三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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長束正家(なつか・まさいえ)
近江の人(1562~1600)
豊臣政権の五奉行の一人。
もともとは水口家、または大蔵家の生まれで、居城を落とされ長束村に移り改姓したという。
算術に優れはじめは丹羽長秀(にわ・ながひで)に仕える。
1585年、長秀が没すると丹羽家は不正会計を理由の一つに大減封を命じられた。この時、正家は帳簿を手に整然と反論し、感心した豊臣秀吉は直臣として取り立て奉行衆に抜擢したという。
豊臣家では財政を一手に担い、直轄領の管理や太閤検地を取り仕切った。
九州征伐や小田原征伐、文禄・慶長の役では全国から参戦した20万を超える軍勢の兵站を任され、滞りなく兵糧輸送を行い、また小田原周辺の米3万石を買い占め兵糧攻めにも貢献した。家臣は甲斐姫の守る忍城攻めにも加わったという。
秀吉からの信頼厚く、また人質として上洛した徳川秀忠の出迎えを担当したり、本多忠勝の妹をめとったりと徳川家との縁も深かった。
1595年、出身地の近江水口に5万石(後に12万石に加増)を与えられ大名に、また最年少で五奉行にも列した。
1600年、関ヶ原の戦いでは同じく五奉行の石田三成に従い、作戦立案に関わったが、慣れない軍事や策謀面ではその才能は発揮されず、家康の伏見城入城の阻止、家康暗殺、人質作戦など、ほとんどの策は不発に終わった。
本戦では毛利軍と並んで出陣したものの、毛利家存続のため裏で家康と内通する吉川広家(きっかわ・ひろいえ)が、毛利・長束両軍の前に布陣したまま動かず、参戦できないまま西軍は敗北し撤退した。
正家はどうにか居城まで落ち延びたが、寄せ手の亀井茲矩(かめい・これのり)、池田長吉(いけだ・ながよし)の本領は安堵するという口車に乗って城から出たところを捕縛され、あえなく処刑された。享年39。なお財産は池田長吉に全て奪われたという。
子供らは母が本多忠勝の妹とあってか累は及ばず(しかし母は奇しくも夫と同年に産後の肥立ちが悪く没した)他家に仕えて生き長らえ、末子の還誉岌閑(げんよ・きゅうかん)は近江水口の寺の住持となり、徳川家光と親交を結んだという。
※アイコンは兀突骨
豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)
河内の人(1593~1615)
豊臣秀吉の三男。秀吉57歳の時の子で、母は淀殿(よど)。
二人の兄はともに夭折しており、多くの側室を抱えながら子宝に恵まれず、老齢にさしかかった秀吉が諦めかけた頃に生まれ、大変喜ばれた。
幼名は拾丸(ひろいまる)で、同じ淀殿の産んだ次男が捨丸(すてまる)だったのにちなみ、また諦めかけた頃の拾い物という意味もあるとされる。
しかし秀吉の子は実在すらあやふやな石松丸(いしまつまる)と娘を除けばわずかに二人、しかもいずれも淀殿との間に生まれており、本当に秀吉の実子なのかという疑問はつきまとい、実父として豊臣家の重臣で淀殿の乳兄弟でもある大野治長(おおの・はるなが)の名が秀頼の存命当時からまことしやかにささやかれていたという。
当時は秀吉の甥にあたる豊臣秀次(ひでつぐ)が養嗣子として関白の地位にあって後継者と目されており、秀吉もゆくゆくは秀次の娘を秀頼に嫁がせ、秀次から秀頼への継承を考えていたが、秀吉と秀次の関係はこじれにこじれ、1595年に秀次は切腹に追い込まれた。
1596年、4歳で早くも元服すると秀吉は自分の死後を案じ、五大老や五奉行を定め、秀頼を補佐する体制を整え始めた。
憂慮は当たり、1598年に秀吉が没すると、徳川家康は禁じられていた諸大名との婚姻を勝手に進めるなどして権力を強め、また豊臣家を支えてきた前田利家の死去、五奉行・石田三成の失脚も重なり家康はいよいよ台頭していく。
1600年、関ヶ原の戦いで石田三成は秀頼の坐す大坂城を本拠地に定め、総大将の毛利輝元(もうり・てるもと)も大坂城に入ったが、東西両軍ともに「豊臣家のため逆賊を討つ」を大義名分にしており、東軍を率いた家康は勝利後も秀頼に臣下の礼を取った。
