三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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吉川元春(きっかわ・もとはる)
安芸の人(1530~1586)
毛利元就の次男。
非常に勇猛で知られ、1540年、元服前の11歳で父の反対を押し切り初陣を飾った。
1547年、熊谷信直(くまがい・のぶなお)の娘・新庄局(しんじょう)を自ら望んでめとった。新庄局は醜女で知られており、熊谷家を味方につけるための政略結婚だったとされるが、夫婦仲は円満で側室も置かず、4男2女をもうけた。
また実際に醜女だという確かな史料はなく、疱瘡を病んだために容姿が崩れたという説もあるが、古くは諸葛亮孔明、同時代でも高橋紹運(たかはし・じょううん)らにそっくりな逸話があり、創作だとも考えられる。
同1547年、内紛の続く吉川家の養子となった。3年後、元就は熊谷信直らに命じて養父とその息子を殺し、元春に吉川家を乗っ取らせた。
弟の小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)も同様に養子に出された小早川家を乗っ取っており、吉川・小早川の「両川体制」はその後、毛利家の両輪として活躍していく。
元春は大内・尼子家との戦いでは主力を率いて多くの武功を立てた。
北九州の覇権を争う大友宗麟(おおとも・そうりん)が大内・尼子家の残党を蜂起させると、挟撃された毛利家は九州からの撤退を余儀なくされたが、元春は大内残党を率いた大内輝弘(おおうち・てるひろ)を増援が来ないうちに急襲して自害に追い込み、尼子残党の山中鹿之介(やまなか・しかのすけ)も捕縛し反乱を鎮圧した。
一方で陣中で「太平記」全巻を書写するなど文学にも明るく、異本の多々ある「太平記」の中で原本に最も近いとされた「神田本」の一部が現在では失われたため「吉川本」は「太平記」のほぼ全編を記しかつ原本に近い貴重な古典文学資料で、国の重要文化財にも指定されている。
1571年、元就が没すると、すでに長男の毛利隆元(たかもと)も没していたため跡を継いだ隆元の子・毛利輝元(てるもと)を隆景とともに補佐した。
中央では織田信長が台頭し、信長に追放された将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)が毛利家に庇護を求めると、織田家との対立は決定的となった。
脱走した山中鹿之介は、織田家の援助を得て再び尼子残党を率い、織田家の羽柴秀吉とともに播磨を攻めたが、元春はそれを迎撃し、後方で反乱が起こり織田軍が撤退すると、鹿之介ら尼子残党を殲滅した。
だが圧倒的な兵力を誇る織田軍に押され、備前の宇喜多家や伯耆の南条家らも織田家に寝返り、大友宗麟も再び侵攻を開始すると毛利家は劣勢に立たされた。
1582年、清水宗治(しみず・むねはる)の籠る高松城が羽柴秀吉に水攻めされると、元春・隆景は救援に赴いたが、水に進路を阻まれ立ち往生し、秀吉もまた毛利軍の主力と激突することを恐れ戦線は膠着した。
そのさなか、信長が本能寺で討たれると、急報を受けた秀吉は信長の死を伏せたまま、水面下で進んでいた毛利家との和睦交渉を急いだ。
毛利家の安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)に「毛利家の家臣のほとんどは調略されている」とささやき疑心暗鬼にさせると、高松城の解放と備中からの撤退と引き換えに清水宗治を切腹させ、秀吉軍は兵を引き上げた。
その際、元春と隆景は信長の死に気づいていたが、秀吉との決戦に踏み切ってもし敗れれば毛利家は滅亡すると考え、無理な戦を控えたとされる。
同1582年末、元春は隠居し嫡子の吉川元長(もとなが)に家督を譲った。
明智光秀を討ち、織田家を牛耳りだした秀吉に仕えるのを嫌ってのこととされ、その後は表舞台から遠ざかった。
だが1586年、秀吉の強い要請により、隆景や輝元の説得を受け九州征伐に従軍したが、すでに重病に蝕まれていた元春は、豊前で出陣を前に急死した。