三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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祖父・浅井亮政(あざい・すけまさ)は、北近江の守護だった京極家を追い落とし下克上を果たしたが、跡を継いだ浅井久政は南近江の守護・六角家に敗れ、臣従を強いられていた。
幼い長政も六角家に人質として差し出されており、当主・六角義賢(ろっかく・よしかた)の名を受け、浅井賢政(あざい・かたまさ)と名乗らされ、六角家の家臣の娘を妻としていた。
だが不甲斐ない浅井久政へ反発する家臣たちは、久政を強制的に隠居させると、15歳の浅井賢政に家督を継がせた。
1560年、賢政は六角家の妻と名を返上し、浅井長政の名に戻ると挙兵した。
家臣は兼ねてからこの時のために準備をしており、また長政も見事な指揮を振るったため大勝を収め、家臣は一気に長政に心酔したという。
1563年、敗戦を機に隠居した六角義賢の跡を継いでいた六角義治(ろっかく・よしはる)は、宿老の後藤賢豊(ごとう・かたとよ)と仲違いし暗殺した。
これにより六角家を離れ浅井家に仕官する者が相次ぎ、戦にも勝利した浅井家は、南近江へと勢力を拡大した。
この頃、織田信長は美濃の攻略にかかっており、浅井家との同盟を目論んでいた。
信長は浅井家の盟友・朝倉家と険悪だったため、家臣の意見は分かれたが、長政は信長の妹・お市を妻として迎え入れた。
信長は大いに喜び、結婚資金を全て用立ててやったという。(通常は嫁入り先の浅井家が負担する)
お市は茶々(ちゃちゃ 後の淀君)ら三姉妹を産むなど夫婦仲は良好だった。
1568年、京を追われ朝倉家に身を寄せていた足利義昭(あしかが・よしあき)は、一向に上洛の意志を見せない朝倉義景(あさくら・よしかげ)に業を煮やし、美濃を制覇した信長によしみを通じた。
信長はすぐさま上洛を決意し、わずか2ヶ月後に出兵すると、浅井軍とともに六角軍を破り、京に入った。
足利義昭は15代将軍へと返り咲き、信長政権が誕生した。
だが1570年、信長は浅井家と交わした「朝倉家との不戦条約」を破り、朝倉家の越前に攻め入った。
それに激怒した浅井家の家臣団は、隠居していた浅井久政を担ぎだすと、金ヶ崎で信長軍の背後を襲った。
信長は窮地に陥ったが、殿を務めた羽柴秀吉の奮戦と、松永久秀(まつなが・ひさひで)が退路を確保したおかげでかろうじて逃げ延びることができた。
この時、お市が信長に両端を縛った小豆袋を贈り、浅井家の裏切りで逃げ場がなくなることを暗に報せたとされるが、真偽は定かではない。しかしこの急襲に長政が関与していないことは確かなようである。
同年6月、浅井・朝倉連合軍は、信長・徳川家康の連合軍と姉川で戦った。
一時は磯野員昌(いその・かずまさ)の猛攻で、織田軍の備え15段のうち13段まで切り崩し、徳川軍の本陣にも迫ったが、反撃にあい浅井・朝倉連合軍は敗走した。
しかし信長と対立した足利義昭による信長包囲網に浅井、朝倉、本願寺、武田、松永久秀、比叡山が加わると、形勢は逆転した。
9月には坂本で織田家の宿老・森可成(もり・よしなり)と信長の弟・織田信治(おだ・のぶはる)を討ち取るも、信長は朝廷を動かして停戦させ、翌年には比叡山を焼き討ちした。
1572年、信長は兵を進め浅井・朝倉連合軍と対峙した。それに対し足利義昭は武田信玄を動かし、徳川領の遠江に侵攻させた。
信長はわずかな援兵しか送れず、信玄は徳川・織田連合軍を三方ヶ原で撃破し、さらに上洛の機会をうかがった。
しかし12月になると積雪を理由に朝倉軍は撤退し、信長も信玄の上洛に備え美濃に引き上げた。激怒した信玄は朝倉軍の再出撃を促したが、朝倉義景は動こうとしなかった。
翌年2月、武田軍は単独で進撃を再開した。だがその矢先、信玄が急死してしまい全軍撤退した。
包囲網の要であった武田家が戦線離脱したことにより、信長は戦力の大半を浅井・朝倉家に向けることができるようになった。
1573年、信長は3万の兵を率い北近江を攻めた。朝倉家の援軍は間に合わず、撤退したところに信長は追撃をかけ、越前を一息に占領し朝倉家を滅ぼした。
さらに反転した信長は浅井家に猛攻を加え、本拠地の小谷城を包囲した。
信長は長政の才を惜しみ、羽柴秀吉らを派遣して降伏を促したが、長政はお市やその子供たちの解放には応じたものの、降伏は拒絶した。
9月、長政は父の浅井久政とともに自害した。享年29歳だった。
信長は長政、久政、朝倉義景の首を並べて酒の肴にしたとも、ドクロに酒を入れて飲んだとも言われるが、実際には信長は酒をたしなまなかったため、創作と思われる。
1632年、長政は徳川家光(とくがわ・いえみつ)の祖父に当たる(家光の母・江姫は長政の三女である)ことから従二位中納言を追贈された。
浅井家を滅ぼした信長や秀吉の血筋が衰亡していった一方で、戦国初期に姿を消した浅井の血が、戦国の覇者・徳川家に連なっているのは、歴史の妙である。