三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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斎藤義龍(さいとう・よしたつ)
美濃の人(1527~1561)
美濃の大名・斎藤道三(どうさん)の嫡子。
六尺五寸(約197cm)の並外れた長身で知勇兼備だったが、重い持病を抱えていたという。
1554年、道三が隠居すると家督を譲られた。道三が家臣の信望を失ったため譲位したとされる。
しかし道三の義龍への評価は低く息子を「老いぼれ」と呼び、下の弟達を溺愛し家督も譲らせようとしたため、父子の仲は険悪となった。
1555年、義龍は叔父と共謀し、日根野弘就(ひねの・ひろなり)に命じて弟達を暗殺した。
道三は逃亡し兵を集めたが、すでに信望を失っていた彼に味方する者は少なく、娘婿の織田信長の援軍が駆けつける前に義龍に討たれた。
死の間際、道三は義龍の用兵の巧みさに唸り、自分の評価の誤りを認めたと伝わる。
義龍は勢力拡大に明け暮れた道三時代とは打って変わった近代的な政治体制を敷き、領国を安定させた。
道三の末子・斎藤利治(としはる)は織田家に亡命すると、信長から一字拝領し斎藤長龍(ながたつ)と改名し、美濃斎藤家の当主を名乗った。
信長は斎藤長龍を正統な道三の後継者として美濃攻略を進め、それに対し義龍は将軍家から一色姓を賜り幕府の直臣になり大義名分を得た。
義龍は道三の実子ではないという噂が当時から流れており、それを逆手に取って正統性の揺らぐ斎藤家から脱却し、同時に父殺しの汚名を逃れたとも言われる。
また1559年には信長を火縄銃で暗殺しようとした。これは記録に残る限り日本最古の狙撃による暗殺(未遂)である。
桶狭間の戦いで今川義元を返り討ちにし、信長の攻勢が強まる中、1561年に義龍は持病により35歳で没した。
14歳で跡を継いだ嫡子の斎藤龍興(たつおき)は傲慢で人望薄く、竹中半兵衛や美濃三人衆の離反を招き、1567年に信長に美濃を奪われた。
その後も織田家の敵対勢力の下を転々としながら信長と戦い、1573年に朝倉家の滅亡と運命をともにした。
斎藤長龍はその後も織田家で活躍したが1582年、本能寺の変で信長の嫡子・織田信忠(のぶただ)とともに奮闘むなしく戦死した。
長龍を討ったのは皮肉にも同族で明智光秀に仕えた斎藤利三(としみつ)である。
美濃斎藤家は大名として再興することはなかったが、子孫は他家の家臣として存続している。
姉小路頼綱(あねがこうじ・よりつな)
飛騨の人(1540~1587)
飛騨南部の大名。はじめは三木自綱(みつぎ・よりつな)を名乗った。
飛騨全土の支配を目指す父の三木良頼(よしより)は、南北朝時代に飛騨の国司を務めた姉小路家が断絶しているのに目をつけ、姉小路家を乗っ取り改姓し、自綱も姉小路頼綱と改名した。
1572年、父が没すると家督を継ぎ、1578年に上杉謙信が没すると、織田家の援助を得て親上杉派の国人衆を次々と攻め滅ぼした。
1582年、織田信長が暗殺されると、混乱に乗じて飛騨北部を領する宿敵・江馬輝盛(えま・てるもり)を「飛騨の関ヶ原」と呼ばれる八日町の戦いで破り、宗家筋の小島家、実弟の継いでいた鍋山家をも滅ぼし飛騨統一を成し遂げた。
だが後ろ盾としていた柴田勝家、佐々成政(さっさ・なりまさ)らが羽柴秀吉に敗北すると、飛騨にも侵略の手は及び、頼綱はやむなく降伏した。
長男は謀叛の疑いを掛けてすでに殺害しており、家督を継がせた次男も降伏の際に自害を命じられた。
頼綱は助命されて京に幽閉されたが、1587年に没した。
