三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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尼子晴久(あまご・はるひさ)
出雲の人(1514~1561)
はじめは尼子詮久(あきひさ)と名乗る。
次男だったが兄が夭折し、父も早くに戦死したため祖父の尼子経久(つねひさ)から24歳で家督を継いだ。
「謀聖」とうたわれた祖父は、三男の反乱や従属させていた毛利家の離脱で、備後と安芸の支配権を危うくしたものの、将軍・足利義晴(あしかが・よしはる)の要請を受け上洛に協力する名目で積極的に軍を動かし、美作、石見、因幡、播磨へ侵攻し支配域を11ヶ国へ広げた。
これは中国・北九州に一大勢力を築いていた大内家に対する牽制(いわゆる大内包囲網)だったが、足利義晴はむしろ京へ迫った尼子軍を恐れ、大内家に背後を襲うよう命じ、これにより大内家との同盟は崩れた。
1540年、詮久は祖父の反対を押し切り、大内家に寝返った毛利家の吉田郡山城を囲んだ。
兵力では圧倒していたが、毛利元就は徹底した籠城戦で抵抗し、大内家から陶晴賢(すえ・はるかた)の援軍が到着すると尼子軍は大敗を喫し、大叔父の尼子久幸(ひさゆき)が戦死した。
従属下にあった安芸武田家が大内家に滅ぼされ、翌年には老齢の経久も没すると、各地の国人衆が次々と大内方に寝返った。
詮久は足利義晴から一字拝領し晴久と改名し権威の回復を図ると、各方面へ兵を送ったが劣勢は誰の目にも明らかだった。
しかし1542年、居城の月山富田城を大内軍に包囲されるも、晴久の徹底抗戦により包囲軍は疲弊し、大内方から尼子方へと寝返りが多発した。
晴久は逆襲に打って出ると大内義隆(おおうち・よしたか)の養嗣子を溺死させ、毛利元就もあわや討ち取りかける大戦果を挙げた。
勢いを得た晴久は大内家の息のかかった国人衆の当主を次々と追放し、出雲の支配体制を確立した。
因幡、美作、備後、備前へと再び進出し、1551年に大内義隆が陶晴賢に暗殺されると、朝廷を動かし山陰・山陽8ヶ国の守護職を手に入れた。
外では当主を失い勢力を弱めた大内家と同盟し、内では独立色を強めていた大叔父の尼子国久(くにひさ)らを粛清し、大内家を滅ぼした毛利軍との戦いも優勢だったが1561年、晴久は48歳で急死した。記録から見るに死因は脳溢血と思われる。
家督は嫡子の尼子義久(よしひさ)が継いだが、晴久の粛清により有力一族はほとんど死に絶え、当主の追放など強引な統治で抑えつけていた国人衆も、晴久の死を契機に続々と離反した。
義久は父の死を伏せて毛利家との和睦を結ぶも、毛利元就は晴久の死を見破り、和睦の裏で尼子方の国人衆を寝返らせて行き、わずか5年後に尼子家は滅亡するのだった。
軍事・政治に祖父にも劣らぬ才覚を見せた晴久だが、中央集権化を目論んだもののそれを果たせぬうちの急死がたった一つの誤算であり、支配体制が整わない隙を毛利元就に突かれ、あっけなく滅亡へと突き進んだ。
ちなみに義久とその弟らは毛利家で客将として遇され、後に家臣として幕末まで家名を保っている。