三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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※アイコンは祝融
京極マリア(きょうごく・マリア)
近江の人(1542?~1618)
北近江の大名・浅井久政(あざい・ひさまさ)の次女。浅井長政の姉。
マリアは洗礼名で本名は不明。法名から養福院(ようふくいん)とも呼ばれる。
浅井家はもともと近江守護の京極高清(きょうごく・たかきよ)に仕えていたが、高清が次男の京極高吉(たかよし)に家督を継がせようとし、家中が混乱した隙をつき、長男の京極高延(たかのぶ)に加担し高清・高吉父子を追放し、実質的に京極家を牛耳った。
やがて高延とも対立した浅井家は代わって高清・高吉を当主として迎え入れた。その際に懐柔策としてマリアが高吉に嫁いだと思われる。
高吉は1504年生まれで年齢差は40近かったが1563年に長男の京極高次(たかつぐ)、1572年に次男の京極高知(たかとも)をもうけるなど5人の子に恵まれた。
高吉は傀儡の立場に嫌気が差して1560年頃に出奔し、六角家や足利家のもとで浅井家と戦ったが、マリアは離縁されず、またマリアも父や弟を敵に回しながら夫のそばを離れなかった。
やがて六角家が織田信長に敗れ、足利家も信長の庇護下に入ると、高吉は長男の高次を信長の人質に出し隠居した。
1581年、マリアとともに洗礼を受けたがその直後に急死し、仏罰とささやかれたという。
1587年、豊臣秀吉はバテレン追放令を出したが、娘の京極竜子(たつこ)が秀吉の側室になっていたため目こぼしされ、竜子を除く4人の子にも洗礼を受けさせ、布教に励んだ。
1600年、関ヶ原の戦いで東軍に属し、丹後に12万石を与えられた次男の高知を頼った。
長男の高次もかつては妹の竜子や、正室に秀吉の側室・淀殿(よどどの)の妹・初(はつ)を迎えていたため彼女らの七光を受けた「蛍大名」と揶揄されていたが、関ヶ原の戦いで10倍の敵を足止めした戦功から隣国の若狭に9万石を与えられており、マリアは丹後と若狭を行き来しさらに信仰を深めたという。
知る人ぞ知る人物だったが「戦国BASARA 4」でプレイアブルキャラに抜擢され一気に知名度が上がるも、金髪でドSの女王様キャラに設定されたのは喜ぶべきことか否か。
※アイコンは于詮
日根野弘就(ひねの・ひろなり)
美濃の人(1518?~1602)
はじめ美濃斎藤家に仕え、斎藤義龍(さいとう・よしたつ)に重用された。
義龍が父の斎藤道三(どうさん)と争った際、父の寵愛する二人の弟を斬り殺したのが弘就である。
義龍が没し息子の斎藤龍興(たつおき)の代になっても重用され、1564年に竹中半兵衛が稲葉山城を占拠すると、城を追われた龍興に付き従った。
1567年、織田信長によって美濃が制圧されると、日根野一族は浪人となり、今川氏真(いまがわ・うじざね)を頼ったものの、2年後には今川家も徳川家康によって滅ぼされ、またしても浪人となった。
その後は浅井長政に仕えたが、滅亡の気配を察したのか滅亡前年の1572年に長島に移り、一向一揆に参加した。
1574年に一向一揆も信長によって鎮圧されると、ついに20年にわたる抵抗を諦め信長に降った。
勇猛な弘就は馬廻として活躍したが1582年、本能寺の変が起こると、京にいたものの度重なる主家滅亡の経験からか事態を静観し、かつて美濃斎藤家に仕えた旧友らと連絡を取り合った。