末子の三木近綱(ちかつな)は縁戚の遠藤家に人質に出していたため助かり、後に徳川幕府の旗本となった。
四男の森直綱(もり・なおつな)は遠藤慶隆(えんどう・よしたか)の婿となり、慶隆の一人息子が戦死すると、直綱の次男が養子となって遠藤家を継いだ。
遠藤家は幕末まで大名として存続し、明治期には子爵となり現在も続いており、姉小路家は途絶えたが頼綱の血は残った。
遠藤直経(えんどう・なおつね)
近江の人(1531~1570)
浅井家に仕えた猛将。
代々浅井家に仕えてきた家柄で、直経も浅井長政の傅役を務めており、長政が臣従していた六角家からの独立を企んだ時、真っ先に相談したのも直経だった。
また伊賀忍者と親交があり、浅井家の諜報活動を担ったともされる。
同盟関係にあった織田信長の才能を高く評価し、1568年に信長が長政のもとを訪れた際には暗殺を進言したが、容れられなかった。
その後、旧来から関係の深い朝倉家と、織田家のどちらにつくか議論が持ち上がった際に、直経は織田家を支持した。しかし長政の父・浅井久政(あざい・ひさまさ)の意向もあり朝倉家につくことが決まった。
1570年、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に大敗を喫すると、直経は味方の首を手に、織田家の兵になりすまして信長のもとへ接近した。
しかし本陣を目の前に竹中家の家臣によって正体を見破られ、あえなく討ち取られた。
竹中半兵衛らは斎藤家を出奔した後、浅井家に客将として迎えられていたことがあり、直経の風貌を見知っていたためと言われる。
磯野員昌(いその・かずまさ)
近江の人?(1523~1590)
浅井家に仕えた猛将。
武勇に優れた員昌は常に先鋒を任された。1570年、姉川の戦いでは織田軍の陣を実に11陣まで破り、織田信長の本陣近くまで迫った。
だが稲葉一鉄(いなば・いってつ)ら美濃三人衆の救援が間に合い、徳川家康の奇襲により朝倉軍が敗走すると、浅井軍も総崩れとなり員昌もやむなく撤退した。
しかし浅井家の史料にしかこの「十一段崩し」は記されず信憑性には欠ける。
1571年、守る佐和山城を孤立させられた員昌は織田家に降伏した。
佐和山城は接収されたものの代わりに近江高島郡を与えられた。羽柴秀吉、柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀(にわ・ながひで)ら並みいる重臣も同様に琵琶湖周辺に所領を与えられており、また信長の甥・津田信澄(つだ・のぶすみ)を養嗣子にされるなど員昌の待遇は破格の扱いで、いかに員昌の武勇が大きく買われていたかが察せられ、かの「十一段崩し」も多少の誇張はあるにしろ事実に近いことはあったと思われる。
その後は織田家で数々の戦に従軍したが1578年、信長の勘気を蒙り出奔した。
一説には津田信澄への家督相続を拒んだためというが、その先年にすでに信澄が家督を継いでいたと見られる記録も残っており、確かな理由はわからない。
出奔後の足取りは不明だが1582年、本能寺の変で信長が討たれ、信澄もまた明智光秀の婿だったことから暗殺されると、やがて員昌は高島郡に戻った。
すでに老齢のためか武士をやめ帰農し1590年に68歳で没したと伝わる。
子の磯野行信(ゆきのぶ)は石田三成に、三成が没すると藤堂高虎(とうどう・たかとら)に仕えた。高虎はかつての員昌の家臣である。
孫の磯野行尚(ゆきなお)は大坂の陣で敵将・増田盛次(ました・もりつぐ)を討ち取り、また娘は高名な茶人かつ建築家の小堀遠州(こぼり・えんしゅう)を産んでいる。