しかし五大老筆頭の地位を活かし、全国に散らばっていた豊臣家の直轄領をことごとく東軍で戦功を挙げた大名に分配したため、豊臣家は摂津・河内・和泉65万石の一大名に転落した。(ただし近年の研究ではかつての直轄領から以後も収入があったとされる)
1603年、家康は征夷大将軍に就任し、実質的に天下人の地位は家康に移った。
同年、秀吉のはからいで婚約していた家康の孫娘・千姫(せん)と秀頼は結婚した。なお千姫の母は淀殿の妹・江姫(ごう)であり、二人は従兄妹同士にあたる。
朝廷からは秀吉の生前と同様に遇されるなど、豊臣家と徳川家は形式的には対等の関係で続いていく。
1611年には「妻の祖父への挨拶」を名目に家康と会見したが、その際に家康は一説に2メートル、150キロ近い巨漢とされる秀頼の偉容を目にし、そのカリスマ性を恐れ自分の生きているうちの豊臣家の滅亡を誓ったともいう。
1614年、死期の迫った家康は後の世の禍根を断つため、方広寺鐘銘事件(豊臣家が「国家安康」と鐘に刻んだのを家康の名を分断する呪詛と見なした)を口実に、豊臣家の討伐を命じた。
秀頼は全国の豊臣恩顧の大名に号令を発したが応じる者はほとんどなく、代わりに真田幸村、長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)、毛利勝永(もうり・かつなが)ら家康に改易された大名やその子ら、後藤又兵衛(ごとう・またべえ)、明石全登(あかし・てるずみ)ら主家を滅ぼされた浪人ら数万が大坂城に集った。
しかし彼らの士気は一様に高かったが寄せ集めのため統制は取れず、淀殿や大野治長ら豊臣家の中枢と対立した。
それでも秀吉自ら築いた大坂城と、名だたる猛将揃いの浪人たちはやはり脅威で、徳川軍を幾度となく撃退し、中でも真田幸村が防備の弱い南に築いた出城「真田丸」は甚大な被害を与えた。
家康は力攻めの愚を悟り、城を遠巻きに囲むと、昼夜を問わず大砲で城内を狙い撃ち心理的な圧力を掛けた。そのうち一発は淀殿の居室を直撃し侍女を殺したため、おびえた淀殿が和睦に応じたとする説がある。
疲弊した両軍はいったん和睦し、家康は大坂城の堀を破壊することを条件にしたが、豊臣家はそれを無視したため、家康は強引に事を進め、堀を埋め立てたのみならず城郭の一部も壊し、城を丸裸にした。
1615年、豊臣家は浪人の追放命令を拒否し、埋められた堀も掘り返し始めたため、家康は再び討伐を命じた。
大野治房(はるふさ)、長宗我部盛親は先手を打って大和郡山を焼き払い、藤堂高虎も撃破したものの、浅野長晟(あさの・ながあきら)らの反撃により後藤又兵衛、木村重成(きむら・しげなり)、塙団右衛門(ばん・だんえもん)ら浪人勢の主力が戦死した。
堀を失い籠城のできない豊臣軍は野戦を挑むほかなく、真田幸村は秀頼の出陣も請うたものの淀殿の反対により実現しなかった。
幸村、毛利勝永、明石全登らの決死の突撃は、あまりに大軍かつ全国から集められたため連携の取れない幕府軍の隙をつき、家康は本陣に肉薄され、徳川秀忠にいたっては柳生宗矩ただ一人を残して周囲が無人になるほどの窮地に立たされた。
しかし幕府軍が体勢を立て直すと衆寡敵せず幸村は戦死し全登は消息を絶った。
勢いのままに大坂城へ攻め入ると浪人らもそれに加わって略奪を始め、天守閣も炎上すると大野治長は千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命嘆願をしたが容れられず、秀頼は千姫を逃がし、母や治長、勝永らとともに自害した。
しかしその場面を見た者はおらず、遺体も発見されなかったため様々な生存説が唱えられることとなった。
千姫との間に子は無かったが、側室との間に生まれた長男で8歳の国松(くにまつ)は城から落ち延びたものの、捕らえられて処刑された。
7歳の娘もやはり捕らえられたが、千姫が助命嘆願し養女にした上で出家させ、天秀尼(てんしゅうに)の名で37歳まで生きた。
また求厭(ぐえん)という僧侶が死の間際に秀頼の次男だと告白したというが、真偽の程は定かではない。
※アイコンは荀彧
豊臣秀長(とよとみ・ひでなが)
尾張の人(1540~1591)
豊臣秀吉の弟。秀吉とは父が同じか否か判然としないが、兄弟仲はすこぶる良く、秀吉は弟を片腕として生涯にわたり信頼し、秀長は兄が関白に上っても正面から異を唱えられる数少ない人物だった。
