三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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毛利隆元(もうり・たかもと)
安芸の人(1523~1563)
毛利元就の長男。
1537年、毛利家が従属していた大内家に人質として送られた。当主の大内義隆(おおうち・よしたか)には大いに気に入られ(弟の隆景(たかかげ)は美男子で知られ義隆と衆道の関係にあったとされる)厚遇され高い教育を受けたという。
1540年、毛利家に戻され、1545年に元就が隠居すると家督を譲られた。
しかしこれは元就の謀略戦の一環で、隆元も自身の非才を理由に名目だけ家督を譲られ、実権は元就が没するまで握り続けていた。
また元就は実戦経験が浅く、穏和に過ぎる隆元を危ぶみ家老の志道広良(しじ・ひろよし)を教育係につけ、自身もたびたび叱責したという。
薫陶の甲斐あって隆元は元就の後継者にふさわしい実力を徐々に見せ始める。
1551年、大内義隆が重臣の陶晴賢(すえ・はるかた)に殺されると、義隆を慕っていた隆元は父に陶晴賢の討伐を訴えた。
元就がそれを渋ると隆元は家中に働きかけ、毛利家を反陶派にまとめ上げ、元就を翻意させた。(これには元就がわざと反対することで隆元を利用し家中をまとめさせたという異説もある)
1555年、兵力差で劣る毛利軍は陶晴賢を厳島におびき寄せ、自害に追い込んだ。
その際には暴風雨で渡海に尻込みする兵を奮起させるため、元就の制止を振り切り率先して船に乗り込んだという。
2年後には大内家を滅ぼし、隆元は外交戦略で安芸・備中・長門・周防の守護職を次々と得て、名実ともに毛利家は中国地方の大大名として認められていった。
だが1563年、尼子家の討伐に向かう途上、備後の国人衆・和智誠春(わち・まさはる)に接待を受けた直後に急死した。
死因は毒殺とも食中毒ともされ、激怒した元就は和智誠春らを暗殺の疑いで殺害した。
隆元は偉大な父や文武両道に優れた吉川元春(きっかわ・もとはる)、小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)ら弟に劣等感を抱いており、また自分の功績がほとんど父の功績とされることに卑屈な思いを感じる一方で、自身のしくじりが父の名を傷つけることを必要以上に恐れており、多くの書状にその複雑な心情が綴られている。
厳島神社に寄せた願文には「ただただ父上の武運長久、無病息災を願う。そのためには自分の身命をも捧げてもよい」と記したという。
「三本の矢」の逸話(ただしこれは創作である)から良好と思われがちな兄弟関係も、実際には険悪に近く、隆元が「弟たちは居城に来てもすぐに帰り、相談事があれば私ではなく父に話している。彼らは私を見下しているようで腹が立つ」と父に宛てた手紙を残しており、危ぶんだ元就は家訓として兄弟仲の大切さを説いた長大な書状を残した。
しかし隆元の死後、石高が4千石ほど下がるなど、彼が担当していた内政・財務・法制定・外交などで多くの問題が立ち上がり、弟らは縁の下の力持ちとして活躍していた兄の働きぶりを痛感し、より一層、毛利家のために尽くすようになったという。