朝倉義景(あさくら・よしかげ)
越前の人(1533~1573)
越前の大名。名家の嫡子に生まれたが幼少期の記録はほとんどなく、父の死により16歳で家督を継いだ。
一族の名将・朝倉宗滴(そうてき)が年若い義景に代わり、1555年に没するまで軍事・政治を切り回したという。
妻に同じく名家の細川晴元(ほそかわ・はるもと)の娘を迎え、足利将軍家とも緊密に交流し(義景の義は将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)からの一字拝領)、若狭守護の武田義統(たけだ・よしむね)を補佐して援軍を送るなど、しばらくは順風満帆に過ごした。
1565年、足利義輝が暗殺されると朝倉家も時代の流れに呑み込まれていく。義輝の弟・足利義昭(よしあき)は朝倉家に庇護を求め、同時に実権回復のため上洛を促したものの、義景は重い腰を上げようとしなかった。
1568年、業を煮やした義昭は、美濃を制圧し「天下布武」を掲げた織田信長のもとへ去ってしまった。
同年、義景は内紛の続く若狭に介入し、当主の武田元明(もとあき)を庇護する名目で拉致し、若狭を支配下に置いた。この頃から義景は政務を一族の者に任せ、自身は遊興にふけり出したという。
同年9月、織田信長は足利義昭を旗印に早くも上洛戦を開始した。
義景も再三、協力を要請されたが黙殺したため、1570年、朝倉家は反逆者の汚名を着せられ織田・徳川連合軍の攻撃を受けた。
若狭武田家の旧臣が織田家に寝返り劣勢に立たされたが、朝倉家と古くから親交を結ぶ浅井家が織田家を裏切り(当主・浅井長政の妻は信長の妹・お市)背後を急襲したため、織田軍は撤退した。
朝倉軍は追撃をかけたが、殿軍の木下秀吉や明智光秀らに阻まれ、目立った戦果は挙げられなかった。
同年6月、織田・徳川連合軍は朝倉・浅井連合軍と姉川で激突した。
開戦当初は優勢だったが、朝倉軍は義景が出陣せず朝倉景健(かげたけ)が総大将を務めるなど士気で劣り、徳川軍の榊原康政(さかきばら・やすまさ)に側面を突かれると崩れたち、敗走し多くの支城を奪われた。
同年8月、信長が摂津に出陣した隙をつき、義景は自ら指揮を取り近江坂本へ侵攻し、信長の弟・織田信治(おだ・のぶはる)と重臣の森可成(もり・よしなり)を討ち取った。
信長がすぐさま引き返すと義景は比叡山に立てこもり、信長が朝廷や足利義昭を動かし和睦が結ばれるまで戦おうとしなかった。
翌年、信長は義景に味方した比叡山を焼き討ちし後顧の憂いを断つと、浅井家の居城・小谷城へ迫った。
浅井長政は「長島一向一揆が織田軍の退路を断った」と偽って朝倉家の救援を請い、それに騙された義景は出撃したものの、重臣の前波吉継(まえなみ・よしつぐ)や富田長繁(とみた・ながしげ)が相次いで織田家に寝返ってしまった。
だが武田信玄が西上を開始し、三方ヶ原で徳川軍を打ち破ると、戦況は逆転し織田軍は撤退した。
ところが義景はろくに追撃もせず、兵の疲労と積雪を理由に越前へと帰ってしまう。武田信玄は激しく非難をしたが義景は意に介さなかった。
1573年、信玄が急死し武田軍が撤退すると、信長は朝倉家の征伐に乗り出した。
数々の失態を重ねてきた義景は家臣の信望を失っており、朝倉景鏡(かげあきら)や魚住景固(うおずみ・かげかた)らに出陣を拒否され、総兵力を集められなかった。
信長は暴風雨に乗じて自ら砦を攻め落とし、義景が撤退するとやはり自ら追撃軍を率いさんざんに打ち破った。
義景は命からがら居城の一乗谷まで逃げ込んだものの、斎藤龍興(さいとう・たつおき)ら重臣は討ち取られ、一乗谷の守備兵すらすでに逃げ去っていた。
