の乳兄弟であり、秀頼の実父の噂すらささやかれる大野治長(おおの・はるなが)は、家康の暗殺を企んだ嫌疑を掛けられ流罪となっていたが、淀殿の要請を受けてか東軍に参戦し手柄を立て、罪を赦されると家康によって、豊臣家に敵意のないことを伝える使者として大坂城に送り込まれた。
淀殿は家康を大坂城に招くと歓待し、自ら酒盃を与えるとそれをすぐさま秀頼に与えるよう求め、家康が秀頼の父代わりであると宣言したという。
だが家康は豊臣家に処罰こそしなかったが、全国の豊臣家の直轄領を東軍で戦功のあった大名に全て与えてしまい、豊臣家を実質的に一大名に転落させた。
一方で淀殿は毛利輝元ら五大老、石田三成ら五奉行の去った豊臣家をますます牛耳るようになった。
豊臣家と徳川家は水面下で対立していき1614年、ついに大坂冬の陣を招いた。
全国に号令を掛けたもののもはや豊臣家に従う大名はなく、改易された元大名や主君を失った浪人だけが応じ、その中で主力を担った真田幸村は秀頼の出陣を請うたものの、淀殿はそれを断った。
また豊臣軍の奮戦に手を焼いた家康は、兵を下げると大砲で昼夜を問わず城を狙い撃ち心理的な圧迫を掛けたが、そのうちの一発が淀殿居室を直撃して侍女を殺したため、震え上がった淀殿が講和を求めたともされる。
翌1615年、再度の侵攻を招くと真田幸村ら浪人の猛攻で、家康を窮地に追い込んだものの衆寡敵せず、燃え落ちる天守閣から逃れ秀頼や大野治長らとともに自害した。
大坂の陣を前に戦の趨勢を聞かれた細川忠興(ほそかわ・ただおき)は「秀頼は乳飲み子でお袋(淀殿)が専制を敷いている」と答え、即座に家康の勝利と断じた。
すでに成人していた秀頼が乳飲み子さながらに扱われているとの表現は、豊臣恩顧の大名としてつぶさに内情を見てきた忠興の言葉として説得力がある。
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毛利勝永(もうり・かつなが)
尾張の人(1577~1615)
森吉成(もり・よしなり)の子。
父とともに豊臣秀吉に仕え、九州征伐の武功から父に豊前小倉6万石、勝永にも豊前国内に1万石が与えられ、あわせて秀吉から毛利姓を名乗るよう命じられ、父は毛利勝信(かつのぶ)に改名した。
1600年、関ヶ原の戦いでは父は豊前にいたため、勝永が兵を指揮して伏見城の戦いで大功を立てた。
本戦では毛利家(中国地方の本来の毛利家)の安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)の指揮下に置かれたが、徳川家康と内通する吉川広家(きっかわ・ひろいえ)が毛利家の参戦を阻むため、前に布陣したまま動かず、ろくに戦闘に参加することなく終わった。
豊前小倉城も黒田如水に奪われ、戦後は改易され、土佐の大名となった旧知の山内一豊(やまのうち・かずとよ)に預けられた。
1614年、豊臣家と徳川家が戦闘状態になると、豊臣秀頼(ひでより)に招かれた。
しかし妻子を残していくのを気に病んでいると、妻は「心配ならば我々は海に身を投げましょう」と励ましたため参戦を決意し、勝永は若い頃に衆道の関係にあった当主の山内忠義(やまうち・ただよし)を助けたいと偽り、家族を人質に差し出して出立した。
長男が城を抜け出し、勝永ともども豊臣方についたと聞くと忠義は激怒し、勝永の妻子を軟禁したが、話を伝え聞いた家康は感心し、逆に彼女らの保護を命じたという。
勝永は豊臣家譜代の家臣ということもあり、真田幸村らとともに主力として迎えられた。
