三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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毛利輝元(もうり・てるもと)
安芸の人(1553~1625)
毛利元就の孫。元就の長男・毛利隆元(たかもと)の嫡子。
1563年、父が急死したため11歳で家督を継いだが、幼少のため実権は祖父の元就が1571年に没するまで握った。
祖父の死後も吉川元春(きっかわ・もとはる)、小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)ら二人の叔父が両輪として補佐した。
1576年、織田信長に追放された将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)が毛利家に庇護を求めると、織田家と対立した。
圧倒的な兵力差から劣勢に立たされたが、1582年、信長が本能寺で討たれると中国方面軍を率いていた羽柴秀吉は毛利家と和睦を結び、以降は信長に代わって台頭していく秀吉と良好な関係を築いた。
特に隆景は秀吉から「日本の東は徳川家康、西は隆景に任せれば安泰だ」と言われるほど信頼され、隆景も秀吉から多くの所領を与えられながらもあくまで毛利家の家臣の立場を貫き、輝元の顔を立てた。
一方で実戦経験の浅く、器量不足の輝元を危ぶみ、厳しく教育し、他人の目のないところでは折檻さえしたという。隆景が没する際には「あなたには天下を治める器量がないから、天下が乱れても欲を出してはならない。欲を出せば国を失うだろう」と言い遺した。
1597年、隆景が没すると実子がなかったため秀吉の養子だった小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)が跡を継いだ。
その際、小早川家の家臣の多くが秀秋に仕えることを良しとせず毛利家に鞍替えしたり、出奔を企て殺されたという。
1600年、関ヶ原の戦いに際し、石田三成に説得された輝元は、独断で西軍の総大将に就任した。
自身は大坂城に留まり、毛利秀元(ひでもと)や吉川広家(きっかわ・ひろいえ)が関ヶ原に出陣したが、西軍の不利を悟った広家は家名存続のため水面下で家康に接近しており、戦が始まると毛利軍の前に布陣したまま動かず、最後まで戦闘に参加させなかった。
戦後、家康は毛利家を取り潰し、広家に毛利家の家督を継がせようとしたが、広家は粘り強く交渉し、大減封と輝元の隠居を条件に毛利家の存続を家康に認めさせた。
輝元は「近頃の世は万事さかさまで、主君が家臣に助けられる無様なことになった」と自身の非力を嘆いたという。
輝元は名目上は嫡子の毛利秀就(ひでなり)に家督を譲り隠居したものの、裏では実権を握り続けた。
1614年、大坂冬の陣では東軍として自ら出陣する一方で、従兄弟の内藤元盛(ないとう・もともり)を仮名で大坂城へ密かに送り込み資金援助したという。
翌1615年、大坂夏の陣では毛利秀元が出陣したが、戦闘命令がなかなか下らなかったためしびれを切らし、抜け駆けしたもののかえって家康からは賞賛された。戦後、内藤元盛の存在が明るみに出たが、元盛父子やその家臣を、子供は助けるという約束を破り相次いで自害に追い込み、かろうじて追及の手を逃れた。(ただし当時の元盛は浪人の身であり、独断で大坂城に入ったという説もある)
1625年、73歳で死去。
創作などでは典型的な無能の二代目として描かれがちである。