三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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朝倉義景(あさくら・よしかげ)
越前の人(1533~1573)
越前の大名。名家の嫡子に生まれたが幼少期の記録はほとんどなく、父の死により16歳で家督を継いだ。
一族の名将・朝倉宗滴(そうてき)が年若い義景に代わり、1555年に没するまで軍事・政治を切り回したという。
妻に同じく名家の細川晴元(ほそかわ・はるもと)の娘を迎え、足利将軍家とも緊密に交流し(義景の義は将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)からの一字拝領)、若狭守護の武田義統(たけだ・よしむね)を補佐して援軍を送るなど、しばらくは順風満帆に過ごした。
1565年、足利義輝が暗殺されると朝倉家も時代の流れに呑み込まれていく。義輝の弟・足利義昭(よしあき)は朝倉家に庇護を求め、同時に実権回復のため上洛を促したものの、義景は重い腰を上げようとしなかった。
1568年、業を煮やした義昭は、美濃を制圧し「天下布武」を掲げた織田信長のもとへ去ってしまった。
同年、義景は内紛の続く若狭に介入し、当主の武田元明(もとあき)を庇護する名目で拉致し、若狭を支配下に置いた。この頃から義景は政務を一族の者に任せ、自身は遊興にふけり出したという。
同年9月、織田信長は足利義昭を旗印に早くも上洛戦を開始した。
義景も再三、協力を要請されたが黙殺したため、1570年、朝倉家は反逆者の汚名を着せられ織田・徳川連合軍の攻撃を受けた。
若狭武田家の旧臣が織田家に寝返り劣勢に立たされたが、朝倉家と古くから親交を結ぶ浅井家が織田家を裏切り(当主・浅井長政の妻は信長の妹・お市)背後を急襲したため、織田軍は撤退した。
朝倉軍は追撃をかけたが、殿軍の木下秀吉や明智光秀らに阻まれ、目立った戦果は挙げられなかった。
同年6月、織田・徳川連合軍は朝倉・浅井連合軍と姉川で激突した。
開戦当初は優勢だったが、朝倉軍は義景が出陣せず朝倉景健(かげたけ)が総大将を務めるなど士気で劣り、徳川軍の榊原康政(さかきばら・やすまさ)に側面を突かれると崩れたち、敗走し多くの支城を奪われた。
同年8月、信長が摂津に出陣した隙をつき、義景は自ら指揮を取り近江坂本へ侵攻し、信長の弟・織田信治(おだ・のぶはる)と重臣の森可成(もり・よしなり)を討ち取った。
信長がすぐさま引き返すと義景は比叡山に立てこもり、信長が朝廷や足利義昭を動かし和睦が結ばれるまで戦おうとしなかった。
翌年、信長は義景に味方した比叡山を焼き討ちし後顧の憂いを断つと、浅井家の居城・小谷城へ迫った。
浅井長政は「長島一向一揆が織田軍の退路を断った」と偽って朝倉家の救援を請い、それに騙された義景は出撃したものの、重臣の前波吉継(まえなみ・よしつぐ)や富田長繁(とみた・ながしげ)が相次いで織田家に寝返ってしまった。
だが武田信玄が西上を開始し、三方ヶ原で徳川軍を打ち破ると、戦況は逆転し織田軍は撤退した。
ところが義景はろくに追撃もせず、兵の疲労と積雪を理由に越前へと帰ってしまう。武田信玄は激しく非難をしたが義景は意に介さなかった。
1573年、信玄が急死し武田軍が撤退すると、信長は朝倉家の征伐に乗り出した。
数々の失態を重ねてきた義景は家臣の信望を失っており、朝倉景鏡(かげあきら)や魚住景固(うおずみ・かげかた)らに出陣を拒否され、総兵力を集められなかった。
信長は暴風雨に乗じて自ら砦を攻め落とし、義景が撤退するとやはり自ら追撃軍を率いさんざんに打ち破った。
義景は命からがら居城の一乗谷まで逃げ込んだものの、斎藤龍興(さいとう・たつおき)ら重臣は討ち取られ、一乗谷の守備兵すらすでに逃げ去っていた。
義景は切腹を決意したものの朝倉景鏡に止められ、付近の寺を転々とした。信長は柴田勝家に命じて神社仏閣や居館を手当たり次第に焼き払ったため、京の都にも劣らぬ栄華を誇っていた朝倉家の威容は灰燼に帰した。
そして8月20日、朝倉景鏡にも裏切られ、潜伏中の寺を包囲されると自害を遂げた。