秀吉は秀長が幼い頃に家を出ており、兄弟が関係を深くしたのは秀長が兄に仕え始めた1564年頃と推定される。
秀吉が出陣している間の留守居役から始まり、次第に重要な務めを任されていった。1573年頃に秀吉と織田信長から一字ずつもらい羽柴長秀(はしば・ながひで)と名乗った(信長の死後に上下を入れ替え秀長に改名した)と思われる。
秀吉が中国地方の司令官になると、秀長は山陰道と但馬方面を任され、この頃に秀吉が黒田官兵衛に宛てた書状で、信頼の代名詞として秀長の通称である小一郎(こいちろう)を用いるなど、秀吉陣営でも副将格の人物に成長した。
中国攻めではあるいは別働隊を率い、あるいは秀吉とともに協力し快進撃を続けた。
1582年、本能寺の変で信長が討たれると撤退を余儀なくされるが、秀吉はいわゆる「中国大返し」で明智光秀を討ち果たし、一躍、天下人への道を上り始めた。
1583年、賤ヶ岳の戦いに勝利すると但馬・播磨の2ヶ国を、1585年に紀州征伐を終えると紀伊・和泉などに約64万石を与えられた。
同年、四国征伐では病に倒れた秀吉に代わり、10万の大軍を率いた。長宗我部元親の激しい抵抗にさらされ、また毛利・宇喜多との連合軍のため侵攻は大いに遅れ、秀吉は援軍を出すか打診したが、秀長はそれを断り苦戦の末に長宗我部家を降した。
報奨として新たに大和を与えられ石高は100万石に上り、さらに後には従二位大納言の官位も得て「大和大納言」と呼ばれた。
大和は長らく筒井家が治めた土地で、寺社勢力も盛んだったが秀長は問題なく統治し、また秀吉の居城の隣国でもあり、晩年は疑り深くなった秀吉が、隣国に百万石を与えながら弟の反乱を全く考慮していないことは、秀長への信頼の厚さを感じさせる。
だがこの頃から秀長は体調を崩しやすくなったようで、湯治に行った記録が急増する。
1586年、これまで秀吉と敵対し上洛を拒み続けてきた徳川家康が、ようやく大坂に赴き、秀長の屋敷に宿泊した。
その晩、秀吉が自ら現れ家康に天下安寧のため臣従を求めたという、まるで創作の出来事のような逸話が複数の文献で確認される。
同年、九州で台頭する島津家に苦しめられた豊後の大名・大友宗麟(おおとも・そうりん)が、豊臣軍の出馬を願い上洛した。
秀吉は歓迎し「内々の儀は千利休が、公儀のことは秀長が存じ候」と述べたという。
九州征伐軍は先陣を切った仙石秀久(せんごく・ひでひさ)が失策し大敗したものの、後続の秀長・秀吉率いる20万の大軍は圧倒的な兵力差で島津軍を破り、九州統一も果たした。
しかし秀長の病はいよいよ悪化し、1590年の小田原征伐には参戦できず、翌1591年1月、52歳で没した。
男子がいなかったため養嗣子となっていた甥(姉の子)の豊臣秀保(ひでやす)が跡を継いだが彼も4年後に早逝し、秀長の家系は断絶した。
秀吉は豪奢な暮らしを好んだが、秀長は蓄財を重んじ、死後には金子が5万6千枚、銀子は2間四方の部屋が満杯になるほど備蓄されていたという。
温厚な人柄で、諸大名と秀吉との間の折衝役も務めていた秀長の死を契機に、秀吉は独断専行を深め、判断の誤りを随所に見せていく。
秀長の死からわずか1ヶ月後には千利休に切腹を命じ、文禄・慶長の役を強行し諸大名の怨嗟を買い、後継者に迎えていた豊臣秀次(ひでつぐ)も殺し、しかも多くの大名を連座で処分するなど、後の豊臣家滅亡の引き金となる失策を次々と打った。
そのため秀長がもし長命を保っていれば、あれほど早く徳川家康の台頭を招くことも、豊臣家を滅ぼすことも無かったろうと言われる。
※アイコンは孫綝
豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)
尾張の人(1568~1595)
豊臣秀吉の姉ともの長男。秀吉の養嗣子となり関白まで上り詰めるも、謀叛を疑われ切腹を命じられた。
幼少期は調略のための人質として使われた。4歳の時に浅井長政に仕えていた宮部継潤(みやべ・けいじゅん)を調略するためその養子となり、宮部吉継(よしつぐ)を名乗らされた。(本文では秀次で統一する)
継潤はその後、秀吉の重臣となり、また秀次の傅役に任じられた宮部家の田中吉政(たなか・よしまさ)は、秀次の腹心として長きにわたり補佐することとなる。