大坂冬の陣では幸村とともに野戦を支持したが容れられず、籠城戦となったため目立った活躍はなかったが、翌1615年の夏の陣で勝永の名は一躍、世に轟くこととなる。
緒戦、勝永らの救援が間に合わず後藤又兵衛(ごとう・またべえ)を見殺しにすると、幸村はそれを恥じて斬り死にしようとしたが、勝永は「死ぬならば秀頼公の御前で華々しく死のう」と言い翻意させた。
そして兵4千を率いて家康本隊の正面に陣取ると、先鋒の本多忠朝(ほんだ・ただとも)、小笠原秀政(おがさわら・ひでまさ)を相次いで討ち取り、足並みの揃わない浅野・秋田・榊原・安藤・仙石・松下・酒井・諏訪・六郷らの部隊を次々と撃破し家康の本陣にまで突入した。
徳川秀忠の陣を守り、遠巻きに見ていた黒田長政(くろだ・ながまさ)は驚き、加藤嘉明(かとう・よしあき)にあれは誰かと尋ねた。勝永だと聞くと長政は「この前まで子供のように思っていたのに歴戦の将のようだ」と嘆息したという。
しかし家康の叱咤を受け死にものぐるいの突撃を仕掛ける松平忠直(まつだいら・ただなお)によって真田幸村が討ち取られると、戦線は崩壊し退却を余儀なくされた。
その際にも勝永は追いすがる藤堂高虎、細川忠興(ほそかわ・ただおき)、井伊直孝(いい・なおたか)ら名だたる猛将を退け、無事に城内へ戻った。
翌日、豊臣秀頼の介錯を務めた後に切腹して果てた。享年39。
勝永の活躍は衆目を驚かせ、山内家は後に旧臣に命じて勝永の伝記をまとめさせた。
大坂の陣を見聞した宣教師は「勝永と幸村の猛攻により家康は色を失い切腹しかけた」と本国に報告したという。
しかし後年、「真田十勇士」などで幸村が講談の英雄として祭り上げられていくなか、勝永の存在は忘れられ、その武功も多くが幸村のものとして取り入れられていった。
早くも江戸時代中期の文人・神沢杜口(かんざわ・とこう)は随筆で「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」と記している。
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宮部継潤(みやべ けいじゅん)
近江の人(??~1599)
近江の国人衆の生まれで、比叡山で修行し僧侶になるも、還俗して浅井長政に仕えた。
文武両道に優れ織田信長との戦いで活躍したが1572年、羽柴秀吉に調略され寝返った。
継潤の治める宮部城は、浅井家の居城・小谷城を攻める上で欠かすことのできない要害であり、秀吉は甥で後の豊臣秀次(ひでつぐ)を養子として継潤に預けてまで調略している。(秀次の養子縁組は小谷城の陥落後に解消されており、事実上の人質である)
その後は秀吉の弟・羽柴秀長(ひでなが)に次ぐ重臣として遇され、1577年からの中国攻めでは山陽方面を秀吉が、山陰方面を秀長と継潤が攻め、秀長が山陽方面の援軍に赴くと、山陰方面の指揮は継潤が執った。
1580年には但馬豊岡2万石を与えられ、但馬の国人衆・垣屋光成(かきや・みつなり)、出雲の国人衆・亀井茲矩(かめい・しげのり)らは継潤の指揮下として戦い、実質的に一方面軍を担っていた。
1582年、信長が本能寺で討たれると秀吉は「中国大返し」と呼ばれる迅速な撤退で畿内に戻ったが、継潤は鳥取城に残されその背後を守った。
秀吉が山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いと中央での戦いに主力を投入できたのは、継潤が後方の備えを固めていたからである。
明智光秀、柴田勝家、織田信雄(のぶかつ)らを破った秀吉は西部方面に兵を返し、継潤も因幡・但馬の国人衆を率い九州征伐に加わった。(それに先立ち越中での佐々成政(さっさ・なりまさ)攻めにも動員されている)
