三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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吉川広家(きっかわ・ひろいえ)
安芸の人(1561~1625)
毛利家。吉川元春(もとはる)の三男。はじめは経信(つねのぶ)あるいは経言(つねこと)と名乗った。
幼少期はうつけで父を嘆かせ、礼儀作法を注意された書状が残っている。長じてからも所領の少なさに不満を抱き、勝手に小笠原家の養子になろうとして両親から叱責されたという。
1583年、織田信長の後を継ぎ頭角を現した羽柴秀吉のもとへ人質として送られたが、同時に送られた小早川秀包(こばやかわ・ひでかね)が寵愛されたためもあり、すぐに毛利家に返された。
1587年、父と長兄の吉川元長(もとなが)が相次いで没し、次兄はすでに仁保家を継いでいたため広家が吉川家の当主となった。
秀吉にも手腕を買われ、豊臣・羽柴姓を許され、さらに秀吉の養女を正室に迎えた。(だがこの正室は2年後に没した)
文禄・慶長の役でも活躍し、しばしば毛利軍も率いた。
1597年に叔父の小早川隆景(たかかげ)が没すると毛利家当主の毛利輝元(もうり・てるもと)には毛利家の主柱となるよう請われ、この頃に毛利家の祖先から一字もらい広家に改名した。
1600年、関ヶ原の戦いに際し、広家は毛利輝元へ東軍につくよう進言したものの、石田三成と毛利家の重臣・安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)の暗躍により輝元が西軍の総大将に担ぎ上げられた。
東軍の勝利を確信していた広家は同じく毛利家重臣の福原広俊(ふくはら・ひろとし)と対策を練り、文禄・慶長の役で親交を深めた黒田長政(くろだ・ながまさ)を通じ徳川家康に内応を知らせ、毛利家の所領安堵の密約を得た。
一方で安濃津城を攻めた際には石田三成の目を欺くため進んで奮戦し、黒田長政に疑惑の念を抱かせたという。
そして本戦を迎えると、広家は毛利秀元(ひでもと)軍の前に布陣し、毛利軍の進撃を封じた。
安国寺恵瓊や石田三成は進軍を要請したが「霧が深くて進めない」と広家は軍を動かさず、秀元も困った末に「これから弁当を食べるところだ」と言い訳し、ついに毛利軍は参戦できないまま終戦を迎えた。この逸話から「宰相殿(秀元)の空弁当」という言葉が生まれた。
だが戦後、家康は難癖をつけて毛利家の所領を没収しようとした。広家には周防・長門37万石を与えようと懐柔を図ったが、広家は「毛利家が叛くことがあれば私が輝元を殺す」とまで言い毛利家存続を願ったため、家康は輝元を周防・長門37万石に移封するに留めた。
広家は結果的に毛利家を減封させた責任を取り、第一線から退くと岩国に3万石を与えられた。
その後の吉川家は、徳川幕府からは大名として扱われるも、毛利家からは家臣として扱われ、特に関ヶ原で参戦を阻まれた毛利秀元と広家・福原広俊の確執は深く、居城を破却されたり、広家の後の岩国藩主は2代~11代まで肖像画を描かれないなど不遇を受け続けた。
広家は岩国を実質17万石にまで発展させ1625年に没した。
1631年、秀元は当主・毛利秀就(ひでなり)を差し置いての専横を非難され失脚し、代わって広家の子・吉川広正(ひろまさ)が執政の座についたという。
毛利輝元(もうり・てるもと)
安芸の人(1553~1625)
毛利元就の孫。元就の長男・毛利隆元(たかもと)の嫡子。
1563年、父が急死したため11歳で家督を継いだが、幼少のため実権は祖父の元就が1571年に没するまで握った。
祖父の死後も吉川元春(きっかわ・もとはる)、小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)ら二人の叔父が両輪として補佐した。
1576年、織田信長に追放された将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)が毛利家に庇護を求めると、織田家と対立した。
圧倒的な兵力差から劣勢に立たされたが、1582年、信長が本能寺で討たれると中国方面軍を率いていた羽柴秀吉は毛利家と和睦を結び、以降は信長に代わって台頭していく秀吉と良好な関係を築いた。