信長死後は豊臣秀吉に仕え多くの戦で手柄を立てたが1600年、関ヶ原の戦いに際しまたも事態を静観したため減封処分を受けた。
1602年に没すると、遺領は没収され、息子も理由なく転封処分を受けた。
弘就は武芸に優れたほか、鎧や兜を自ら製作し、特に兜は曲線的な形状から銃撃を反らしやすいと評判を呼び「日根野頭形」として流行した。
徳川家康、真田幸村、井伊直政、立花宗茂、千利休らも日根野頭形を改良して愛用したという。
また確たる史料はないが一説に西軍との内通を疑われ自害を命じられたとあり、その際の逸話が非常に面白いので紹介する。
弘就は作法通りに切腹をしたが、一向に息絶える気配がなかった。
はらわたを引きずり出し、近くの木の枝に巻きつけると、ふと処分を忘れた書状があることを思い出し、部屋に戻って焼き捨てるうちに日が暮れたが、死神は訪れず「まだまだ死ねそうもない」と家人にぼやいた。
翌日になってようやく苦しみだし、それでも死に切れず、最期は自ら首を刎ねたという。
※アイコンは雷薄
朽木元綱(くつき・もとつな)
近江の人(1549~1632)
父の戦死により2歳で家督を継いだ。
浅井・六角・朝倉・三好家に領地を囲まれ、その間を立ち回りなんとか家名を保った。
1553年には三好家に京を追われた将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)をかくまった記録もある。
1570年、朝倉家を攻めた織田信長の背後を、裏切った浅井長政が襲った。
信長は窮地に陥り京へ向かい、その途上で元綱の朽木谷へ差し掛かった。朽木家は浅井家に従属していたが、松永久秀の説得により信長に鞍替えし、以降は織田家、豊臣家に仕えた。
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍についたものの、小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)の寝返りを目にするや脇坂安治(わきさか・やすはる)ら付近の3部隊とともに連鎖的に寝返り、大谷吉継に襲いかかった。
だが戦前に寝返りの約束をしていた脇坂安治を除く3人は処罰され、元綱は改易こそ免れたものの半分以下に減封された。
元綱は1616年に出家し、1632年に84歳で没した。
死後、朽木家は3人の息子によって分割され、宗家は6千石となったが、末子の朽木稙綱(たねつな)は徳川家光に重用され常陸土浦3万石を与えられたため、宗家の実に5倍の所領を得る逆転現象が生じた。
※アイコンは諸葛誕
遠藤慶隆(えんどう・よしたか)
美濃の人(1550~1632)
遠藤家は美濃の国人衆で、斎藤家に仕えていた。
父は主家を滅ぼして八幡城を奪った剛勇の人だったが、慶隆が13歳の時に没してしまい、やむなく家督を継いだ。
家臣は幼い当主を危惧して慶隆の母を斎藤家重臣の長井道利(ながい・みちとし)に再嫁させ後見人を頼んだ。
慶隆の不幸に不幸が重なる人生はここに始まる。
1564年、冷遇された竹中半兵衛が反乱しわずか16人で斎藤家の居城・稲葉山城を奪った。
たまたま八幡城を出ていた慶隆が戦闘を避け避難すると、その隙に従兄の遠藤胤俊(たねとし)が八幡城を奪い、慶隆の暗殺を狙った。