1590年、小田原征伐を終え秀吉が事実上、天下統一を果たすと、継潤は家督を嫡子の宮部長房(ながふさ)に譲ったが、隠居はせずに第一線で働き続けた。
1592年、文禄の役では自ら渡海を願い出たものの秀吉の許可は下りず、翌年に大友義統(おおとも・よしむね)が改易されると豊後の検地を、さらに因幡銀山の採掘を任されるなど政務に関わった。
1596年、高齢を理由に隠居したが、その後も秀吉の御伽衆として側近くに仕え、裏から豊臣家を支え1599年に没した。
享年は64、71など諸説ある。
跡を継いだ長房は1600年、関ヶ原の戦いに際し西軍につこうとしたが家臣の反対にあった。
単身で陣を抜け出し、海を渡ろうと船を買収したものの、金を持ち逃げされ途方に暮れ、陣に戻ったところを拘束され、戦後に改易となった。
危うく死罪を命じられかけたが、かつて継潤に仕えた田中吉政(たなか・よしまさ)の助命嘆願により救われ、南部利直(なんぶ・としなお)に預けられ1634年に盛岡で没した。
晩年、西軍につこうとしたのは吉政に騙されたからだとする弁解を始めたが、吉政もその他の者も亡くなっており証拠がないため相手にされず、ただ恩を仇で返しただけだった。
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宮田光次(みやた・みつつぐ)
出身地不明(??~1578)
羽柴秀吉が近江長浜に城を与えられた頃からの重臣で「羽柴四天王」に数えられる。通称の喜八(きはち)でも著名。
四天王の筆頭格で、家臣団でも武勇第一と讃えられたが、1578年の播磨攻めで戦死した。
戦死の地は三木城、上月城、高倉城と諸説ある。
光次の死の翌年、秀吉は酒宴を開き家臣をねぎらい「我が家の家臣団も昔に比べ随分と盛んになったと思わぬか」と聞いた。
家臣らもそれに同調し「三倍になりました」「いや五倍です」と言い、秀吉も「それどころではない、十倍だ」と大笑いした。
すると竹中半兵衛が静かに「昔に劣ります」と述べた。秀吉が驚いて理由を尋ねると「宮田喜八が死にました」と答えた。
秀吉も在りし日の光次の勇姿を思い出し「半兵衛の申す通りだ」と嘆息したという。
※アイコンは劉度
神子田正治(みこだ・まさはる)
尾張の人(??~1587)
豊臣秀吉の早くからの重臣で「羽柴四天王」に数えられる。姓は御子田と書かれることも多い。
はじめは父とともに織田信長に仕え、桶狭間の戦いや美濃斎藤家との戦いで活躍し、秀吉に請われて家臣となった。
その後は秀吉が関わった重要な戦のほとんどに従軍し、1583年の賤ヶ岳の戦いでは一軍を任され、戦後には播磨広瀬に1万2千石を与えられた。
しかし一説に軍学に優れたものの、それを鼻にかけ傲慢で皮肉屋な性格を秀吉に疎まれていたといい、1584年の小牧・長久手の戦いで殿軍を務めるも、他部隊が交戦中にも関わらず無断で戦線離脱したため改易となり、高野山へ追放された。
翌年には高野山も追われて諸国を放浪。豊後に流れ着き、1587年に秀吉の九州征伐が始まると帰参を願い出たが、これが藪蛇となりついに自害を命じられた。
同じく羽柴四天王で草創期からの重臣である尾藤知宣(びとう・とものぶ)もこの3年後に死を賜っており、正治の死は秀吉政権の転換期を象徴する事件であった。
※アイコンは歩隲
増田長盛(ました・ながもり)
尾張または近江の人(1545~1615)
豊臣政権の五奉行の一人。
1573年、羽柴秀吉に仕えるまでの経歴は不明で、一説に一向宗徒として織田信長と戦ったという。