義景は切腹を決意したものの朝倉景鏡に止められ、付近の寺を転々とした。信長は柴田勝家に命じて神社仏閣や居館を手当たり次第に焼き払ったため、京の都にも劣らぬ栄華を誇っていた朝倉家の威容は灰燼に帰した。
そして8月20日、朝倉景鏡にも裏切られ、潜伏中の寺を包囲されると自害を遂げた。
浅井久政(あざい・ひさまさ)
近江の人(1526~1573)
北近江の大名。浅井長政の父。
1542年、17歳で家督を継いだが勇名を馳せた父とは対照的に武勇に優れず、また父も生前は久政よりも姉婿の浅井明政(あきまさ)に家督を譲ろうと考えていたとされ、実際に明政は家督相続に反対し一時反乱を起こした。(すぐに和解し姓を変えたとも、そもそも反乱しなかったともいう)
そのため求心力を失った浅井家は急速に衰え、やがて六角家の支配下に入った。
久政は息子(後の長政)の妻に六角家の家臣の娘を迎えさせ、さらに六角家当主・六角義賢(ろっかく・よしかた)から一字もらい受け浅井賢政(かたまさ)と名乗らせるなど、徹底して六角家に従属した。
しかし久政の弱腰に浅井家の家臣は大いに不満を抱き1559年、久政を幽閉し強制的に隠居させると賢政に家督を継がせた。
賢政は妻を離縁し、長政と改名すると六角家に対し独立を宣言、この日に備え水面下で準備を進めていた浅井軍は調略工作等で戦を有利に進め、長政の巧みな指揮もあり2倍の六角軍を打ち破った。
六角家はその後、家中の混乱から衰退し、一方で長政はその機に乗じ版図を拡大し、また織田信長の妹・お市を妻に迎えるなど勢力を強めていった。
だが1570年、父の代から同盟関係にある朝倉家を信長が攻めると、織田・朝倉どちらにつくか家中は二分された。
久政や古くからの家臣は朝倉家を重視したため、織田家に肩入れしていた長政も結局は折れ、浅井軍は金ヶ崎で織田軍を急襲した。
このように久政は隠居後も強い発言権を持っていたとも、朝倉家を救うために隠居の久政が担ぎ上げられ、長政抜きで軍議が決したとも、そもそも織田家との同盟自体が無かったともされ、長政の家督相続や金ヶ崎の戦い周辺の動静には疑問点が多い。
ともあれ信長は羽柴秀吉や明智光秀らの奮闘により窮地を脱し、徳川家康との連合軍で反撃に乗り出すと、姉川の戦いで浅井・朝倉軍に大勝。
そして1573年、信長はまずは朝倉家を滅ぼすと、返す刀で浅井家の居城・小谷城へ迫った。
孤立した久政は家臣に切腹するまでの時間を稼ぐよう命じると、一族やお抱えの舞楽師とともに自害を遂げた。
久政は「浅井三代記」や各種の創作で家を滅ぼした元凶として暗愚に描かれがちだが、近年になって六角家への従属を選択した外交手腕や、内政で挙げた業績を再評価されているという。
11歳のときに京都で出家したが、のちに還俗し美濃の油商人の婿となる。寺の旧友と再会し、そのつてで長井長弘(ながい・ながひろ)の家臣となった。
武芸と才覚で美濃守護の土岐頼芸(とき・よりあき)の信頼を得ると、頼芸の兄を追放し家督相続に協力した。そして主君の長井長弘を不行跡のかどで殺害し長井家を、ついで守護代の斎藤利良(さいとう・としなが)が病死するとあとを継ぎ斎藤利政を名乗った。土岐頼芸の弟を毒殺したことから頼芸との関係が悪化すると、ついに頼芸を追放し美濃の国主となった。
頼芸はかつて追放した兄の息子や、尾張の織田信秀(おだ・のぶひで)の助勢を得て反攻するが、斎藤利政はそれをさんざんに打ち破り、信秀の息子・信長に娘の濃姫を嫁がせ和睦した。
その際、大うつけとして知られていた信長を引見すると、「わしの息子たちはいずれ信長の馬を引くことになるだろう」とその素質を見抜いたという。
