三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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日根野弘就(ひねの・ひろなり)
美濃の人(1518?~1602)
はじめ美濃斎藤家に仕え、斎藤義龍(さいとう・よしたつ)に重用された。
義龍が父の斎藤道三(どうさん)と争った際、父の寵愛する二人の弟を斬り殺したのが弘就である。
義龍が没し息子の斎藤龍興(たつおき)の代になっても重用され、1564年に竹中半兵衛が稲葉山城を占拠すると、城を追われた龍興に付き従った。
1567年、織田信長によって美濃が制圧されると、日根野一族は浪人となり、今川氏真(いまがわ・うじざね)を頼ったものの、2年後には今川家も徳川家康によって滅ぼされ、またしても浪人となった。
その後は浅井長政に仕えたが、滅亡の気配を察したのか滅亡前年の1572年に長島に移り、一向一揆に参加した。
1574年に一向一揆も信長によって鎮圧されると、ついに20年にわたる抵抗を諦め信長に降った。
勇猛な弘就は馬廻として活躍したが1582年、本能寺の変が起こると、京にいたものの度重なる主家滅亡の経験からか事態を静観し、かつて美濃斎藤家に仕えた旧友らと連絡を取り合った。
信長死後は豊臣秀吉に仕え多くの戦で手柄を立てたが1600年、関ヶ原の戦いに際しまたも事態を静観したため減封処分を受けた。
1602年に没すると、遺領は没収され、息子も理由なく転封処分を受けた。
弘就は武芸に優れたほか、鎧や兜を自ら製作し、特に兜は曲線的な形状から銃撃を反らしやすいと評判を呼び「日根野頭形」として流行した。
徳川家康、真田幸村、井伊直政、立花宗茂、千利休らも日根野頭形を改良して愛用したという。
また確たる史料はないが一説に西軍との内通を疑われ自害を命じられたとあり、その際の逸話が非常に面白いので紹介する。
弘就は作法通りに切腹をしたが、一向に息絶える気配がなかった。
はらわたを引きずり出し、近くの木の枝に巻きつけると、ふと処分を忘れた書状があることを思い出し、部屋に戻って焼き捨てるうちに日が暮れたが、死神は訪れず「まだまだ死ねそうもない」と家人にぼやいた。
翌日になってようやく苦しみだし、それでも死に切れず、最期は自ら首を刎ねたという。