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夢想大蛇

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戦国列伝―豊臣秀頼  天下人の遺児

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戦国列伝―豊臣秀頼  天下人の遺児


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豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)
河内の人(1593~1615)

豊臣秀吉の三男。秀吉57歳の時の子で、母は淀殿(よど)。
二人の兄はともに夭折しており、多くの側室を抱えながら子宝に恵まれず、老齢にさしかかった秀吉が諦めかけた頃に生まれ、大変喜ばれた。
幼名は拾丸(ひろいまる)で、同じ淀殿の産んだ次男が捨丸(すてまる)だったのにちなみ、また諦めかけた頃の拾い物という意味もあるとされる。
しかし秀吉の子は実在すらあやふやな石松丸(いしまつまる)と娘を除けばわずかに二人、しかもいずれも淀殿との間に生まれており、本当に秀吉の実子なのかという疑問はつきまとい、実父として豊臣家の重臣で淀殿の乳兄弟でもある大野治長(おおの・はるなが)の名が秀頼の存命当時からまことしやかにささやかれていたという。

当時は秀吉の甥にあたる豊臣秀次(ひでつぐ)が養嗣子として関白の地位にあって後継者と目されており、秀吉もゆくゆくは秀次の娘を秀頼に嫁がせ、秀次から秀頼への継承を考えていたが、秀吉と秀次の関係はこじれにこじれ、1595年に秀次は切腹に追い込まれた。
1596年、4歳で早くも元服すると秀吉は自分の死後を案じ、五大老や五奉行を定め、秀頼を補佐する体制を整え始めた。
憂慮は当たり、1598年に秀吉が没すると、徳川家康は禁じられていた諸大名との婚姻を勝手に進めるなどして権力を強め、また豊臣家を支えてきた前田利家の死去、五奉行・石田三成の失脚も重なり家康はいよいよ台頭していく。

1600年、関ヶ原の戦いで石田三成は秀頼の坐す大坂城を本拠地に定め、総大将の毛利輝元(もうり・てるもと)も大坂城に入ったが、東西両軍ともに「豊臣家のため逆賊を討つ」を大義名分にしており、東軍を率いた家康は勝利後も秀頼に臣下の礼を取った。
しかし五大老筆頭の地位を活かし、全国に散らばっていた豊臣家の直轄領をことごとく東軍で戦功を挙げた大名に分配したため、豊臣家は摂津・河内・和泉65万石の一大名に転落した。(ただし近年の研究ではかつての直轄領から以後も収入があったとされる)

1603年、家康は征夷大将軍に就任し、実質的に天下人の地位は家康に移った。
同年、秀吉のはからいで婚約していた家康の孫娘・千姫(せん)と秀頼は結婚した。なお千姫の母は淀殿の妹・江姫(ごう)であり、二人は従兄妹同士にあたる。
朝廷からは秀吉の生前と同様に遇されるなど、豊臣家と徳川家は形式的には対等の関係で続いていく。
1611年には「妻の祖父への挨拶」を名目に家康と会見したが、その際に家康は一説に2メートル、150キロ近い巨漢とされる秀頼の偉容を目にし、そのカリスマ性を恐れ自分の生きているうちの豊臣家の滅亡を誓ったともいう。

1614年、死期の迫った家康は後の世の禍根を断つため、方広寺鐘銘事件(豊臣家が「国家安康」と鐘に刻んだのを家康の名を分断する呪詛と見なした)を口実に、豊臣家の討伐を命じた。
秀頼は全国の豊臣恩顧の大名に号令を発したが応じる者はほとんどなく、代わりに真田幸村、長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)、毛利勝永(もうり・かつなが)ら家康に改易された大名やその子ら、後藤又兵衛(ごとう・またべえ)、明石全登(あかし・てるずみ)ら主家を滅ぼされた浪人ら数万が大坂城に集った。
しかし彼らの士気は一様に高かったが寄せ集めのため統制は取れず、淀殿や大野治長ら豊臣家の中枢と対立した。

それでも秀吉自ら築いた大坂城と、名だたる猛将揃いの浪人たちはやはり脅威で、徳川軍を幾度となく撃退し、中でも真田幸村が防備の弱い南に築いた出城「真田丸」は甚大な被害を与えた。
家康は力攻めの愚を悟り、城を遠巻きに囲むと、昼夜を問わず大砲で城内を狙い撃ち心理的な圧力を掛けた。そのうち一発は淀殿の居室を直撃し侍女を殺したため、おびえた淀殿が和睦に応じたとする説がある。
疲弊した両軍はいったん和睦し、家康は大坂城の堀を破壊することを条件にしたが、豊臣家はそれを無視したため、家康は強引に事を進め、堀を埋め立てたのみならず城郭の一部も壊し、城を丸裸にした。

1615年、豊臣家は浪人の追放命令を拒否し、埋められた堀も掘り返し始めたため、家康は再び討伐を命じた。
大野治房(はるふさ)、長宗我部盛親は先手を打って大和郡山を焼き払い、藤堂高虎も撃破したものの、浅野長晟(あさの・ながあきら)らの反撃により後藤又兵衛、木村重成(きむら・しげなり)、塙団右衛門(ばん・だんえもん)ら浪人勢の主力が戦死した。
堀を失い籠城のできない豊臣軍は野戦を挑むほかなく、真田幸村は秀頼の出陣も請うたものの淀殿の反対により実現しなかった。
幸村、毛利勝永、明石全登らの決死の突撃は、あまりに大軍かつ全国から集められたため連携の取れない幕府軍の隙をつき、家康は本陣に肉薄され、徳川秀忠にいたっては柳生宗矩ただ一人を残して周囲が無人になるほどの窮地に立たされた。
しかし幕府軍が体勢を立て直すと衆寡敵せず幸村は戦死し全登は消息を絶った。

勢いのままに大坂城へ攻め入ると浪人らもそれに加わって略奪を始め、天守閣も炎上すると大野治長は千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命嘆願をしたが容れられず、秀頼は千姫を逃がし、母や治長、勝永らとともに自害した。
しかしその場面を見た者はおらず、遺体も発見されなかったため様々な生存説が唱えられることとなった。

千姫との間に子は無かったが、側室との間に生まれた長男で8歳の国松(くにまつ)は城から落ち延びたものの、捕らえられて処刑された。
7歳の娘もやはり捕らえられたが、千姫が助命嘆願し養女にした上で出家させ、天秀尼(てんしゅうに)の名で37歳まで生きた。
また求厭(ぐえん)という僧侶が死の間際に秀頼の次男だと告白したというが、真偽の程は定かではない。

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