特に隆景は秀吉から「日本の東は徳川家康、西は隆景に任せれば安泰だ」と言われるほど信頼され、隆景も秀吉から多くの所領を与えられながらもあくまで毛利家の家臣の立場を貫き、輝元の顔を立てた。
一方で実戦経験の浅く、器量不足の輝元を危ぶみ、厳しく教育し、他人の目のないところでは折檻さえしたという。隆景が没する際には「あなたには天下を治める器量がないから、天下が乱れても欲を出してはならない。欲を出せば国を失うだろう」と言い遺した。
1597年、隆景が没すると実子がなかったため秀吉の養子だった小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)が跡を継いだ。
その際、小早川家の家臣の多くが秀秋に仕えることを良しとせず毛利家に鞍替えしたり、出奔を企て殺されたという。
1600年、関ヶ原の戦いに際し、石田三成に説得された輝元は、独断で西軍の総大将に就任した。
自身は大坂城に留まり、毛利秀元(ひでもと)や吉川広家(きっかわ・ひろいえ)が関ヶ原に出陣したが、西軍の不利を悟った広家は家名存続のため水面下で家康に接近しており、戦が始まると毛利軍の前に布陣したまま動かず、最後まで戦闘に参加させなかった。
戦後、家康は毛利家を取り潰し、広家に毛利家の家督を継がせようとしたが、広家は粘り強く交渉し、大減封と輝元の隠居を条件に毛利家の存続を家康に認めさせた。
輝元は「近頃の世は万事さかさまで、主君が家臣に助けられる無様なことになった」と自身の非力を嘆いたという。
輝元は名目上は嫡子の毛利秀就(ひでなり)に家督を譲り隠居したものの、裏では実権を握り続けた。
1614年、大坂冬の陣では東軍として自ら出陣する一方で、従兄弟の内藤元盛(ないとう・もともり)を仮名で大坂城へ密かに送り込み資金援助したという。
翌1615年、大坂夏の陣では毛利秀元が出陣したが、戦闘命令がなかなか下らなかったためしびれを切らし、抜け駆けしたもののかえって家康からは賞賛された。戦後、内藤元盛の存在が明るみに出たが、元盛父子やその家臣を、子供は助けるという約束を破り相次いで自害に追い込み、かろうじて追及の手を逃れた。(ただし当時の元盛は浪人の身であり、独断で大坂城に入ったという説もある)
1625年、73歳で死去。
創作などでは典型的な無能の二代目として描かれがちである。
毛利隆元(もうり・たかもと)
安芸の人(1523~1563)
毛利元就の長男。
1537年、毛利家が従属していた大内家に人質として送られた。当主の大内義隆(おおうち・よしたか)には大いに気に入られ(弟の隆景(たかかげ)は美男子で知られ義隆と衆道の関係にあったとされる)厚遇され高い教育を受けたという。
1540年、毛利家に戻され、1545年に元就が隠居すると家督を譲られた。
しかしこれは元就の謀略戦の一環で、隆元も自身の非才を理由に名目だけ家督を譲られ、実権は元就が没するまで握り続けていた。
また元就は実戦経験が浅く、穏和に過ぎる隆元を危ぶみ家老の志道広良(しじ・ひろよし)を教育係につけ、自身もたびたび叱責したという。
薫陶の甲斐あって隆元は元就の後継者にふさわしい実力を徐々に見せ始める。
1551年、大内義隆が重臣の陶晴賢(すえ・はるかた)に殺されると、義隆を慕っていた隆元は父に陶晴賢の討伐を訴えた。
元就がそれを渋ると隆元は家中に働きかけ、毛利家を反陶派にまとめ上げ、元就を翻意させた。(これには元就がわざと反対することで隆元を利用し家中をまとめさせたという異説もある)
1555年、兵力差で劣る毛利軍は陶晴賢を厳島におびき寄せ、自害に追い込んだ。
その際には暴風雨で渡海に尻込みする兵を奮起させるため、元就の制止を振り切り率先して船に乗り込んだという。
2年後には大内家を滅ぼし、隆元は外交戦略で安芸・備中・長門・周防の守護職を次々と得て、名実ともに毛利家は中国地方の大大名として認められていった。
だが1563年、尼子家の討伐に向かう途上、備後の国人衆・和智誠春(わち・まさはる)に接待を受けた直後に急死した。
死因は毒殺とも食中毒ともされ、激怒した元就は和智誠春らを暗殺の疑いで殺害した。