次いで時期は不明だが三好康長(みよし・やすなが)の養子になり三好信吉(のぶよし)と改名。
1582年頃に康長が第一線を退き、その嫡子も消息を絶つと、河内北山2万石とともに実質的に三好家を継いだ。
父の弥助(やすけ)は百姓の身から名家の跡継ぎが生まれたのを喜び、自らも三好姓に変え三好吉房(よしふさ)を名乗った。
また秀次は本能寺の変後に織田家の重臣である池田恒興(いけだ・つねおき)の娘を正室に迎えており、これも調略の一環である。
秀次は弱冠15歳ながら、親類の少ない秀吉にとって弟の豊臣秀長(ひでなが)に次ぐ一族の年長者ということもあり重用された。
しかし1585年、小牧・長久手の戦いでは徳川家康の奇襲により、岳父の池田恒興と義兄の森長可(もり・ながよし)が戦死した。
総大将を務めていた秀次は、秀吉から激しく叱責され「今後も無分別なら手討ちにする」とまで言われた。これを後の失脚の遠因ととらえる研究も多い。
その後は紀州征伐、四国征伐を無難に終え、与力大名と合わせて43万石を与えられた。
かつての安土城にほど近い近江八幡に八幡山城を築き、善政を布いたと言われ現在でも住民からは慕われている。
1587年、九州征伐では秀吉の名代として留守を預かり、1590年の小田原征伐では病身の秀長に代わり副将を務めた。
小田原城の陥落後には奥州平定を命じられ、葛西大崎一揆や九戸政実(くのへ・まさざね)の乱を鎮圧した。
織田信雄(おだ・のぶかつ)が失脚すると尾張・伊勢の旧領を与えられ石高は100万石に上り、居城を尾張清洲城に移した。
翌年、秀長が没し、さらに秀吉の嫡子・鶴松(つるまつ)も没すると、秀次は秀吉の養嗣子となり豊臣家の家督相続を約束された。
秀吉は明・朝鮮への遠征に専念するため関白の座を秀次に譲ることを考え、性急に秀次の官位を引き上げさせた。
またこの頃に5ヶ条の誓文を与え、秀吉は自らの欠点である「茶の湯、鷹狩り、女遊び」の3つを挙げ「秀吉の真似をするな」と厳命したとされる。
同年末に秀次は関白に就任したが、太閤となった秀吉は実権を渡さず、二頭政治の体制をとった。
ところが1593年、秀吉に第二子の豊臣秀頼(ひでより)が産まれ、秀次の立場は微妙なものとなる。
秀吉の喜びようは大変なもので、非公式な発言ながら「日本を5つに分け4つを秀次に、1つを秀頼に与える」「秀頼と秀次の娘(当時1歳)を結婚させる」など口走ったことが山科言経(やましな・ときつね)らの日記に残されている。
それでも表面上は良好な関係が続いたものの1595年、突如として秀次に謀叛の嫌疑が掛けられた。
秀吉は石田三成らを遣わして詰問し、出頭を命じたが事実無根と憤ってか秀次はそれを拒否した。
続いて元養父の宮部継潤や山内一豊(やまのうち・かずとよ)らかつての家老ら秀次に親しい者が懐柔すると、ようやく腰を上げ秀吉の待つ伏見城に向かった。
だが秀吉は面会を許さず、まず高野山へ入るよう命じた。秀次はすぐに剃髪し高野山へ入り沙汰を待った。
秀次の側近や妻子は監禁され、あるいは自害を、あるいは処刑を命じられ、他家に身柄を預けられる者も多くいた。
そして7月、ついに秀次にも自害を命じられた。
身柄を預かっていた木食応其(もくじき・おうご)は寺法に照らし合わせ引き渡しを阻止しようと試みたが、秀吉の怒りを恐れる衆徒と揉め、福島正則に高野山ごと取り潰される可能性もあると恫喝に等しい説得を受け、秀次も覚悟を決めたためやむなく引き渡した。
秀吉は秀次の自害だけで許さず、その妻子・侍女ら43名も処刑を命じた。
遺体はまとめて一つの穴に放り込まれ、その上に秀次の首塚を築き「秀次悪逆」と彫った。秀次は悪評が立ち「殺生関白」と呼ばれていたことから塚は「畜生塚」と蔑まれたという。
木村重茲(きむら・しげこれ)や前野長康(まえの・ながやす)ら秀吉の古参の家臣で10万石を超える大名も連座させられ、里村紹巴(さとむら・じょうは)、曲直瀬玄朔(まなせ・げんさく)ら武士ではない懇意の者も遠流となった。
秀次の縁戚の浅野幸長(あさの・よしなが)はまだしも、秀次に借金こそしていたが秀次家臣の縁戚でしかない細川忠興(ほそかわ・ただおき)も罪に問われ、また最上義光(もがみ・よしあき)の15歳の娘は秀次の側室になることが決まっていただけで、嫁入りもまだだったが容赦なく処刑された。
