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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―吉川広家  毛利家を存続させた功労者

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戦国列伝―吉川広家  毛利家を存続させた功労者



吉川広家(きっかわ・ひろいえ)
安芸の人(1561~1625)

毛利家。吉川元春(もとはる)の三男。はじめは経信(つねのぶ)あるいは経言(つねこと)と名乗った。
幼少期はうつけで父を嘆かせ、礼儀作法を注意された書状が残っている。長じてからも所領の少なさに不満を抱き、勝手に小笠原家の養子になろうとして両親から叱責されたという。

1583年、織田信長の後を継ぎ頭角を現した羽柴秀吉のもとへ人質として送られたが、同時に送られた小早川秀包(こばやかわ・ひでかね)が寵愛されたためもあり、すぐに毛利家に返された。
1587年、父と長兄の吉川元長(もとなが)が相次いで没し、次兄はすでに仁保家を継いでいたため広家が吉川家の当主となった。
秀吉にも手腕を買われ、豊臣・羽柴姓を許され、さらに秀吉の養女を正室に迎えた。(だがこの正室は2年後に没した)
文禄・慶長の役でも活躍し、しばしば毛利軍も率いた。
1597年に叔父の小早川隆景(たかかげ)が没すると毛利家当主の毛利輝元(もうり・てるもと)には毛利家の主柱となるよう請われ、この頃に毛利家の祖先から一字もらい広家に改名した。

1600年、関ヶ原の戦いに際し、広家は毛利輝元へ東軍につくよう進言したものの、石田三成と毛利家の重臣・安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)の暗躍により輝元が西軍の総大将に担ぎ上げられた。
東軍の勝利を確信していた広家は同じく毛利家重臣の福原広俊(ふくはら・ひろとし)と対策を練り、文禄・慶長の役で親交を深めた黒田長政(くろだ・ながまさ)を通じ徳川家康に内応を知らせ、毛利家の所領安堵の密約を得た。
一方で安濃津城を攻めた際には石田三成の目を欺くため進んで奮戦し、黒田長政に疑惑の念を抱かせたという。
そして本戦を迎えると、広家は毛利秀元(ひでもと)軍の前に布陣し、毛利軍の進撃を封じた。
安国寺恵瓊や石田三成は進軍を要請したが「霧が深くて進めない」と広家は軍を動かさず、秀元も困った末に「これから弁当を食べるところだ」と言い訳し、ついに毛利軍は参戦できないまま終戦を迎えた。この逸話から「宰相殿(秀元)の空弁当」という言葉が生まれた。

だが戦後、家康は難癖をつけて毛利家の所領を没収しようとした。広家には周防・長門37万石を与えようと懐柔を図ったが、広家は「毛利家が叛くことがあれば私が輝元を殺す」とまで言い毛利家存続を願ったため、家康は輝元を周防・長門37万石に移封するに留めた。

広家は結果的に毛利家を減封させた責任を取り、第一線から退くと岩国に3万石を与えられた。
その後の吉川家は、徳川幕府からは大名として扱われるも、毛利家からは家臣として扱われ、特に関ヶ原で参戦を阻まれた毛利秀元と広家・福原広俊の確執は深く、居城を破却されたり、広家の後の岩国藩主は2代~11代まで肖像画を描かれないなど不遇を受け続けた。

広家は岩国を実質17万石にまで発展させ1625年に没した。
1631年、秀元は当主・毛利秀就(ひでなり)を差し置いての専横を非難され失脚し、代わって広家の子・吉川広正(ひろまさ)が執政の座についたという。

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