三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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六角承禎(ろっかく・じょうてい)
近江の人(1521~1598)
六角家の当主。承禎は隠居後に名乗った号で本名は六角義賢(よしかた)。
父・六角定頼(さだより)の統治を早くから助け、父が没すると32歳で家督を継いだ。
弓馬の技術に優れ、特に弓は吉田重政(よしだ・しげまさ)に習い、紆余曲折あったが日置流の印可をただ一人受けるほどの腕前で、馬術では自ら佐々木流を興すほどだった。
当時の六角家は近江守護を務め、伊賀4郡のうち3郡をも統治し、足利将軍家や細川家を援助する名家で、北近江の浅井家も従属下に置いていた。
だが1560年、浅井長政は六角家から迎えていた妻を離縁すると挙兵し、隠居していた承禎が自ら討伐に赴いたものの大敗を喫した。
承禎の子で家督を継いだ六角義治(よしはる)は父の反対を押し切って斎藤家と同盟し(承禎の姉妹が美濃守護の土岐家に嫁いでいたが、斎藤道三(さいとう・どうさん)の下克上により土岐家は地位を逐われた)浅井家に対抗したものの戦況は芳しくなかった。
1561年、承禎の姉婿の細川晴元(ほそかわ・はるもと)が、家臣の三好長慶(みよし・ちょうけい)によって幽閉されると、承禎は三好家と敵対する畠山高政(はたけやま・たかまさ)とともに京へ兵を進め、三好家を一時、京から撤退させた。
さらに畠山軍は三好長慶の弟の三好実休(じっきゅう)を討ち取り、六角軍は山城を占領したものの、承禎はなぜかそこで動きを止め、三好軍の逆襲に遭った畠山軍を見殺しにすると、三好家と和睦し山城から引き上げてしまった。
1563年、六角義治は重臣で人望を集めていた後藤賢豊(ごとう・かたとよ)を暗殺し、家中の反発を受けた。
善治は承禎ともども居城を追われてしまうまでに事態は悪化し、重臣の蒲生定秀(がもう・さだひで)の仲介でどうにか復帰できたものの、六角家の凋落は誰の目にも明らかであり、困窮した承禎が蒲生定秀に借金をした証文も残されている。
1568年、織田信長が足利義昭(あしかが・よしあき)を擁し上洛を開始すると、六角家は三好家とともに抵抗したが、たちまち大敗し居城の観音寺城から撤退した。
かつての祖父の戦略にならい甲賀に布陣した承禎は浅井・朝倉家と連携して反撃に乗り出し、一時は信長との和睦を取り付けるまでに至った。
承禎のゲリラ戦は信長を大いに悩ませ、足利義昭や松永久秀(まつなが・ひさひで)も反逆すると一転して織田軍は窮地に立たされた。
しかし1573年、武田信玄の死をきっかけに包囲網は破れ、朝倉・浅井家が滅亡すると形勢は逆転し、足利義昭は逃亡、松永久秀は降伏、三好三人衆は相次いで戦死を遂げた。
その後の承禎は甲賀・伊賀の国人衆を率いて抵抗を続けたとも、石山本願寺に身を寄せたとも、単に隠棲したとも言われるが判然としないまま歴史の表舞台から消えていった。
だが豊臣秀吉の天下統一後、承禎は秀吉の御伽衆としてひょっこり復帰した。
1598年に没するまで悠々自適に暮らし、子の善治もまた豊臣秀頼(ひでより)の弓の師範を務めたという。