縁故の者をのきなみ処分すると、秀吉の怒りは住居にまで向かい、秀次が起居した聚楽第や、すでに京極高次(きょうごく・たかつぐ)が居城にしていた近江八幡城まで破却された。
これら度の過ぎた処罰により秀吉は諸大名に憎悪され、また徳川家康が秀吉への取りなしに奔走してやったため、後の関ヶ原の戦いの折、浅野幸長、細川忠興ら豊臣恩顧の大名の多くが家康率いる東軍につく遠因ともなった。
秀次の謀叛の意志の有無、「殺生関白」と呼ばれたとする悪評の有無は専門家の間でも意見が分かれ、いまだ決着を見ていない。
※アイコンは趙範
戸田勝隆(とだ・かつたか)
出身地不明(??~1594)
豊臣秀吉の早くからの重臣で「羽柴四天王」に数えられる。
秀吉の主要な戦のほとんどに名を連ねたほか、各地の奉行を務め、千利休の茶会に参加するなど政治・文化面にも長じた。
四国征伐後の1587年、伊予大洲に7万石を与えられたが、国人衆や民衆の反発を招き、すぐに一揆が起こった。
勝隆は元の伊予の大名である西園寺公広(さいおんじ・きんひろ)が黒幕と考え、暗殺を決意した。
本領安堵を許す秀吉の偽の朱印状を渡し、自邸に招いたが、公広はこれを怪しみ10名の家臣を連れてきた。
勝隆は言葉巧みに家臣を引き離し襲撃させたが、公広は奮戦し9人もの道連れを出した末に自刃して果てた。公広の家臣も主君の死を知るや激昂して戸田軍に襲いかかり50余名を殺した後に全滅したという。
ともあれ黒幕を討った勝隆は、国人衆に人質を出させ、武芸に優れた者はおびき寄せて殺すなどの圧政で一揆を抑え込んだ。
一方で浪人していた武芸者や、預けられていた罪人などを雇っては力を蓄え、戦のたびに手柄を立てた。
文禄の役でも活躍したが、在陣中に病死した。跡継ぎはなく、戸田家は無嗣改易となり、領地は隣接する藤堂高虎の領地に組み入れられた。
かつて勝隆には息子がいたが、勝隆が鷹狩りに行っている最中に、幼い息子は刃物をいじって身体を傷つけ死んでしまった。
報告を受けた勝隆は「自分の刃で傷つくような者など成長しても役に立たぬ。わざわざ帰ることもない」とそのまま鷹狩りを続けたという。
また弟の戸田勝成(かつしげ)も猛将として名高く、関ヶ原の戦いで石田三成に味方し奮戦したものの討ち死にしている。
※アイコンは閻宇
滝川雄利(たきがわ・かつとし)
伊勢の人(1543~1610)
伊勢北畠家の一族である木造家に生まれたとされるが父や確かな血筋は定かではない。
はじめは僧侶として木造家に仕えたが1569年、織田信長が伊勢に侵攻すると織田家の重臣・滝川一益(かずます)に才を見出され、木造具政(こづくり・ともまさ)の調略に貢献したため(雄利は具政の三男とする説もある)一益に娘婿として迎えられた。
その後は北畠家に養嗣子として入った信長の次男・織田信雄(のぶかつ)に仕え、1576年には北畠家の当主・北畠具教(きたばたけ・とものり)の近習を買収して刀を抜けないように細工をさせ、剣豪で知られる具教を無抵抗で暗殺した。
1578年、信雄は独断で伊賀を攻めるが大敗を喫し、信長に一時は勘当を検討されるほど叱責された。
1581年、再度の伊賀侵攻では国人衆を調略して勝利に貢献し、戦後には伊賀守護に任じられた。
1582年、信長が本能寺で討たれた後も信雄に従い、小牧・長久手の戦いでは羽柴秀吉の内応の誘いも蹴った。
戦後には秀吉に仕えていた滝川一益を通じて交渉し、信雄と秀吉の和睦を成立させ、秀吉からは徳川家康への和睦の使者も任された。
秀吉にも気に入られ羽柴姓を賜り、信雄が改易された後も処分を免れ伊勢神戸2万石を領した。
秀吉の御伽衆に列し、1595年に豊臣秀次(ひでつぐ)が処刑された際には連座したものの叱責されただけで済んだ。
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍につき、本戦には出なかったものの戦場に近い居城を守り、戦後に改易され僧侶に戻った。
しかし家康に呼び戻されて還俗し、常陸片野2万石を与えられ、御伽衆を務めた。
1610年に68歳で没した。
特筆すべき際立った才能も活躍も見受けられないにも関わらず、信長・秀吉・家康ら三人の天下人に厚遇された稀有の人物である。
家督は長男の滝川正利(まさとし)が継いだが、病弱で嗣子もなかったため1万8千石を幕府に返上し、以降の滝川家は旗本として幕末まで存続した。
