三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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大内義隆(おおうち・よしたか)
周防の人(1507~1551)
周防・長門・石見・豊前4ヶ国を治める大内家の次期当主として幼い頃から育てられた。
大内家は家督相続のたびに内乱が起こっていたが、義隆が22歳で継いだ際には他に男子がなく、また重臣の陶興房(すえ・おきふさ)らがよく補佐したためつつがなく済んだ。
1530年からは北九州へ積極的に出兵し、少弐家傘下の龍造寺家を寝返らせ、1536年、少弐家を滅ぼし北九州の制圧に成功した。
1537年には将軍・足利義晴(あしかが・よしはる)から幕政に参画するよう打診を受け上洛しようとしたが、宿敵・尼子家に道を阻まれ断念した。
1540年、尼子家は大内傘下の毛利家を攻めたが、亡き陶興房の子・陶晴賢(すえ・はるかた)が援軍に赴き尼子軍を撃破し、逆に攻め立てて安芸も支配下に置いた。
勢いに乗った義隆は尼子家の本拠地である出雲を攻めたが、配下の国人衆の裏切りにより大敗を喫した。
しかも養嗣子が討ち死にし、気落ちした義隆は以降、領土拡大への野心を失い、貴族趣味や文化教養へ没頭していき、文治派の相良武任(さがら・たけとう)を重用し、陶晴賢ら武断派を遠ざけた。
1550年、フランシスコ・ザビエルを謁見したが、彼らが汚い身なりで、ろくに手土産も持たず、あまつさえ義隆の行状を非難したため、門前払いした。
翌年、再び現れたザビエルらは経験を活かし、華美な服装に身を固め、西洋の珍しい進物を用意し、本来は天皇に渡す予定だった親書を献上したので、義隆は喜び布教を許可した。
1551年、相良武任との政争の末に進退窮まった陶晴賢が謀叛の兵を挙げた。
重臣で長門守護の内藤興盛(ないとう・おきもり)は、領土拡大をやめた時点で義隆を見限っていたため救援の兵を出さず、折からの暴風雨も加わって義隆は身動きも取れぬまま大寧寺に追い詰められた。
冷泉隆豊(れいぜい・たかとよ)がすさまじい奮戦を見せたものの、衆寡敵せず義隆は自害を遂げた。享年45。
義隆の子や周防に滞在していた多くの公家も同時に殺害され、大内家は事実上、滅亡した。
その後、陶晴賢は大友宗麟(おおとも・そうりん)の弟を大内家当主に迎えたが、わずか4年後の1555年、毛利元就に大敗を喫し敗死した。