長井道利の援軍が駆けつけると遠藤胤俊は和睦を申し入れ八幡城を返還した。
1567年、斎藤家が織田信長によって滅ぼされ長井道利も戦死した。
その機に乗じ反乱が起こったが、二度目となる慶隆はそれを察知し速やかに鎮圧した。
信長に降り本領を安堵され、東美濃を統率する森可成(もり・よしなり)の下に付けられるが、1570年9月に可成が戦死。
次いで坂井政尚(さかい・まさひさ)の下に入るが彼もまた11月に戦死した。共闘していた従兄の遠藤胤俊も戦死し、手勢のほとんどを失った慶隆は、わずか1人の供を連れ八幡城に逃げ込んだという。
1573年、武田家との内通を疑われ織田軍に城を囲まれた。慶隆はすぐに降伏したが、(信長にしては)奇跡的に許され処罰されなかった。
以降は長篠の戦い、越前一向一揆との戦い、天目山の戦いに従軍し戦功を立てたが1582年、信長が本能寺の変で討たれてしまう。
美濃の国人衆はほとんどが羽柴秀吉に付いたが、慶隆は信長の三男・織田信孝(のぶたか)に仕えた。
秀吉と信孝・柴田勝家が交戦状態になると遠藤家は美濃で孤立し、かつて与力に付けられた森可成の子・森長可(ながよし)らに攻められた。
慶隆は立花山に籠ったが補給線を断たれてしまい、兵糧が尽き毛皮をあぶって食べるほどの窮地に立たされ、餓死するくらいならと玉砕を選ぼうとした寸前、信孝・柴田勝家が敗北したという知らせが入り、秀吉に降伏した。
1584年、小牧・長久手の戦いでは森長可の麾下で戦うが、徳川家康の巧みな用兵により長可は戦死。
慶隆は命からがら逃げ出したものの、彼を逃がすために多くの重臣が討ち死にした。
紀州征伐、飛騨征伐、九州征伐では活躍したものの1588年、今さら立花山の戦いで秀吉に反抗したことを咎められ、減封された。
だが秀吉は代わりの土地を与えるのを忘れてしまい、慶隆はやむなく町人の家を間借りして急場をしのぎ、太閤検地のためたまたま付近を訪れた代官に頼み込み、ようやく秀吉から代地を与えられたという。
その後は小田原征伐、東北征伐、文禄の役に従軍したが「両遠藤」として長らく共闘してきた遠藤胤基(たねもと 胤俊の弟)が病死。
その子の遠藤胤直(たねなお)が跡を継いだ。
1600年、関ヶ原の戦いでは旧主・信長の孫である織田秀信(ひでのぶ)に西軍に誘われた。
慶隆は東軍に、胤直は西軍に付くこととなり、慶隆は徳川家康に八幡城の奪還を願い出て、娘婿の金森可重(かなもり・よししげ)とともにかつての居城を攻めた。
いったんは落城させたものの外に出ていた城主の稲葉貞通(いなば・さだみち)が帰還すると奪い返された。
慶隆は稲葉貞通と和睦すると胤直も降伏させ、関ヶ原の本戦も東軍の勝利に終わると、稲葉貞通は豊後臼杵5万石に転封になり、念願かなって慶隆は八幡城主に返り咲いた。
美濃郡上藩が作られ初代藩主となるとようやくの安寧を得たかに見えたが1615年、嫡子が病死。
しかしそれが最後の不幸で、参勤交代に際し鉄砲5挺の携行を特例で認められるなど徳川幕府からの信頼厚く、1632年に83歳で没した。
また郡上八幡で有名な「郡上おどり」は慶隆が士農工商の融和を図るため、慶隆が奨励したのが始まりとも言われる。
遠藤家は家督争いにより4代目、5代目が暗殺され無嗣改易となったが、藩祖・慶隆の名を惜しんだ徳川綱吉の命で義妹(側室の妹)の子をいったん遠藤家の遠縁の養子に出した上で跡を継がせ、血筋は途絶えたものの遠藤家の名は残った。