利政は家督を息子の義龍(よしたつ)に譲り隠居し、剃髪して道三と名乗った。だが義龍をうとんじ、下の弟たちをかわいがり、義龍の廃嫡を考えた。
義龍は弟を殺すと道三に対して兵を挙げた。裏切りのくり返しでのし上がった道三に肩入れする家臣は少なく、義龍の大軍の前に戦死した。
道三は義龍を評価していなかったが、その巧みな用兵を見て最後には自分の誤りを認めたという。
なお義龍は道三の実子ではなく土岐頼芸の息子だという通説がよく知られているが、これは後世の創作である。
以上の業績から道三は油商人から戦国大名にまで成り上がったとされていたが、近年の研究では父の長井新左衛門尉(ながい・しんざえもんのじょう)の業績も入り混じっていることが明らかとなり、美濃の国盗りは親子二代によるものであろうと考えられている。
お市に懸想する秀吉の尽力もあり、お市と三人の娘らは小谷城を脱出し、以降は兄の織田信包(おだ・のぶかね)の庇護を受け、信長にも目をかけられた。
1582年に信長が本能寺の変で没すると、秀吉の仲介でお市は織田家の筆頭家老・柴田勝家に嫁いだ。
しかし間もなく、信長の後継者争いで秀吉と勝家は対立し、賤ヶ岳の戦いで勝家は大敗した。
秀吉はお市を助けようと奔走したが、秀吉を毛嫌いしていたお市はそれを拒絶し、勝家とともに自刃した。
お市の三人の娘はそれぞれ、長女の茶々(ちゃちゃ 後の淀君)はお市に生き写しだったことから秀吉に。次女の初(はつ)は名門・京極家に。三女の江(ごう)は徳川秀忠(とくがわ・ひでただ 第二代将軍)に嫁ぎ、浅井の血を残した。
1570年、姉川の戦いで徳川軍の敵中深くに切り込み過ぎて孤立し、直隆の子・真柄隆基(たかもと)とともに兄弟そろって戦死した。
直隆を討ち取ったのは向坂(さきさか)三兄弟と言われ、その時に使った太刀は「真柄斬り」と名付けられ名刀のひとつに数え上げられる。
また太郎太刀も熱田神宮に奉納されており、一説によると、それは太郎太刀ではなく次郎太刀で、太郎太刀は白山比咩神社に奉納されたものだとも言う。
また真柄家は朝倉家の完全な家臣というわけではなく、独立した地位を保っており、直隆ら三人が戦死した後も家は存続しているようである。
ちなみに弟の直澄はあまりに史料が少ないことから存在が疑われており、直隆と同一人物だとする意見もある。
このように事績は非常に少ないが、地味な印象の濃い朝倉家の中でひときわ目立つ存在として、創作においては重宝がられており、知名度はまずまず高い。
祖父・浅井亮政(あざい・すけまさ)は、北近江の守護だった京極家を追い落とし下克上を果たしたが、跡を継いだ浅井久政は南近江の守護・六角家に敗れ、臣従を強いられていた。
幼い長政も六角家に人質として差し出されており、当主・六角義賢(ろっかく・よしかた)の名を受け、浅井賢政(あざい・かたまさ)と名乗らされ、六角家の家臣の娘を妻としていた。
だが不甲斐ない浅井久政へ反発する家臣たちは、久政を強制的に隠居させると、15歳の浅井賢政に家督を継がせた。
1560年、賢政は六角家の妻と名を返上し、浅井長政の名に戻ると挙兵した。
家臣は兼ねてからこの時のために準備をしており、また長政も見事な指揮を振るったため大勝を収め、家臣は一気に長政に心酔したという。
1563年、敗戦を機に隠居した六角義賢の跡を継いでいた六角義治(ろっかく・よしはる)は、宿老の後藤賢豊(ごとう・かたとよ)と仲違いし暗殺した。
これにより六角家を離れ浅井家に仕官する者が相次ぎ、戦にも勝利した浅井家は、南近江へと勢力を拡大した。
この頃、織田信長は美濃の攻略にかかっており、浅井家との同盟を目論んでいた。