隆元は偉大な父や文武両道に優れた吉川元春(きっかわ・もとはる)、小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)ら弟に劣等感を抱いており、また自分の功績がほとんど父の功績とされることに卑屈な思いを感じる一方で、自身のしくじりが父の名を傷つけることを必要以上に恐れており、多くの書状にその複雑な心情が綴られている。
厳島神社に寄せた願文には「ただただ父上の武運長久、無病息災を願う。そのためには自分の身命をも捧げてもよい」と記したという。
「三本の矢」の逸話(ただしこれは創作である)から良好と思われがちな兄弟関係も、実際には険悪に近く、隆元が「弟たちは居城に来てもすぐに帰り、相談事があれば私ではなく父に話している。彼らは私を見下しているようで腹が立つ」と父に宛てた手紙を残しており、危ぶんだ元就は家訓として兄弟仲の大切さを説いた長大な書状を残した。
しかし隆元の死後、石高が4千石ほど下がるなど、彼が担当していた内政・財務・法制定・外交などで多くの問題が立ち上がり、弟らは縁の下の力持ちとして活躍していた兄の働きぶりを痛感し、より一層、毛利家のために尽くすようになったという。
小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)
安芸の人(1533~1597)
毛利元就の三男。
1541年、後継者のいない小早川家に請われ養嗣子となった。
その後、小早川本家の当主が重病を患うと、主家の大内義隆(おおうち・よしたか)は元就と共謀し、本家当主を隠居させ隆景に家督を継がせた。
兄の吉川元春(きっかわ・もとはる)も吉川家を乗っ取っており、吉川・小早川の「両川体制」はその後、毛利家の両輪として活躍していく。
隆景は屈強で知られる小早川水軍を率い数々の戦で武功を立て、また水路を活用した情報収集や外交・調略戦を担当した。
1571年、元就が没すると、すでに長男の毛利隆元(もうり・たかもと)も没していたため跡を継いだ隆元の子・毛利輝元(てるもと)を隆景とともに補佐した。
この頃、中央では織田信長が台頭し、その支援を受けて隣国の浦上家や三村家が盛んに毛利領に侵攻した。
信長に追放された将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)が毛利家に庇護を求めると織田家との対立は決定的となり、元春が山陰、隆景が山陽方面を担当し織田軍と激しく争った。
1576年、石山本願寺を救援し、村上水軍とともに九鬼嘉隆(くき・よしたか)率いる織田水軍を撃破した。
だが2年後、九鬼嘉隆は自ら考案した鉄甲船で反撃に乗り出し、数で圧倒する小早川・村上水軍を大破した。
これにより制海権を失い、また上杉謙信の急死も重なり、いわゆる「第二次信長包囲網」は崩れた。
圧倒的な兵力を誇る織田軍に押され、備前の宇喜多家や伯耆の南条家らも織田家に寝返り、大友宗麟も再び侵攻を開始すると毛利家は劣勢に立たされた。
1582年、清水宗治(しみず・むねはる)の籠る高松城が羽柴秀吉に水攻めされると、隆景・元春は救援に赴いたが、水に進路を阻まれ立ち往生し、秀吉もまた毛利軍の主力と激突することを恐れ戦線は膠着した。
そのさなか、信長が本能寺で討たれると、急報を受けた秀吉は信長の死を伏せたまま、水面下で進んでいた毛利家との和睦交渉を急いだ。
毛利家の安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)に「毛利家の家臣のほとんどは調略されている」とささやき疑心暗鬼にさせると、高松城の解放と備中からの撤退と引き換えに清水宗治を切腹させ、秀吉軍は兵を引き上げた。
その際、隆景と元春は信長の死に気づいていたが、秀吉との決戦に踏み切ってもし敗れれば毛利家は滅亡すると考え、無理な戦を控えたとされる。
その後、元春は秀吉に仕えることを嫌い隠居したが、隆景は毛利家を代表し積極的に秀吉のもとで戦った。
秀吉は「日本の東は徳川家康に、西は隆景に任せれば安泰だ」と語るほど厚く信頼し、四国攻めで大功を立てると伊予一国を与えられた。だが隆景はまず毛利家に伊予を与えさせ、改めて毛利家から受領する体裁を取り、あくまで毛利家の家臣として振る舞った。
