三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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宇喜多家の重臣・明石景親(あかし・かげちか)の子として生まれる。
長じると宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)の軍師格となり、1599年のお家騒動で多くの家臣が出奔すると、執政として宇喜多家を切り回した。
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍の主力となった宇喜多軍の先鋒として戦い、福島正則(ふくしま・まさのり)を苦しめたが、小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)の裏切りによって東軍の勝利に終わった。
宇喜多秀家は八丈島に流罪となり、全登も浪人となった。
同じキリシタンで、母が明石一族の黒田官兵衛に庇護されたが、その死後に跡を継いだ黒田長政(ながまさ)はキリスト教を禁じたため、全登はやむなく退去した。
1614年、大坂の陣では再起をかけ豊臣家に仕えた。
翌年、大阪夏の陣でも奮戦したが衆寡敵せず、松平忠直(まつだいら・ただなお)の大軍に突撃し、消息を絶った。
戦後、家康は全登を恐れ「明石狩り」と呼ばれるほど執拗に行方を追ったが、足取りはつかめず、そのまま戦死していたとも、国外へ逃亡したとも言われ、判然としない。
6歳の頃に祖父が暗殺されたため父とともに放浪したという。長じると備前の大名・浦上宗景(うらがみ・むねかげ)に仕え、祖父の仇の島村盛実(しまむら・もりざね)や舅の中山信正(なかやま・のぶまさ)らを次々と暗殺。
さらに1566年、備中の大名・三村家親(みむら・いえちか)を浪人に射殺させ、娘婿の松田元賢(まつだ・もとかた)を攻め殺し(夫の戦死を聞いた直家の娘は自害した)、金光宗高(かねみつ・むねたか)が毛利家と内通していると偽って自害させ岡山城を奪い取るなどし、浦上家でも随一の実力者に成り上がった。
まず娘や姉妹、親族の娘を嫁がせ油断させたところを暗殺するその手管は恐れられ、実弟の宇喜多忠家(うきた・ただいえ)でさえ、直家の前に出るときは密かにくさりかたびらを着込んでいたという。
そして1569年、織田信長や赤松政秀(あかまつ・まさひで)と裏で手を結び、ついに浦上家をも乗っ取るために蜂起した。
しかし織田軍は朝倉義景(あさくら・よしかげ)と戦うため引き上げてしまい、赤松軍も黒田官兵衛に敗れて降伏すると、孤立した直家はやむなく浦上家に出戻った。
だが1574年、小寺政職(こでら・まさもと)のもとにいた浦上宗景の兄を担ぎ出し、直家は再び蜂起した。
前回の反省を活かし、事前の根回しで多数の重臣を離反させ、さらに毛利家とも同盟を結んでいた直家は、浦上宗景を播磨へ追放することに成功。備前のみならず備中、美作の一部にまで版図を広げた。
浦上宗景も備前国内の残党と連絡し合い抵抗を続けたが、1579年には鎮圧された。
同年、信長の命を受けた羽柴秀吉の大軍が攻め寄せると、直家はいち早く織田家に臣従し毛利家と戦うが、1581年末、悪性の腫瘍を臀部に患い病没した。
しばらくその死は伏せられたため、公式な没日は翌1582年の1月とされる。
暗殺の材料とするなど親族には酷薄だったが、一方で家臣には温情をもって接し、陥れることは無かった。
また暗殺した相手は手厚く弔い、暗殺者も使い捨てにせずその遺族を保護したため、広く慕われたという。
後継者の宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)の代にお家騒動が持ち上がっても離反する者は少なく、宇喜多家が滅亡した後も花房正成(はなぶさ・まさなり)ら援助を続ける旧臣も多かった。
1500年、京極政経がお家騒動に敗れて経久のもとへ落ち延びてくると関係は修復され、守護代にも返り咲いた。
1508年に政経が亡くなるとその息子の後見を任されたが、ほどなくして息子が行方不明となり、経久が実質的に出雲を治めるようになった。
経久は中国地方に大勢力を築く大内家に接近する一方で、隣国の大名とも積極的に交流し、ある時は大内家と戦い、またある時は大内家を救援した。
1521年からは石見や安芸、さらには伯耆や備後へも侵攻する。
安芸の大内家の拠点を毛利元就に攻め落とさせ、伯耆には自ら兵を率いて守護の山名澄之(やまな・すみゆき)を敗走させた。
だが同年、安芸武田家が大内家に敗北し、毛利家も大内家に鞍替え、次いで山名家も反尼子に加わると形勢は逆転し、経久も大内家の陶興房(すえ・おきふさ 陶晴賢の父)に敗れて備後の支配権を失った。
さらに石見の支配も崩れると経久の三男・塩冶興久(えんや・おきひさ)が反旗を翻した。塩冶興久は多くの国人衆や隣国の大名を味方につけていたが、肝心の大内家は消極的ながら経久への支持を表明。1534年には鎮圧され、興久は自害した。
1537年、経久は家督を孫の尼子晴久(あまご・はるひさ)に譲る。
大内家は九州へ勢力を伸ばし大友家と交戦していたため、経久はその隙に尼子晴久を東へ進撃させた。
播磨守護の赤松政祐(あかまつ・まさすけ)を破り美作、備前へと侵攻。尼子晴久は上洛の機会をうかがったが、大友家が大内家と和睦してしまい、大内軍が攻め込んできたためやむなく撤退した。
これにより大内家との交渉は完全に決裂し1540年、尼子晴久は大内方の毛利家を討つため3万の連合軍を催した。
しかし大内家の陶晴賢(すえ・はるかた)率いる2万の軍に敗れ、安芸の基盤を失った。
翌年、経久が死去。享年84歳。
謀略や巧みな外交戦術で勢力拡大し、最大で11ヶ国にまで支配域を広げ、尼子家を中国地方屈指の大名に育て上げ、最盛期を築いた。
下克上や謀将の代名詞とされるが、性格はきわめて家臣思いかつ無私無欲の人で、家臣が経久の私物を褒めると喜んですぐに与えてしまうため、遠慮した家臣はなかなか褒められなくなった。
ある人が庭の松の木ならば大丈夫だろうと褒めると、経久は松の木を掘り返して与えようとした。必死に断ったが結局、薪にして与えてしまった。
また着ている物も構わず与えてしまうため、経久自身は冬でも薄衣一枚で過ごしていたという。