父の死を皮切りに反乱2度、居城の陥落3度、主家の滅亡3度、主将の戦死3度、血縁者はたいていが若くして没し、言いがかりで改易されて代替地を忘れられるという前代未聞の冷遇と、不幸に不幸を重ねながらもしぶとく藩祖に上り詰めた、慶隆の不屈の闘志はもっと知られるべきである。
※アイコンは焦和
一色義道(いっしき・よしみち)
丹後の人(??~1579)
一色家はかつて室町幕府の「四職」に数えられる名家だったが、戦国時代には没落し丹後守護の座もすでに若狭武田家に奪われていた。
1558年、父から家督を譲られた義道は弟の一色昭辰(あきたつ)を足利将軍家に仕えさせ、また台頭した織田信長にいち早くよしみを通じ復権を図った。
だが1571年、信長が比叡山を焼き討ちすると山を追われた僧侶をかくまったため関係が悪化し、1578年には明智光秀と細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)軍の侵攻を招いた。
翌1579年、悪政を敷いていた義道の人望は薄く、国人衆が次々と寝返り居城も陥落した。
義道は但馬山名家のもとへ落ち延びようとしたが、沼田家に内応され進退窮まり、子の一色義定(よしさだ)に家督を譲ると自害した。
なお細川家の記録には病死と記されている。後に義定が細川藤孝の娘をめとるため、人心を失った末の最期を改めたのだろうか。
跡を継いだ義定は奮戦し、手を焼いた藤孝は娘の伊也(いや)を嫁がせ和睦した。
1582年、明智光秀が本能寺の変を起こすと、藤孝の子・細川忠興(ただおき)に光秀の娘ガラシャが嫁いでいたが細川家は反光秀の構えを見せた。
一方で義定は御家再興の好機と光秀方についた。しかし光秀はあっさりと羽柴秀吉に討たれ、義定もまた秀吉の意向を受けた細川家に刺客を差し向けられ暗殺された。
その後、細川家に戻った伊也は怒りのあまり兄の忠興に短刀で斬りつけ、顔に深い傷を残したという。
北畠具教(きたばたけ・とものり)
伊勢の人(1528~1576)
伊勢北畠家当主の長男として生まれる。
以降、10歳で従五位下侍従に任じられ、剣豪・塚原卜伝(つかはら・ぼくでん)や上泉信綱(こういずみ・のぶつな)に習い奥義を授かるなど名家の当主らしい青年期を歩み、1553年に家督を譲られた。
対立していた長野工藤家、九鬼家らを打ち破り北畠家の最盛期を築き上げた。
しかし1568年、織田信長が伊勢に侵攻し神戸家、長野工藤家らを降した。
具教は抗戦したが兵力差で劣り、また弟の木造具政(こづくり・ともまさ)が寝返るなどしたためやむなく降伏した。
信長は降伏の条件として次男・織田信雄(おだ・のぶかつ)を具教の長男・北畠具房(きたばたけ・ともふさ)の養嗣子として迎えさせた。
そして1576年、具教は次男・長野具藤(ながの・ともふじ)らとともに信長によって暗殺された。
北畠具房も幽閉され、北畠家は事実上、織田家に乗っ取られ滅亡したことになる。
剣豪として知られる具教は最期の時、19人の刺客を斬り100人余りに手傷を負わせたとも、その剣技を恐れた信長の命であらかじめ太刀の刃を潰されており、無抵抗のまま殺されたとも伝わる。
また領地を接する柳生宗厳(やぎゅう・むねしげ)とも親しく、彼や槍の名手・宝蔵院胤栄(ほうぞういん・いんえい)を上泉信綱に紹介したのも具教だと言われ、剣豪たちの交流に一役買ったともいう。
浅井井頼(あざい・いより)
近江の人(1570?~1615?)