隆景は居城を移さず備後三原城から伊予の統治をしたが、ルイス・フロイスに「日本では珍しく伊予では騒動も反乱もない」と称賛された。
1586年からの九州征伐にも出陣し、筑前・筑後と肥前の一部に37万石を与えられた。
しかし元春とその嫡子・吉川元長(もとなが)が相次いで没していたため、九州に入れば毛利家を支える者がいなくなるからと断りを入れた。
秀吉はそれならばと隆景に与える領地を豊臣家のものとし、隆景に代官をするよう命じ、断りきれず九州入りした。
1592年、文禄の役でも毛利家を代表し戦った。
1594年、秀吉は養子の羽柴秀俊(はしば・ひでとし)を毛利家の養嗣子として送り込もうとした。
だが隆景は秀俊の才を危ぶみ、また毛利家が乗っ取られることを恐れたため、実子のいない自分が養子として迎え入れると申し出た。
隆景はかつて大内義隆と衆道の関係にあったほどの美男子ながら、なぜか妻妾を一切近づけず、子供をもうけなかったという。
1595年、隆景は徳川家康、前田利家らそうそうたる顔ぶれと並び五大老に任じられた。
家督を秀俊に譲り隠居し、1597年に没した。
その際には毛利輝元に「あなたには天下を治める器量がないから、天下が乱れても欲を出してはならない。欲を出せば国を失うだろう」と、元春の子・吉川広家(きっかわ・ひろいえ)には「本能寺の変のおり、秀吉との和睦を守ったから毛利家の今があるのだ」と忠告したとされる。
親交のあった黒田官兵衛は隆景に「あなたは切れ者だから物事を即断即決しすぎて後悔することが多いだろう。私はあなたほど切れないから十分に時間をかけて考えるので後悔することは少ない」と言われたことを思い出し「日本から賢人がいなくなった」と嘆いたという。
秀俊は後に小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)と改名し、関ヶ原の戦いで東軍に寝返り家康勝利の決定打となるも数年後に病死した。
輝元は西軍の総大将として担ぎ出されたため改易になりかけたが、吉川広家が関ヶ原本戦で毛利家の参戦を食い止めた功績により、安芸一国への減封で済んだ。
吉川元春(きっかわ・もとはる)
安芸の人(1530~1586)
毛利元就の次男。
非常に勇猛で知られ、1540年、元服前の11歳で父の反対を押し切り初陣を飾った。
1547年、熊谷信直(くまがい・のぶなお)の娘・新庄局(しんじょう)を自ら望んでめとった。新庄局は醜女で知られており、熊谷家を味方につけるための政略結婚だったとされるが、夫婦仲は円満で側室も置かず、4男2女をもうけた。
また実際に醜女だという確かな史料はなく、疱瘡を病んだために容姿が崩れたという説もあるが、古くは諸葛亮孔明、同時代でも高橋紹運(たかはし・じょううん)らにそっくりな逸話があり、創作だとも考えられる。
同1547年、内紛の続く吉川家の養子となった。3年後、元就は熊谷信直らに命じて養父とその息子を殺し、元春に吉川家を乗っ取らせた。
弟の小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)も同様に養子に出された小早川家を乗っ取っており、吉川・小早川の「両川体制」はその後、毛利家の両輪として活躍していく。
元春は大内・尼子家との戦いでは主力を率いて多くの武功を立てた。
北九州の覇権を争う大友宗麟(おおとも・そうりん)が大内・尼子家の残党を蜂起させると、挟撃された毛利家は九州からの撤退を余儀なくされたが、元春は大内残党を率いた大内輝弘(おおうち・てるひろ)を増援が来ないうちに急襲して自害に追い込み、尼子残党の山中鹿之介(やまなか・しかのすけ)も捕縛し反乱を鎮圧した。
一方で陣中で「太平記」全巻を書写するなど文学にも明るく、異本の多々ある「太平記」の中で原本に最も近いとされた「神田本」の一部が現在では失われたため「吉川本」は「太平記」のほぼ全編を記しかつ原本に近い貴重な古典文学資料で、国の重要文化財にも指定されている。
1571年、元就が没すると、すでに長男の毛利隆元(たかもと)も没していたため跡を継いだ隆元の子・毛利輝元(てるもと)を隆景とともに補佐した。
中央では織田信長が台頭し、信長に追放された将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)が毛利家に庇護を求めると、織田家との対立は決定的となった。
