三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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堀尾忠氏(ほりお・ただうじ)
出身地不明(1578~1604)
豊臣家の三中老・堀尾吉晴(よしはる)の次男。
1599年、父が隠居すると兄が早逝していたため家督を継いだ。
翌年の関ヶ原の戦いでは、父同士がかつて織田信安(おだ・のぶやす)に仕えていた間柄でもある山内一豊(やまのうち・かずとよ)と協議し、いち早く徳川家康に居城の提供を申し出たことで、去就を決めかねていた諸大名を一斉に東軍方に付けることに貢献した。
居城の提供はもともと忠氏の発案だったが、一豊がそれを横取りして自分の案のように家康に話したため、後に「日頃は篤実なあなたにしては珍しい」と忠氏にからかわれた、という逸話も伝わる。
関ヶ原本戦でも忠氏は活躍し、戦後に出雲富田24万石へと加増された。
出雲に入った忠氏ははじめ月山富田城を居城としたが、山に囲まれ交通の便が悪く、城下町も広げられないことに不満を抱き移築を考えた。
父の吉晴は荒隈山に城を築くべきと主張したが、あまりに広大すぎ割に合わないと渋り、忠氏は自ら各地を検分して回った。
1604年、意宇郡の大庭大宮に参拝した時、ついでに付近の池を調査したいと言ったが神主は禁足地(聖域)であるとして断った。
忠氏は権力を振りかざして強引に案内させ、禁足地には一人で入っていった。
そして戻ってくると忠氏の顔色は紫色に変わっており、居城に帰り着くや病床に伏してしまい、禁足地を侵したことを繰り返し後悔し、10日も経ずに急逝した。
享年は27と若く持病も無しと、聖域の祟りでも受けたような都市伝説のテンプレの如き不審死であるが、一説にはマムシに噛まれたことが死因とされる。