三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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磯野員昌(いその・かずまさ)
近江の人?(1523~1590)
浅井家に仕えた猛将。
武勇に優れた員昌は常に先鋒を任された。1570年、姉川の戦いでは織田軍の陣を実に11陣まで破り、織田信長の本陣近くまで迫った。
だが稲葉一鉄(いなば・いってつ)ら美濃三人衆の救援が間に合い、徳川家康の奇襲により朝倉軍が敗走すると、浅井軍も総崩れとなり員昌もやむなく撤退した。
しかし浅井家の史料にしかこの「十一段崩し」は記されず信憑性には欠ける。
1571年、守る佐和山城を孤立させられた員昌は織田家に降伏した。
佐和山城は接収されたものの代わりに近江高島郡を与えられた。羽柴秀吉、柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀(にわ・ながひで)ら並みいる重臣も同様に琵琶湖周辺に所領を与えられており、また信長の甥・津田信澄(つだ・のぶすみ)を養嗣子にされるなど員昌の待遇は破格の扱いで、いかに員昌の武勇が大きく買われていたかが察せられ、かの「十一段崩し」も多少の誇張はあるにしろ事実に近いことはあったと思われる。
その後は織田家で数々の戦に従軍したが1578年、信長の勘気を蒙り出奔した。
一説には津田信澄への家督相続を拒んだためというが、その先年にすでに信澄が家督を継いでいたと見られる記録も残っており、確かな理由はわからない。
出奔後の足取りは不明だが1582年、本能寺の変で信長が討たれ、信澄もまた明智光秀の婿だったことから暗殺されると、やがて員昌は高島郡に戻った。
すでに老齢のためか武士をやめ帰農し1590年に68歳で没したと伝わる。
子の磯野行信(ゆきのぶ)は石田三成に、三成が没すると藤堂高虎(とうどう・たかとら)に仕えた。高虎はかつての員昌の家臣である。
孫の磯野行尚(ゆきなお)は大坂の陣で敵将・増田盛次(ました・もりつぐ)を討ち取り、また娘は高名な茶人かつ建築家の小堀遠州(こぼり・えんしゅう)を産んでいる。
1. 無題