秀吉のもとで内政・外交に手腕を発揮し、また小牧・長久手の戦いや紀州征伐では大将首を挙げるなど武勇にも優れた。
次第に頭角を現し諸大名との交渉や連絡、太閤検地の実施を担い、文禄の役では兵站や占領地の統治はもちろん実戦にも投入された。
1595年、豊臣秀長(ひでなが)に続き豊臣秀保(ひでやす)が没すると大和郡山20万石を与えられ、秀長・秀保の旧臣を多く召し抱えた。
秀吉の晩年には五奉行に列し、慶長の役では福島正則、石田三成とともに大将として大規模な援軍を率いることが決まっていたが、秀吉の死により沙汰止みとなった。
1600年、関ヶ原の戦いでは同じく五奉行を務めた三成に従い、やはり五奉行の長束正家(なつか・まさいえ)とともに作戦立案に貢献。
伏見城攻めには長盛自ら加わり、近江大津城の戦いでは長盛は参戦しなかったものの、増田軍が先陣を切って戦った。
だが一方で裏では三成の挙兵を徳川家康に報せ、管理していた豊臣家の直轄領から三成へ資金援助を行わずと、東西両軍に通じていた。直轄領の石高は100万石(約3万の兵力に相当)にも及び、もし長盛が全面的に三成を援助していれば、関ヶ原の趨勢は変わっていたという指摘もある。
本戦には参加せず、西軍総大将の毛利輝元(もうり・てるもと)とともに大坂城にいたが、西軍が敗れると出家して家康のもとへ謝罪に赴き、助命されたが改易のうえ高野山へ預けられた。
1614年、家康から大坂冬の陣に先立ち豊臣家との和睦の仲介を依頼されたがこれを拒絶した。
徳川義直(よしなお)に仕えていた嫡子の増田盛次(もりつぐ)は徳川方として参戦したが、豊臣家への忠誠心厚く、徳川軍が敗れると喜び、豊臣軍が敗れると嘆き、家康を「さすが増田の子よ」と感心させた。
1615年、大坂夏の陣で盛次は父と相談の上で徳川義直の了承を得て、豊臣軍に加わった。
藤堂高虎軍と戦い華々しく討ち死にを遂げ、戦後に長盛は息子の責任を取り切腹した。享年71。
最期こそ潔かったが、関ヶ原での保身目的の姑息な立ち回りから、豊臣家を滅亡させた元凶と見られることも多い。
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前田玄以(まえだ・げんい)
美濃の人(1539~1602)
豊臣政権の五奉行の一人。尾張前田家の前田利家らは遠縁に当たる。
若い頃は比叡山延暦寺に入っていたとも、尾張で住職を務めたとも言われる。
やがて織田信長に仕えると、思慮深く無私無欲の性格を気に入られ嫡子の織田信忠(のぶただ)の家臣に付けられた。
1582年、本能寺の変では信忠とともに二条御所におり、信忠の命で3歳の嫡子・織田秀信(ひでのぶ)を連れて尾張まで逃亡したが、信忠は攻め寄せる明智光秀軍と戦い討ち死にした。
その後は信長の次男・織田信雄(のぶかつ)に仕え京都所司代に任じられたが、豊臣秀吉が京を勢力圏に収めると鞍替えし、同じく京都所司代として朝廷との交渉役や、後に五奉行を務めた。
僧侶ながらキリスト教に理解があり、バテレン追放令が出された後も京で秘密裏にキリシタンを保護したという。また息子のうち2人はキリシタンになっている。
一方で同じ僧侶の不行跡を目にすることが多かったようで、他の僧侶を厳しく非難したという。
1598年、秀吉が没すると石田三成ら文治派と加藤清正ら武断派が争い、玄以は折衝に努めた。
1600年、関ヶ原では三成の率いる西軍に加担したが、一方で東軍を率いる徳川家康に三成の挙兵を報せるなど東西両軍に通じ、豊臣秀頼(ひでより)の後見役を志願して大坂城に残ると、病気を理由に出陣を拒んだ。