また滝川一益の家系はさらに前に没落しやはり旗本となっている。
※アイコンは禰衡
木村吉清(きむら・よしきよ)
丹波の人(??~1598)
豊臣秀吉の重臣。
はじめは荒木村重(あらき・むらしげ)に仕えた。
村重の反乱後は明智光秀に仕え、1582年の山崎の戦いで光秀が敗れると、秀吉に取り立てられた。
亀山城の受け取りの際に手際が良かったことを、秀吉の母の大政所(おおまんどころ)が気に入ったという説がある。
行政手腕に優れ、太閤検地の奉行を務め、1590年の奥州仕置で戦功も立てると、それまでの5千石から一気に30万石の大名へと大抜擢された。
秀吉は会津42万石を与えた蒲生氏郷(がもう・うじさと)と吉清を招くと二人の手を握り「氏郷は吉清を子とも弟とも思い、吉清は氏郷を父とも主と頼め。奥州の非常時に備え、もし反乱が起これば伊達政宗に先陣をさせ、氏郷は後陣を務めよ」と命じた。
吉清の領地はかつて葛西・大崎家が治めていたが、伊達政宗を警戒し、秀吉の小田原征伐に参戦しなかったため改易となっていた。
葛西・大崎の旧臣はそれに根強い不満を抱いており、また吉清は彼らの反乱を恐れて家臣に雇わず、浪人を雇ったり配下の足軽を昇進させていたが、にわかに地位を得た彼らは増長し、領民を弾圧してしまった。
旧臣・領民の怒りは爆発し、葛西大崎一揆が巻き起こると、吉清は一揆勢によって捕らえられ幽閉された。
蒲生氏郷と伊達政宗(なお一揆は政宗が扇動したものである)の援軍が駆けつけ鎮圧されたが、吉清は責任を問われ改易となった。
その後は蒲生氏郷の客将として仕え、1598年に蒲生家が宇都宮へ転封となると、吉清は豊後に1万5千石を与えられ大名に返り咲いたが、その矢先に病死した。
余談ながら現在の福島の名付け親は吉清であり、また秀吉が奥州の反乱分子を一掃するため、30万石を治めるほどの器量のない吉清を送り込み、一揆を誘発させたとする陰謀説もある。
※アイコンは孫韶
木村重成(きむら しげなり)
日向の人(1593~1615)
豊臣秀吉に仕え、豊臣秀次(ひでつぐ)の処刑に連座し切腹した木村重茲(しげこれ)の子とされる。
母は豊臣秀頼(ひでより)の乳母で、重成は幼い頃から秀頼の小姓として仕えた。
秀頼からの信頼厚く、7歳で豊臣姓を許され、元服すると年少ながら重要な軍議にも参加した。
1614年、大坂冬の陣では幕府軍を相手に回し一躍名を知られ、和睦交渉では大坂方の正使として徳川秀忠のもとに赴き、その礼節にかなった堂々たる振る舞いを讃えられた。
1615年、大坂夏の陣では長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)とともに八尾・若江方面に進出し藤堂高虎、井伊直孝(いい・なおたか)と対峙。
藤堂軍を撃破し、なおも進撃しようとすると「兵は疲れておりさらに戦えば必ず負けます」と家臣に諌められるも「この程度の勝利は物の数ではない」と、もとより敗北の決まった戦ゆえ、死に場所を求めて突撃を敢行し、井伊軍によって首を取られた。
徳川家康のもとに届けられた首は、髪に香が焚かれており、首級となった折にも相手に不快の念を与えまいとする心配りと覚悟の程に、周囲の者は感嘆したという。
出撃を前に重成は淀殿(よどどの)の侍女の娘を妻に迎えていた。
重成の戦死の報を聞いた時に彼女は妊娠しており、男児を産むと出家し、重成の一周忌を終えるや自害し、男児は馬淵(まぶち)家に引き取られたという。
~戦国一のイケメン~
美男子としてのみならず人格もイケメンな重成のイケメンエピソードをいくつか紹介する。
年若く身分も低い重成は侮られ、ついには茶坊主にまで侮辱された。だが重成は「本来ならば無礼討ちするところだが、そうすれば私も責任をとって切腹しなければならない。私は秀頼公のために死ぬべきで、お前ごときのために死ぬことはできないのだ」とあえて笑ってみせた。
冬の陣で初陣を飾った重成は、弾丸よけの盾を渡されると「たとえ矢玉は逃れられても運命からは逃れられない」と言い、盾を捨てて突撃し敵将の首を挙げ自陣に凱旋した。
だが家臣が戻っていないと聞くや戦場に取って返し、救出すると自ら殿軍を務め無事に引き上げた。
「智・仁・勇の三徳を兼ね備えている」と讃えられ秀頼からは褒美と感状を与えられたが「このたびの武功は私一人の働きによるものではありません」と辞退し、感状も「他家に仕えるつもりはない」と返した。