浅井長政の三男、または次男、もしくは養子。
1573年、浅井家が滅ぼされたが残党狩りを逃れ、羽柴秀吉に仕えた。
1583年、賤ヶ岳の戦いに参陣し、その後は豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)、豊臣秀保(ひでやす)のもとに付けられ、秀保が没するとその領地を継いだ増田長盛(ました・ながもり)に仕えた。
だが1600年、関ヶ原の戦いで増田長盛は東西両軍に通じたものの結局は改易されてしまい、井頼は生駒家に仕えた。
やがてそこも離れると大坂の陣で豊臣家に仕え(淀君(よどぎみ)は姉、豊臣秀頼(ひでより)は甥にあたる)1615年、夏の陣で戦死した。
一方で大坂城を脱出し姉が嫁いでいた京極家に仕えたとする記録もあり、その最期は判然としない。
異説としてこんな話もある。
豊臣秀次に仕えていた頃、井頼は秀次が寵愛していた小姓を(性的な意味で)襲い、激怒した秀次は成敗を命じた。
ところが武勇に優れた彼を恐れて手出しする者はなく、井頼は悠々と出奔した。
遠く朝鮮まで渡り、毎朝海に向かって刀を構え「日本大乱、国家滅亡」を願い素振りするのを日課とし、やがて願いが通じたのか豊臣家が滅亡すると日本に戻り、京極家に仕えたという。
また真田十勇士の一人、根津甚八(ねづ・じんぱち)のモデルは彼だとされる。
浅井亮政(あざい・すけまさ)
近江の人(1491~1542)
浅井家の当主。浅井長政の祖父。
庶家に生まれたが浅井宗家に男子がなかったため、娘婿となり家督を継いだ。
当時の浅井家は北近江の守護・京極家に仕えていた。当主の京極高清(きょうごく・たかきよ)は次男の京極高吉(たかよし)に跡を継がせようと考えたため、長男・京極高延(たかのぶ)を推す重臣らと対立し、亮政は高延方についた。
そして1523年、京極高清・高吉を追放し、中心的役割を担った亮政は京極家の実権を握った。
だが南近江では守護の六角家が台頭しており、また六角家は京極家の本家筋に当たるため、軍事的・血統的にも浅井・京極家は不利な状況にあった。
一方で京極高延も立場に不満を抱き、父と和解すると反浅井派の国人衆を集め、1541年にはついに反旗を翻した。
そのさなかの1542年、亮政は家中の混乱を収拾できないまま死去した。
京極家のお家騒動に乗じた亮政だが、自身も長男の浅井久政(ひさまさ)に不満を抱き、娘婿の田屋明政(たや・あきまさ)に目を掛けたため、死後に久政と田屋明政の対立を招いた。
田屋明政は京極高延と結んで久政と激しく争い、疲弊した浅井家は六角家に臣従することで家名を存続させた。
なお京極高清もかつて弟と家督争いをしており、久政もまた息子の浅井長政と主導権争いをすることになり、まさに歴史は繰り返している。
その後、浅井家は長政の代に織田信長に滅ぼされたため嫡流は途絶えたものの、亮政の孫(久政の娘)にあたるマリアが京極高吉に嫁いだため、皮肉にも京極家として血を残した。
また長政の娘・江(ごう)が徳川秀忠に嫁ぎ、徳川家光を産み徳川家の嫡流に連なってもいる。
六角承禎(ろっかく・じょうてい)
近江の人(1521~1598)
六角家の当主。承禎は隠居後に名乗った号で本名は六角義賢(よしかた)。
父・六角定頼(さだより)の統治を早くから助け、父が没すると32歳で家督を継いだ。
弓馬の技術に優れ、特に弓は吉田重政(よしだ・しげまさ)に習い、紆余曲折あったが日置流の印可をただ一人受けるほどの腕前で、馬術では自ら佐々木流を興すほどだった。
当時の六角家は近江守護を務め、伊賀4郡のうち3郡をも統治し、足利将軍家や細川家を援助する名家で、北近江の浅井家も従属下に置いていた。
だが1560年、浅井長政は六角家から迎えていた妻を離縁すると挙兵し、隠居していた承禎が自ら討伐に赴いたものの大敗を喫した。
承禎の子で家督を継いだ六角義治(よしはる)は父の反対を押し切って斎藤家と同盟し(承禎の姉妹が美濃守護の土岐家に嫁いでいたが、斎藤道三(さいとう・どうさん)の下克上により土岐家は地位を逐われた)浅井家に対抗したものの戦況は芳しくなかった。