戦後、家康は内通を評価し丹波亀山5万石を安堵した。五奉行で玄以と同じく内通しながらも増田長盛(ました・ながもり)は改易されたが、長盛は前哨戦で兵を出していたこと、玄以のように朝廷との太いパイプが無かったことが原因と見られる。
1602年、63歳で没した。
前年に嫡子が亡くなっていたため(玄以が切腹を命じた、または暗殺したともいう)次男の前田茂勝(しげかつ)が跡を継いだが、禁止されていたキリスト教を熱心に信仰していたため幕府に睨まれ、また藩政を顧みず放蕩にふけり、それを咎めた家臣を殺したためついに改易された。
美濃前田家は三男の前田正勝(まさかつ)の系統が旗本として存続した。
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堀尾吉晴(ほりお・よしはる)
尾張の人(1544~1611)
豊臣秀吉の重臣。温厚で通称から「仏の茂助(もすけ)」と呼ばれた。
堀尾家は尾張の国人衆で、尾張上四郡の守護代・織田信安(おだ・のぶやす)に仕えていた。
しかし1559年、織田信長によって滅亡に追い込まれたため鞍替えし、木下秀吉の下に付けられた。
以降は秀吉に従い各地を転戦し、1567年の稲葉山城の戦いでは城に通ずる裏道を案内したという。
順調に出世を重ね1583年、若狭高浜に1万7千石を与えられ大名に列し、かつて織田信安に仕えた山内家の山内一豊(やまのうち・かずとよ)らとともに豊臣秀次(ひでつぐ)の家老となった。
その後も九州征伐、小田原征伐にも参戦し、1590年には関東に移封となった徳川家康の旧領である遠江浜松12万石を与えられた。
1595年、秀次は謀叛を企んだとして処刑され、多くの家臣も連座したが、すでに独立を果たしていたのか吉晴は罪に問われなかった。
またこの頃、中村一氏(なかむら・かずうじ)、生駒親正(いこま・ちかまさ)とともに三中老に任じられたとされる。
1598年、秀吉が没すると家康によしみを通じ、前田利家、石田三成ら反家康派との間を取り持った。
翌年、老齢を理由に隠居し、長男が早逝していたため次男の堀尾忠氏(ただうじ)に家督を譲った。
隠居料として家康から越前府中5万石を与えられたが、これは家康が知行を与えた最初の例である。
1600年、関ヶ原の戦いでは東軍につき、それに先立ち会津征伐に赴く家康を浜松城で歓待した。
吉晴は自らの参戦を訴えたが、家康は忠氏だけで許し帰国を命じた。
帰国の途上、三河で水野忠重(みずの・ただしげ)、加賀井重望(かがのい・しげもち)と宴会をしていると、突如として重望が忠重を殺害した。
吉晴も襲われ17ヶ所もの槍傷を負ったが、重望を返り討ちにした。
駆けつけた忠重の家臣らは吉晴が下手人だと勘違いするほど凄惨な現場で、吉晴の菩提寺に残る吉晴木像には左頬に深い傷跡が彫られており、この際に負ったものと思われる。
事件の背景は不明だが、重望が西軍に通じており、東軍の重鎮である吉晴、忠重を狙ったものと考えられている。
忠氏は関ヶ原の本戦で活躍し出雲富田24万石に加増された。また吉晴も北国の情勢を逐一家康に報せたとされる。
1604年、忠氏が急逝し孫の堀尾忠晴(ただはる)が6歳で跡を継いだため、吉晴が復帰し後見役を務めた。
1611年、松江城を築き移り住み、間もなく68歳で没した。
堀尾家は1633年に忠晴が没すると無嗣改易となったが、血縁は他家の家臣となり残っている。
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堀尾忠氏(ほりお・ただうじ)