同じく冬の陣で、重成の軍は真田幸村の兄・真田信之の軍と対峙した。
幸村の年若い甥が先頭切って攻め寄せると、幸村は「木村殿に討ち取られたなら兄や甥も喜ぶでしょう」と構わず狙い撃ちするよう勧めたが、重成は「いつか和睦し再会する日が来るでしょう」と逆に家臣に銃撃を禁じた。
※アイコンは劉劭
木下勝俊(きのした・かつとし)
尾張の人(1569~1649)
豊臣秀吉の正室ねねの兄にあたる木下家定(いえさだ)の嫡子。
縁戚の少ない秀吉からは一門衆として重用された。
1600年、関ヶ原の戦いでは東軍につき伏見城を守るも、開戦直前に城を抜け出し鳥居元忠(とりい・もとただ)らを見殺しにした。
和歌の腕に優れたため細川幽斎(ほそかわ・ゆうさい)と同じく天皇の意向で脱出を命じられた、懇意だった叔母のねねが西軍を支持していたため戦闘放棄した、など諸説あるがいずれにしろ勝俊の名声は地に落ち、改易され妻からも離縁された。
1608年、父が没するとねねの働きかけで遺領を継いだが、幕府は弟の木下利房(としふさ)に継がせるよう命じており、それに背いたかどで勝俊・利房はともに改易となった。(なお利房は後に大坂の陣で武功を立て遺領を受け継いでいる)
勝俊は隠棲し、ねねの開いた高台寺の隣に堂を建てると長嘯子(ちょうしょうし)と号し歌道に専念した。
その腕はやがて「近世の歌道は長嘯子に始まる」とまでうたわれるほどになった。
伊達政宗や小堀遠州(こぼり・えんしゅう)ら大名、林羅山(はやし・らざん)や春日局ら幕府の重鎮、藤原惺窩(ふじわら・せいか)ら当代一流の文化人と交流し、後世にはかの松尾芭蕉にも少なからぬ影響を与えたという。
1649年、81歳で没しねねの眠る高台寺に葬られた。
※アイコンは花関索
蒲生氏郷(がもう・うじさと)
近江の人(1556~1595)
六角家の重臣・蒲生賢秀(かたひで)の三男。
1568年、六角家が織田信長に滅ぼされると、蒲生家は氏郷を人質に出し臣従した。
信長はその目を見ただけで氏郷の素質を見抜き、娘婿として迎え入れる約束をしたという。
禅僧に学問を、斎藤利三(さいとう・としみつ)に武芸を習い、元服の際には信長が自ら烏帽子親を務め、織田家当主が代々名乗ってきた「弾正忠」から忠の字を与え忠三郎(ちゅうざぶろう)と名乗らせ、初陣を果たすと約束通り娘の冬姫(ふゆ)を嫁がせた。
氏郷は早くから頭角を現し、織田家の主要な戦のほとんどに参戦した。
1582年、信長が本能寺で討たれると、氏郷は安土城にいた父に信長の妻子を保護させ、居城の日野城に迎え入れ籠城した。
明智光秀は近江半国を譲ることを条件に降伏の誘いを掛けたが、賢秀は断固として拒絶し「日野の頑愚殿」と後に呼ばれた。
光秀は間もなく「中国大返し」によって畿内へ戻った羽柴秀吉に討たれた。
賢秀は同年に氏郷に家督を譲り、蒲生家は以降、秀吉に従い主力として戦った。
指揮官でありながら前線に出ることを好んだ氏郷はしばしば窮地にさらされ、1584年の小牧・長久手の戦いでは氏郷の戦法を熟知する木造具政(こづくり・ともまさ)に狙い撃たれ、兜に3発の銃弾を受けたり、1590年の小田原征伐では北条氏房(ほうじょう・うじふさ)の夜襲を受け、あわてて近くにいた家臣の甲冑を借りると単身で敵兵の背後に回り槍を振るった、などの逸話が知られている。
また小田原征伐に先駆けては、勇猛で知られた佐々成政(さっさ・なりまさ)がかつて用いた「三階菅笠」の馬印の使用を秀吉に願い出るも「成政に劣らぬ働きをすれば許そう」と言われたため、討ち死にを覚悟し肖像画を残すなど死後の準備を整えた上で出陣し、前述の無双の働きを見せ、秀吉に「三階菅笠」の使用を認めさせた、とされる。
秀吉の天下統一がなると、氏郷は伊達政宗への抑えとして陸奥会津92万石を任された。
秀吉は氏郷と腹心の木村吉清(きむら・よしきよ)を呼び寄せると二人の手を握り「氏郷は吉清を子とも弟とも思い、吉清は氏郷を父とも主とも頼め。京へは出仕せず奥州で反乱が起これば伊達政宗に先陣を切らせ、氏郷は後陣に続き非常に備えよ」と諭したという。
氏郷は言いつけを忠実に守り、大崎・葛西一揆や九戸政実(くのへ・まさざね)の乱では自身は後方から指揮をとった。