脱走した山中鹿之介は、織田家の援助を得て再び尼子残党を率い、織田家の羽柴秀吉とともに播磨を攻めたが、元春はそれを迎撃し、後方で反乱が起こり織田軍が撤退すると、鹿之介ら尼子残党を殲滅した。
だが圧倒的な兵力を誇る織田軍に押され、備前の宇喜多家や伯耆の南条家らも織田家に寝返り、大友宗麟も再び侵攻を開始すると毛利家は劣勢に立たされた。
1582年、清水宗治(しみず・むねはる)の籠る高松城が羽柴秀吉に水攻めされると、元春・隆景は救援に赴いたが、水に進路を阻まれ立ち往生し、秀吉もまた毛利軍の主力と激突することを恐れ戦線は膠着した。
そのさなか、信長が本能寺で討たれると、急報を受けた秀吉は信長の死を伏せたまま、水面下で進んでいた毛利家との和睦交渉を急いだ。
毛利家の安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)に「毛利家の家臣のほとんどは調略されている」とささやき疑心暗鬼にさせると、高松城の解放と備中からの撤退と引き換えに清水宗治を切腹させ、秀吉軍は兵を引き上げた。
その際、元春と隆景は信長の死に気づいていたが、秀吉との決戦に踏み切ってもし敗れれば毛利家は滅亡すると考え、無理な戦を控えたとされる。
同1582年末、元春は隠居し嫡子の吉川元長(もとなが)に家督を譲った。
明智光秀を討ち、織田家を牛耳りだした秀吉に仕えるのを嫌ってのこととされ、その後は表舞台から遠ざかった。
だが1586年、秀吉の強い要請により、隆景や輝元の説得を受け九州征伐に従軍したが、すでに重病に蝕まれていた元春は、豊前で出陣を前に急死した。
毛利元就(もうり・もとなり)
安芸の人(1497~1571)
毛利家の当主。卓抜した策謀で中国地方の覇者となり「戦国最高の知将」や「謀神」の異名を取る。
1500年、父の毛利弘元(ひろもと)は長男に家督を譲ると、次男の元就を連れ隠居した。
だが10歳で両親を亡くすと元就は家臣に城を奪われ、追放の憂き目にあった。
養母に助けられ「乞食若殿」と呼ばれるほどの窮乏生活を送るうち、兄がアルコール中毒で急逝し、幼いその息子が家督を継いだため20歳になっていた元就が後見役となった。
武田元繁(たけだ・もとしげ)が毛利家の混乱をついて侵攻すると、元就は初陣とは思えぬ巧みな采配を振るい、武田元繁を討ち取った。
「西の桶狭間」と呼ばれるこの戦いで元就の名は隣国に轟き、以降も数々の戦で勝利を収めた。
1523年に甥が亡くなると元就は家督を継いだ。主家の尼子家の介入もあって多くの反乱を招き、弟や家老を失ったが、元就はかろうじて家中をまとめると、尼子家に恨みを抱き大内家へと鞍替えした。
だが尼子家との戦いは長く続き、また大内家の傘下として無謀な出陣を強いられることも重なり、元就は独立を考えた。
強力な水軍を要する小早川家に三男(後の小早川隆景(こばやかわ・たかかげ))を、内部分裂しかけていた吉川家に次男(後の吉川元春(きっかわ・もとはる))を養子に出すと、混乱に乗じて有力者を暗殺して息子らに家督を継がせた。
いわゆる「毛利両川体制」を整え、専横をきわめていた重臣の井上家を粛清すると1551年、元就は大内家の重臣・陶晴賢(すえ・はるかた)による大内家当主・大内義隆(おおうち・よしたか)の暗殺に協力した。
元就は安芸・備後の国人衆を次々と傘下に収めていき、陶晴賢も元就の野心に気づき両者の間に軋轢が生じた。
1554年、大内義隆の姉婿である石見の吉見正頼(よしみ・まさより)が反旗を翻した。陶晴賢が制圧に出ると、元就も当初はそれに協力しようとしたが嫡男・毛利隆元(たかもと)や重臣の反対にあい、陶家との訣別を決断した。
元就はまず陶家の重臣で知勇兼備の江良房栄(えら・ふさひで)に謀叛の濡れ衣を着せて殺させると、石見に大内軍の主力が集結した隙をついて蜂起した。
大内家の総兵力は3万、毛利家は5千に満たなかったが、元就は激怒した晴賢を大軍の入れない厳島におびき寄せると、密かに味方につけた村上水軍に海路を封鎖させ、退路を断たれた晴賢を自刃に追い込んだ。
事実上の当主の晴賢を失った大内家は一気に衰退し、2年後に元就によって滅ぼされた。
大内家を滅ぼした元就は隠居を考えたが、他ならぬ嫡男・隆元の反対により断念し院政を敷くに留めた。
