三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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一色義道(いっしき・よしみち)
丹後の人(??~1579)
一色家はかつて室町幕府の「四職」に数えられる名家だったが、戦国時代には没落し丹後守護の座もすでに若狭武田家に奪われていた。
1558年、父から家督を譲られた義道は弟の一色昭辰(あきたつ)を足利将軍家に仕えさせ、また台頭した織田信長にいち早くよしみを通じ復権を図った。
だが1571年、信長が比叡山を焼き討ちすると山を追われた僧侶をかくまったため関係が悪化し、1578年には明智光秀と細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)軍の侵攻を招いた。
翌1579年、悪政を敷いていた義道の人望は薄く、国人衆が次々と寝返り居城も陥落した。
義道は但馬山名家のもとへ落ち延びようとしたが、沼田家に内応され進退窮まり、子の一色義定(よしさだ)に家督を譲ると自害した。
なお細川家の記録には病死と記されている。後に義定が細川藤孝の娘をめとるため、人心を失った末の最期を改めたのだろうか。
跡を継いだ義定は奮戦し、手を焼いた藤孝は娘の伊也(いや)を嫁がせ和睦した。
1582年、明智光秀が本能寺の変を起こすと、藤孝の子・細川忠興(ただおき)に光秀の娘ガラシャが嫁いでいたが細川家は反光秀の構えを見せた。
一方で義定は御家再興の好機と光秀方についた。しかし光秀はあっさりと羽柴秀吉に討たれ、義定もまた秀吉の意向を受けた細川家に刺客を差し向けられ暗殺された。
その後、細川家に戻った伊也は怒りのあまり兄の忠興に短刀で斬りつけ、顔に深い傷を残したという。