1592年、文禄の役では肥前名護屋まで出陣したが、重病にかかり翌年に帰国した。
症状は日に日に悪化していき、秀吉は名医の曲直瀬玄朔(まなせ・げんさく)に診させたり、前田利家や徳川家康にも名医を派遣するよう命じたが1595年、養生の甲斐なく40歳で没した。
家督は嫡子の蒲生秀行(ひでゆき)が継いだが1598年、家臣の間の対立などを理由に下野宇都宮12万石への大減封を命じられた。
背景には秀行が家康の娘をめとっていたため徳川陣営の切り崩しであるとの説、16歳と幼く父ほどの器量がない秀行に92万石を任せるのに不安があった、などの他に氏郷の未亡人・冬姫に秀吉が懸想したものの、出家し袖にされたのを恨んだ、というものまである。
蒲生家は秀行が30歳で没し、跡を継いだ蒲生忠郷(たださと)、その弟の蒲生忠知(ただとも)も揃って早逝し、あえなく断絶した。
~~完璧超人・蒲生氏郷~~
氏郷は自ら槍を振るう武芸、会津統治に見せた政治能力、千利休の七大弟子(利休七哲)に数えられる教養の他、家臣思いの逸話や他者との興味深い関係を示す逸話が死ぬほど残っているのでいくつか紹介する。
蒲生家では月に一度、家臣を氏郷の屋敷に招き会議を行った。無礼講で自由な発言を許し、散会後には当時は最高級のもてなしとされた風呂を氏郷自らが沸かして家臣を入浴させ、料理を振る舞った。
恩賞として蒲生姓と「郷」の一字をたびたび家臣に与えた。このため蒲生家には外様ながら蒲生姓で名も似た者が非常に多くまぎらわしい。
西村左馬允(にしむら・さまのじょう)という家臣が法度を破り追放されたが、利休七哲に名を連ねる細川忠興(ほそかわ・ただおき)の仲介により帰参した。
氏郷は西村に相撲を取ろうと持ちかけ、西村は手心を加えず二回勝った。誅殺も覚悟していると、氏郷は正直な心に感じ入り逆に加増してやった。
新参の家臣には「銀の鯰尾の兜をかぶり先陣を切る者に負けないよう働け」と話した。その兜の主は誰あろう氏郷自身であり「指揮官は後方にいるのではなく自分が真っ先に敵陣に入り、安全だと教えてやれば家臣はついてくるものだ」と常々語っていた。
会津92万石に移封された時、家臣団に「欲しい俸禄を申し出よ」と命じた。加増を申し立てる者が続出し、計算すると百万石を超えたが氏郷は「なんとか工面せよ」と言うだけで、困り果てた家老は正直に家臣団に現状を伝えた。
氏郷の心意気に感動し加増を辞退する者が相次いだが、氏郷は自身の禄高を9万石まで削り、残りを家臣に振り分けた。
倹約家で知られる前田利家はこの話を聞き氏郷に苦言を呈したという。
一方で軍規には厳しく、馬の沓掛が外れたため隊列を離れた家臣や、見回りに行く間に兜を預けた家臣が持ち場を離れると容赦なく処刑した、とも伝わる。
利休七哲の細川忠興、高山右近(たかやま・うこん)とは特に親しく付き合った。
忠興は7歳下ながら悪口を言い合う仲で、ある時忠興が氏郷のだらしのなさを利休に告げ口していると、障子の裏から氏郷が現れ大笑いし合ったという。
4歳上の右近にはしつこくキリスト教に勧誘され辟易していたが、説教会に招かれると教義に感動し一転して熱心な信者となり、黒田官兵衛を入信させ、臨終の際には右近に看取られた。
秀吉からは旧主の信長の婿ということもあり敬意を払われるとともに警戒され、会津に移封したのは伊達政宗への抑え以外にも、近隣に置いておくのを恐れたともいう。
また「もし氏郷の兵10万と信長の兵5千が戦えば信長が勝つだろう。氏郷が4千人を討ち取ったとしても信長は必ず逃げ延びるが、信長が5人も討ち取ればその中には必ず氏郷の首がある」と、秀吉はもちろん信長も氏郷を最大限に評価していたことを語った。
自身の早逝を嘆いた辞世の句「かぎりあれば 吹ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風(花はいずれ散ってしまう限りある命なのになぜ春の山風は短気にも花を散らしてしまうのか)」は後世の作家に高く評価されている。
100万石近い大禄を抱え秀吉との関係も良好だった氏郷、彼に匹敵する勢いで高禄を得ており「名人久太郎」とうたわれた戦上手の堀秀政(ほり・ひでまさ)、もし両名の内いずれかが生き長らえ、関ヶ原の戦いで西軍に与していれば、戦の趨勢、引いては天下の行方は大きく変わっていただろう。