出身地不明(1578~1604)
豊臣家の三中老・堀尾吉晴(よしはる)の次男。
1599年、父が隠居すると兄が早逝していたため家督を継いだ。
翌年の関ヶ原の戦いでは、父同士がかつて織田信安(おだ・のぶやす)に仕えていた間柄でもある山内一豊(やまのうち・かずとよ)と協議し、いち早く徳川家康に居城の提供を申し出たことで、去就を決めかねていた諸大名を一斉に東軍方に付けることに貢献した。
居城の提供はもともと忠氏の発案だったが、一豊がそれを横取りして自分の案のように家康に話したため、後に「日頃は篤実なあなたにしては珍しい」と忠氏にからかわれた、という逸話も伝わる。
関ヶ原本戦でも忠氏は活躍し、戦後に出雲富田24万石へと加増された。
出雲に入った忠氏ははじめ月山富田城を居城としたが、山に囲まれ交通の便が悪く、城下町も広げられないことに不満を抱き移築を考えた。
父の吉晴は荒隈山に城を築くべきと主張したが、あまりに広大すぎ割に合わないと渋り、忠氏は自ら各地を検分して回った。
1604年、意宇郡の大庭大宮に参拝した時、ついでに付近の池を調査したいと言ったが神主は禁足地(聖域)であるとして断った。
忠氏は権力を振りかざして強引に案内させ、禁足地には一人で入っていった。
そして戻ってくると忠氏の顔色は紫色に変わっており、居城に帰り着くや病床に伏してしまい、禁足地を侵したことを繰り返し後悔し、10日も経ずに急逝した。
享年は27と若く持病も無しと、聖域の祟りでも受けたような都市伝説のテンプレの如き不審死であるが、一説にはマムシに噛まれたことが死因とされる。
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堀秀政(ほり・ひでまさ)
美濃の人(1553~1590)
織田信長、豊臣秀吉に仕え、戦上手ぶりから「名人久太郎」とうたわれた。(久太郎は秀政の名)
美男子で幼い頃から才気に優れ、13歳で信長の小姓に取り立てられた。
16歳にして将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)の屋敷の普請奉行を命じられるなど、多くの奉行職を務め早くから頭角を現す。
政治だけではなく軍事にもその才は発揮され、1577年の紀伊雑賀討伐では一隊を率いた。
1581年、近江坂田に2万5千石を与えられ大名に列し、翌年の本能寺の変の際には秀吉のもとにおり、山崎の戦いで先陣を務めた。
明智光秀の居城・坂本城に迫ると光秀の娘婿・明智秀満(ひでみつ)は、秀政の家老の奥田直政(おくだ・なおまさ)に伝来の家宝を譲った後に自害したという。
光秀を討った秀吉は織田家での地位を確立し、わずか3歳の信長の孫・織田秀信(ひでのぶ)を当主に据え、秀政を傅役に任じた。
秀吉からの信頼は厚く、一族外の者で初めて羽柴姓を許され、賤ヶ岳の戦いでも軍功多く秀吉に讃えられた。
1584年、小牧・長久手の戦いでは池田恒興(いけだ・つねおき)、森長可(もり・ながよし)ら名だたる将が戦死する中、秀政は部隊を3つに分けると徳川軍を撃退してのけた。
紀州征伐、四国征伐でも大功を立て、石高は越前北ノ庄18万石に上った。
しかし1590年、小田原征伐で左翼を任され快進撃を続けるさなか、疫病を患い38歳の若さで急死した。
後に90万石を領する蒲生氏郷(がもう・うじさと)と同等のペースで加増を重ねており、無事ならば百万石の大身になってもおかしくなく、もし人心掌握術に優れ「名人」とまでうたわれた戦上手の秀政が存命で西軍に属していたら、関ヶ原の戦いの趨勢さえ左右したであろう。