信長は浅井家の盟友・朝倉家と険悪だったため、家臣の意見は分かれたが、長政は信長の妹・お市を妻として迎え入れた。
信長は大いに喜び、結婚資金を全て用立ててやったという。(通常は嫁入り先の浅井家が負担する)
お市は茶々(ちゃちゃ 後の淀君)ら三姉妹を産むなど夫婦仲は良好だった。
1568年、京を追われ朝倉家に身を寄せていた足利義昭(あしかが・よしあき)は、一向に上洛の意志を見せない朝倉義景(あさくら・よしかげ)に業を煮やし、美濃を制覇した信長によしみを通じた。
信長はすぐさま上洛を決意し、わずか2ヶ月後に出兵すると、浅井軍とともに六角軍を破り、京に入った。
足利義昭は15代将軍へと返り咲き、信長政権が誕生した。
だが1570年、信長は浅井家と交わした「朝倉家との不戦条約」を破り、朝倉家の越前に攻め入った。
それに激怒した浅井家の家臣団は、隠居していた浅井久政を担ぎだすと、金ヶ崎で信長軍の背後を襲った。
信長は窮地に陥ったが、殿を務めた羽柴秀吉の奮戦と、松永久秀(まつなが・ひさひで)が退路を確保したおかげでかろうじて逃げ延びることができた。
この時、お市が信長に両端を縛った小豆袋を贈り、浅井家の裏切りで逃げ場がなくなることを暗に報せたとされるが、真偽は定かではない。しかしこの急襲に長政が関与していないことは確かなようである。
同年6月、浅井・朝倉連合軍は、信長・徳川家康の連合軍と姉川で戦った。
一時は磯野員昌(いその・かずまさ)の猛攻で、織田軍の備え15段のうち13段まで切り崩し、徳川軍の本陣にも迫ったが、反撃にあい浅井・朝倉連合軍は敗走した。
しかし信長と対立した足利義昭による信長包囲網に浅井、朝倉、本願寺、武田、松永久秀、比叡山が加わると、形勢は逆転した。
9月には坂本で織田家の宿老・森可成(もり・よしなり)と信長の弟・織田信治(おだ・のぶはる)を討ち取るも、信長は朝廷を動かして停戦させ、翌年には比叡山を焼き討ちした。
1572年、信長は兵を進め浅井・朝倉連合軍と対峙した。それに対し足利義昭は武田信玄を動かし、徳川領の遠江に侵攻させた。
信長はわずかな援兵しか送れず、信玄は徳川・織田連合軍を三方ヶ原で撃破し、さらに上洛の機会をうかがった。
しかし12月になると積雪を理由に朝倉軍は撤退し、信長も信玄の上洛に備え美濃に引き上げた。激怒した信玄は朝倉軍の再出撃を促したが、朝倉義景は動こうとしなかった。
翌年2月、武田軍は単独で進撃を再開した。だがその矢先、信玄が急死してしまい全軍撤退した。
包囲網の要であった武田家が戦線離脱したことにより、信長は戦力の大半を浅井・朝倉家に向けることができるようになった。
1573年、信長は3万の兵を率い北近江を攻めた。朝倉家の援軍は間に合わず、撤退したところに信長は追撃をかけ、越前を一息に占領し朝倉家を滅ぼした。
さらに反転した信長は浅井家に猛攻を加え、本拠地の小谷城を包囲した。
信長は長政の才を惜しみ、羽柴秀吉らを派遣して降伏を促したが、長政はお市やその子供たちの解放には応じたものの、降伏は拒絶した。
9月、長政は父の浅井久政とともに自害した。享年29歳だった。
信長は長政、久政、朝倉義景の首を並べて酒の肴にしたとも、ドクロに酒を入れて飲んだとも言われるが、実際には信長は酒をたしなまなかったため、創作と思われる。
1632年、長政は徳川家光(とくがわ・いえみつ)の祖父に当たる(家光の母・江姫は長政の三女である)ことから従二位中納言を追贈された。
浅井家を滅ぼした信長や秀吉の血筋が衰亡していった一方で、戦国初期に姿を消した浅井の血が、戦国の覇者・徳川家に連なっているのは、歴史の妙である。