その後、1563年に隆元が急死したため、元就は生涯にわたり実権を握ることとなる。
宿敵・尼子家もまた当主の尼子晴久(あまご・はるひさ)が急逝したためいったんは和睦を結んだが、元就はこれを一方的に破棄し尼子領へ侵攻した。
元就は大内家の傘下で戦った時の経験から、尼子家の居城・月山富田城は力攻めでは落とせないと考え、降伏した敵兵を皆殺しにし、徹底抗戦を決意させることによって、城を兵であふれさせる変則の兵糧攻めを仕掛けた。
さらに尼子家の重臣に次々と調略を仕掛け、疑心暗鬼に陥った当主の尼子義久(よしひさ)は自ら家臣を殺し、信望を失っていった。
元就は頃合いを見ると、粥を炊き出し一転して籠城する兵に降伏を誘ったため、投降する者が続々と現れ、1566年、尼子義久は抗戦を諦め降伏した。
毛利家の支配域は8ヶ国に及んだが、中央では織田信長が台頭し、その援助を受けた山中鹿之介(やまなか・しかのすけ)らが尼子家の残党を率いて蜂起した。
さらに九州では大友宗麟(おおとも・そうりん)が大内家の残党を周防で蜂起させ、毛利家は挟撃を受ける形となった。
やむなく元就は大友家と和睦し北九州から兵を引き、尼子家残党を撃破したが、これにより大内家の支配下にあった博多を奪われてしまった。
1571年、元就は75歳で没した。死因は老衰とも食道癌とも言われ、10年前からたびたび体調を崩していたようである。
~逸話~
元就は多くの印象的な逸話がよく知られている。
元服前に家臣と厳島神社へ参拝した時のこと、家臣が「元就様が安芸の主となれるよう祈りました」と言うと、元就は「なぜ天下の主になれるよう願わなかった」と尋ねた。家臣が「不可能なことを祈願しても無意味です。せいぜい叶っても中国地方の主でしょう」と答えると、元就は「夢は小さくしか叶わない。天下の主になると祈願して、ようやく中国地方の主になれようというもの。最初から安芸一国を目標にしてはそれすらできまい」と言ったという。
一方で尼子家を滅ぼした後の元就は(年齢的な問題があっただろうが)それ以上の勢力拡大を否定し「毛利家は天下を望まない」と公言し、息子や孫らもそれを遺訓として守り通した。(しかし大友家に奪われた北九州には執着し、晩年も侵攻を続けていた)
父と兄をアルコール中毒で亡くしたため、飲酒を慎み下戸を自称した。子らにも節酒を繰り返し説き、孫の毛利輝元(てるもと)が元服した際にはその母に小椀で2杯までと厳命している。
非常に筆まめで、数多くの書状が残されているが、その中でも息子らに宛てた「三子教訓状」は実に紙幅2.85メートルに及び、同じような内容が繰り返しくどくどと記されているという。
なお今さら説明するまでもない「三本の矢」の逸話は「三子教訓状」をもとに書かれた創作である。
また策謀の天才として知られるが、実戦ではほぼ必ず自身も出陣しており、記録に残るだけでも220戦を数えるという。
大内義長(おおうち・よしなが)
豊後の人(1532~1557)
周防大内家最後の当主。はじめは大友晴英(おおとも・はるひで)と名乗った。
豊後大友家の当主・大友義鑑(よしあき)の次男として生まれる。兄は大友宗麟(そうりん)。
1543年、大内家当主・大内義隆(よしたか)の養嗣子が尼子家との戦いで討ち死にしたため、翌年に義隆は姉婿である大友義鑑から晴英を猶子としてもらい受けた。
先祖代々から長く大内家と対立していた大友家はこれを歓迎したが、わずか1年後に義隆が実子をもうけたため縁組は解消され、晴英は帰国した。
1551年、義隆父子が重臣の陶隆房(すえ・たかふさ)の謀叛により殺されると、陶隆房は晴英を大内家の新当主に迎えたいと申し入れた。
兄の大友宗麟は「傀儡の立場に置かれるだけだ」と反対したが、晴英は「断り中傷されるくらいなら命は惜しくない」と自ら就任を望んだため、当主に擁立された。
陶隆房は野心がないことを示すために晴英から一字拝領し陶晴賢(はるかた)と改名した。(ただし下の字(英)をもらうのが通例であり、上の晴をもらい受けたのは野心を示していると言える)
1553年、晴英は大内家当主の慣例にならい、将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)から偏諱を受け大内義長(よしなが)と改名するなど権威の復活に努めたものの、貿易の再開を求めて明へ使者を送った際には、正当な当主として認められなかった。
