三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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前田玄以(まえだ・げんい)
美濃の人(1539~1602)
豊臣政権の五奉行の一人。尾張前田家の前田利家らは遠縁に当たる。
若い頃は比叡山延暦寺に入っていたとも、尾張で住職を務めたとも言われる。
やがて織田信長に仕えると、思慮深く無私無欲の性格を気に入られ嫡子の織田信忠(のぶただ)の家臣に付けられた。
1582年、本能寺の変では信忠とともに二条御所におり、信忠の命で3歳の嫡子・織田秀信(ひでのぶ)を連れて尾張まで逃亡したが、信忠は攻め寄せる明智光秀軍と戦い討ち死にした。
その後は信長の次男・織田信雄(のぶかつ)に仕え京都所司代に任じられたが、豊臣秀吉が京を勢力圏に収めると鞍替えし、同じく京都所司代として朝廷との交渉役や、後に五奉行を務めた。
僧侶ながらキリスト教に理解があり、バテレン追放令が出された後も京で秘密裏にキリシタンを保護したという。また息子のうち2人はキリシタンになっている。
一方で同じ僧侶の不行跡を目にすることが多かったようで、他の僧侶を厳しく非難したという。
1598年、秀吉が没すると石田三成ら文治派と加藤清正ら武断派が争い、玄以は折衝に努めた。
1600年、関ヶ原では三成の率いる西軍に加担したが、一方で東軍を率いる徳川家康に三成の挙兵を報せるなど東西両軍に通じ、豊臣秀頼(ひでより)の後見役を志願して大坂城に残ると、病気を理由に出陣を拒んだ。
戦後、家康は内通を評価し丹波亀山5万石を安堵した。五奉行で玄以と同じく内通しながらも増田長盛(ました・ながもり)は改易されたが、長盛は前哨戦で兵を出していたこと、玄以のように朝廷との太いパイプが無かったことが原因と見られる。
1602年、63歳で没した。
前年に嫡子が亡くなっていたため(玄以が切腹を命じた、または暗殺したともいう)次男の前田茂勝(しげかつ)が跡を継いだが、禁止されていたキリスト教を熱心に信仰していたため幕府に睨まれ、また藩政を顧みず放蕩にふけり、それを咎めた家臣を殺したためついに改易された。
美濃前田家は三男の前田正勝(まさかつ)の系統が旗本として存続した。