1561年、承禎の姉婿の細川晴元(ほそかわ・はるもと)が、家臣の三好長慶(みよし・ちょうけい)によって幽閉されると、承禎は三好家と敵対する畠山高政(はたけやま・たかまさ)とともに京へ兵を進め、三好家を一時、京から撤退させた。
さらに畠山軍は三好長慶の弟の三好実休(じっきゅう)を討ち取り、六角軍は山城を占領したものの、承禎はなぜかそこで動きを止め、三好軍の逆襲に遭った畠山軍を見殺しにすると、三好家と和睦し山城から引き上げてしまった。
1563年、六角義治は重臣で人望を集めていた後藤賢豊(ごとう・かたとよ)を暗殺し、家中の反発を受けた。
善治は承禎ともども居城を追われてしまうまでに事態は悪化し、重臣の蒲生定秀(がもう・さだひで)の仲介でどうにか復帰できたものの、六角家の凋落は誰の目にも明らかであり、困窮した承禎が蒲生定秀に借金をした証文も残されている。
1568年、織田信長が足利義昭(あしかが・よしあき)を擁し上洛を開始すると、六角家は三好家とともに抵抗したが、たちまち大敗し居城の観音寺城から撤退した。
かつての祖父の戦略にならい甲賀に布陣した承禎は浅井・朝倉家と連携して反撃に乗り出し、一時は信長との和睦を取り付けるまでに至った。
承禎のゲリラ戦は信長を大いに悩ませ、足利義昭や松永久秀(まつなが・ひさひで)も反逆すると一転して織田軍は窮地に立たされた。
しかし1573年、武田信玄の死をきっかけに包囲網は破れ、朝倉・浅井家が滅亡すると形勢は逆転し、足利義昭は逃亡、松永久秀は降伏、三好三人衆は相次いで戦死を遂げた。
その後の承禎は甲賀・伊賀の国人衆を率いて抵抗を続けたとも、石山本願寺に身を寄せたとも、単に隠棲したとも言われるが判然としないまま歴史の表舞台から消えていった。
だが豊臣秀吉の天下統一後、承禎は秀吉の御伽衆としてひょっこり復帰した。
1598年に没するまで悠々自適に暮らし、子の善治もまた豊臣秀頼(ひでより)の弓の師範を務めたという。
斎藤龍興(さいとう・たつおき)
美濃の人(1548~1573)
斎藤家の当主。
斎藤義龍(よしたつ)の嫡子で、母は浅井久政(あざい・ひさまさ)の姉妹とされる。
1561年、父が没し14歳で家督を継いだ。当時は織田信長の侵攻と明智光秀、森可成(もり・よしなり)ら家臣の離反が続いており、重臣の戦死や病没も重なり、さらに龍興も佞臣の斎藤飛騨守(ひだのかみ)を重用したため信頼を失い、背後の浅井長政には織田家と同盟されと、きわめて厳しい情勢にあった。
1563年、織田軍を竹中半兵衛の策略で撃破したものの、半兵衛は兼ねてから険悪だった飛騨守に侮辱された(小便を掛けられたとされる)のを恨み、飛騨守を殺すと斎藤家の居城・稲葉山城をわずか18名で乗っ取ってしまった。
龍興は半兵衛に反省を迫られたが応じず、やがて半兵衛は城を返還すると隠居したが、斎藤家の衰退は誰の目にも明らかとなり、美濃は織田家に次々と切り取られていった。
1567年、稲葉一鉄(いなば・いってつ)、安藤守就(あんどう・もりなり)、氏家卜全(うじいえ・ぼくぜん)ら「西美濃三人衆」の裏切りを機についに稲葉山城も陥落し、龍興は単身で伊勢長島へと落ち延びていった。
その後も龍興は長島一向一揆や三好三人衆、石山本願寺ら信長の敵対勢力と結託しては抵抗を続けた。
畿内に潜伏した際にはルイス・フロイスと交流し、イエズス会の教義を聞くとたちどころに理解し的確な質問を投げたため、フロイスは著書の「日本史」に「非常に有能で思慮深い」と記した。
1573年、縁戚をたどり朝倉家の客将として迎えられていたが、朝倉軍が織田軍に大敗すると、龍興も戦死した。享年26。
一説には氏家卜全の長子・氏家直昌(なおまさ)に討ち取られたという。
越中の興国寺には、龍興が流れ着き、斎藤九右ェ門(きゅうえもん)と改名し付近を発展させ、自身は住持となり87歳まで生きたという話が伝わるが、伝説の域を出ない。