1555年、実質的に大内家を切り回していた陶晴賢が厳島の戦いで毛利元就に敗死すると、大内家の衰退は止められず、毛利軍の猛攻にさらされた。
兄の大友宗麟は毛利家と、戦後に大内領を分け合う内約を交わしていたため援軍を出さず、1557年、連敗の末に義長は自刃した。享年は26。
平安時代から続く大内家を惜しみ、毛利元就は大友宗麟に復興を打診したが断られた。
だが後に足利義輝は宗麟に対し九州探題職とともに大内家の家督を認める書状を与えた。
結局、大内家の再興はならなかったが、傍流の山口家が大名として存続した。
大内家の重臣。晴賢と名乗ったのは晩年の数年だけで、長く陶隆房(たかふさ)の名を用いたが、教科書にも載る主君暗殺の際の陶晴賢という名で著名である。
代々、大内家の重臣を務めた家に生まれ、自身も容姿と「西国無双の侍大将」と呼ばれるほど武勇に優れたため主君の大内義隆(おおうち・よしたか)に寵愛された。
元服して名乗った隆房の名も、陶家の当主は主君から一字拝領する慣例により、義隆から偏諱を受けたものである。
1539年、父が病死すると家督を継いだ。隆房は次男だったが、長男は戦死したとも主君と不和になり討たれたともされ判然としない。
1540年、尼子家が毛利家を攻めると、隆房は援軍の総大将として出陣し、見事に尼子軍を撃破した。
1542年には逆に尼子領に侵攻するも、惨敗し大きな被害を受けた。これにより義隆は勢力拡大に興味を失い、趣味の文化教養に没頭していき、文治派の相良武任(さがら・たけとう)を重用し、武断派の隆房は遠ざけられていった。
1545年、暗闘を制した隆房は、相良武任を失脚させ、国外追放させた。
だが3年後の1548年、義隆は武任を復帰させてしまう。武任は美貌で知られる娘を隆房の息子にめあわせようと懐柔を図ったが、隆房は暗殺を企みそれを断ったため、武任は義隆に泣きつき、結果として隆房は激しい詰問を受け家中での立場を失った。
1551年、反撃に乗り出した武任は「隆房が謀叛を企んでいる」と讒言し、危険を感じると国外逃亡した。
進退窮まった隆房は謀叛を現実のものとし、義隆、武任を相次いで暗殺した。
翌年、隆房は義隆の甥で大友宗麟(おおとも・そうりん)の弟にあたる大内晴英(はるひで)を新たな主君として迎え入れ、同時に百年単位で続いていた大友家との争いを終わらせた。
当然、晴英は傀儡の主君で実権は隆房が握ったものの、陶家の伝統に則り、晴英から一字拝領し陶晴賢と改名することで、晴英を主君として立てた。(なお晴英は2年後に大内義長(よしなが)と改名し、この際には晴賢の長男が「長」の字を譲られた)
大内家を掌握した晴賢は軍備増強に努めたが、内外の反発を招き、ついには安芸の毛利元就と、義隆の姉を正室とする石見の吉見正頼(よしみ・まさより)が傘下から離脱した。
晴賢はすぐさま吉見家の討伐に赴いたが、主力が石見に集結した隙をつき、毛利軍が安芸の大内領を一気に攻め落としてしまった。
1555年、晴賢は自ら3万の大軍を率いて安芸厳島を攻めたものの、毛利軍の奇襲攻撃により潰走し、毛利家に与した村上水軍に退路を断たれ、やむなく自害した。享年35。
晴賢を失った陶家は、かつて晴賢に当主を殺された杉家によって滅ぼされ、大内家も2年後に毛利家に敗れ滅亡した。
大内義隆(おおうち・よしたか)
周防の人(1507~1551)
周防・長門・石見・豊前4ヶ国を治める大内家の次期当主として幼い頃から育てられた。
大内家は家督相続のたびに内乱が起こっていたが、義隆が22歳で継いだ際には他に男子がなく、また重臣の陶興房(すえ・おきふさ)らがよく補佐したためつつがなく済んだ。
1530年からは北九州へ積極的に出兵し、少弐家傘下の龍造寺家を寝返らせ、1536年、少弐家を滅ぼし北九州の制圧に成功した。
1537年には将軍・足利義晴(あしかが・よしはる)から幕政に参画するよう打診を受け上洛しようとしたが、宿敵・尼子家に道を阻まれ断念した。
1540年、尼子家は大内傘下の毛利家を攻めたが、亡き陶興房の子・陶晴賢(すえ・はるかた)が援軍に赴き尼子軍を撃破し、逆に攻め立てて安芸も支配下に置いた。
