三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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浅井久政(あざい・ひさまさ)
近江の人(1526~1573)
北近江の大名。浅井長政の父。
1542年、17歳で家督を継いだが勇名を馳せた父とは対照的に武勇に優れず、また父も生前は久政よりも姉婿の浅井明政(あきまさ)に家督を譲ろうと考えていたとされ、実際に明政は家督相続に反対し一時反乱を起こした。(すぐに和解し姓を変えたとも、そもそも反乱しなかったともいう)
そのため求心力を失った浅井家は急速に衰え、やがて六角家の支配下に入った。
久政は息子(後の長政)の妻に六角家の家臣の娘を迎えさせ、さらに六角家当主・六角義賢(ろっかく・よしかた)から一字もらい受け浅井賢政(かたまさ)と名乗らせるなど、徹底して六角家に従属した。
しかし久政の弱腰に浅井家の家臣は大いに不満を抱き1559年、久政を幽閉し強制的に隠居させると賢政に家督を継がせた。
賢政は妻を離縁し、長政と改名すると六角家に対し独立を宣言、この日に備え水面下で準備を進めていた浅井軍は調略工作等で戦を有利に進め、長政の巧みな指揮もあり2倍の六角軍を打ち破った。
六角家はその後、家中の混乱から衰退し、一方で長政はその機に乗じ版図を拡大し、また織田信長の妹・お市を妻に迎えるなど勢力を強めていった。
だが1570年、父の代から同盟関係にある朝倉家を信長が攻めると、織田・朝倉どちらにつくか家中は二分された。
久政や古くからの家臣は朝倉家を重視したため、織田家に肩入れしていた長政も結局は折れ、浅井軍は金ヶ崎で織田軍を急襲した。
このように久政は隠居後も強い発言権を持っていたとも、朝倉家を救うために隠居の久政が担ぎ上げられ、長政抜きで軍議が決したとも、そもそも織田家との同盟自体が無かったともされ、長政の家督相続や金ヶ崎の戦い周辺の動静には疑問点が多い。
ともあれ信長は羽柴秀吉や明智光秀らの奮闘により窮地を脱し、徳川家康との連合軍で反撃に乗り出すと、姉川の戦いで浅井・朝倉軍に大勝。
そして1573年、信長はまずは朝倉家を滅ぼすと、返す刀で浅井家の居城・小谷城へ迫った。
孤立した久政は家臣に切腹するまでの時間を稼ぐよう命じると、一族やお抱えの舞楽師とともに自害を遂げた。
久政は「浅井三代記」や各種の創作で家を滅ぼした元凶として暗愚に描かれがちだが、近年になって六角家への従属を選択した外交手腕や、内政で挙げた業績を再評価されているという。