勢いに乗った義隆は尼子家の本拠地である出雲を攻めたが、配下の国人衆の裏切りにより大敗を喫した。
しかも養嗣子が討ち死にし、気落ちした義隆は以降、領土拡大への野心を失い、貴族趣味や文化教養へ没頭していき、文治派の相良武任(さがら・たけとう)を重用し、陶晴賢ら武断派を遠ざけた。
1550年、フランシスコ・ザビエルを謁見したが、彼らが汚い身なりで、ろくに手土産も持たず、あまつさえ義隆の行状を非難したため、門前払いした。
翌年、再び現れたザビエルらは経験を活かし、華美な服装に身を固め、西洋の珍しい進物を用意し、本来は天皇に渡す予定だった親書を献上したので、義隆は喜び布教を許可した。
1551年、相良武任との政争の末に進退窮まった陶晴賢が謀叛の兵を挙げた。
重臣で長門守護の内藤興盛(ないとう・おきもり)は、領土拡大をやめた時点で義隆を見限っていたため救援の兵を出さず、折からの暴風雨も加わって義隆は身動きも取れぬまま大寧寺に追い詰められた。
冷泉隆豊(れいぜい・たかとよ)がすさまじい奮戦を見せたものの、衆寡敵せず義隆は自害を遂げた。享年45。
義隆の子や周防に滞在していた多くの公家も同時に殺害され、大内家は事実上、滅亡した。
その後、陶晴賢は大友宗麟(おおとも・そうりん)の弟を大内家当主に迎えたが、わずか4年後の1555年、毛利元就に大敗を喫し敗死した。
尼子晴久(あまご・はるひさ)
出雲の人(1514~1561)
はじめは尼子詮久(あきひさ)と名乗る。
次男だったが兄が夭折し、父も早くに戦死したため祖父の尼子経久(つねひさ)から24歳で家督を継いだ。
「謀聖」とうたわれた祖父は、三男の反乱や従属させていた毛利家の離脱で、備後と安芸の支配権を危うくしたものの、将軍・足利義晴(あしかが・よしはる)の要請を受け上洛に協力する名目で積極的に軍を動かし、美作、石見、因幡、播磨へ侵攻し支配域を11ヶ国へ広げた。
これは中国・北九州に一大勢力を築いていた大内家に対する牽制(いわゆる大内包囲網)だったが、足利義晴はむしろ京へ迫った尼子軍を恐れ、大内家に背後を襲うよう命じ、これにより大内家との同盟は崩れた。
1540年、詮久は祖父の反対を押し切り、大内家に寝返った毛利家の吉田郡山城を囲んだ。
兵力では圧倒していたが、毛利元就は徹底した籠城戦で抵抗し、大内家から陶晴賢(すえ・はるかた)の援軍が到着すると尼子軍は大敗を喫し、大叔父の尼子久幸(ひさゆき)が戦死した。
従属下にあった安芸武田家が大内家に滅ぼされ、翌年には老齢の経久も没すると、各地の国人衆が次々と大内方に寝返った。
詮久は足利義晴から一字拝領し晴久と改名し権威の回復を図ると、各方面へ兵を送ったが劣勢は誰の目にも明らかだった。
しかし1542年、居城の月山富田城を大内軍に包囲されるも、晴久の徹底抗戦により包囲軍は疲弊し、大内方から尼子方へと寝返りが多発した。
晴久は逆襲に打って出ると大内義隆(おおうち・よしたか)の養嗣子を溺死させ、毛利元就もあわや討ち取りかける大戦果を挙げた。
勢いを得た晴久は大内家の息のかかった国人衆の当主を次々と追放し、出雲の支配体制を確立した。
因幡、美作、備後、備前へと再び進出し、1551年に大内義隆が陶晴賢に暗殺されると、朝廷を動かし山陰・山陽8ヶ国の守護職を手に入れた。
外では当主を失い勢力を弱めた大内家と同盟し、内では独立色を強めていた大叔父の尼子国久(くにひさ)らを粛清し、大内家を滅ぼした毛利軍との戦いも優勢だったが1561年、晴久は48歳で急死した。記録から見るに死因は脳溢血と思われる。
家督は嫡子の尼子義久(よしひさ)が継いだが、晴久の粛清により有力一族はほとんど死に絶え、当主の追放など強引な統治で抑えつけていた国人衆も、晴久の死を契機に続々と離反した。
義久は父の死を伏せて毛利家との和睦を結ぶも、毛利元就は晴久の死を見破り、和睦の裏で尼子方の国人衆を寝返らせて行き、わずか5年後に尼子家は滅亡するのだった。
軍事・政治に祖父にも劣らぬ才覚を見せた晴久だが、中央集権化を目論んだもののそれを果たせぬうちの急死がたった一つの誤算であり、支配体制が整わない隙を毛利元就に突かれ、あっけなく滅亡へと突き進んだ。
ちなみに義久とその弟らは毛利家で客将として遇され、後に家臣として幕末まで家名を保っている。